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リバーズエッジ 後

 嵐の一夜が明けた。  カーテンの隙間から漂白された光がさしこみ、きっかり斜め四十五度に木目の床をネガとポジに塗り分ける。  秋山は今にもずりおちそうなだらしない格好でソファーをひとつまるごと占領していた。  悩みなんかさっぱりなさげな寝顔。ありていにいえば、ばかっぽい。  食い物の夢でも見てるのか、時々むにゃむにゃと口元が伸び縮み咀嚼のまねをする。  ソファーの背面に寄りかかり、読書時の癖で片膝立て、惰性でページを操る。  背中合わせに規則正しい寝息を聞きつつ読書に耽る。  床にじかに置いたカップから螺旋を描いて立つ湯気が自堕落な朝の倦怠を誘う。  「んー……や、やめ、後生だからご堪忍をっ」  「秋山?」  ナチュラルに時代錯誤な寝言に不審を抱く。  毛布を掻き毟り、急にもがき苦しみだした秋山につられ腰を浮かす。  「どうした。しっかりしろ」  「そばつゆはスーパー・マルイチの火曜の特売で買ったほうが断然安い、コンビニは割高だからやめとけ……少しは家計考えろ、まり……」  「主婦かよお前。夢の中までせこい」  えらくうなされてるから嫌な夢見てるんじゃないかって勘繰って馬鹿を見た。  襲ってると勘違いされかねない体勢で脱力、腹立ち紛れに頭をひっぱたく。  痛快な音を合図に目が開き、反射的に跳ね起きる。  「……………そっか、泊まったんだっけ……」  寝起きでまだぼんやりしてるらしく、捲れた裾に手を突っ込んで腹を掻く。  「はよう、麻生。朝から眼鏡なんて律儀だな」  「意味わかんねーよ」  油断すれば舟こぎ二度寝しそうな秋山に、もう一杯用意したコーヒーをさしだす。  「飲め。目が覚める」  大人しくカップを受け取り、一口含む。眠気を吹っ飛ばし、顔に浮かぶ疑問符。  「………甘え。なんで?」  気付かなくていいところにばかり気付く。  怪訝そうに口を放してから、そっぽを向く俺をまじまじ観察し推理する。  「砂糖買いにひとっぱしりしてきた?」  「…………」  「お前砂糖使わねーのに……待てよ、っつーことは……俺の?」   「朝は糖分摂取しなきゃ頭働かねえ。特にどっかのだれかのようなばかは」  「照れてる?顔赤い」  憮然として自分のカップに口をつけ、いつもより苦いコーヒーを啜る。  「……冷めるとまずい。早く飲んじまえ」  フローリングの床にカーテンの隙間からぼやけた光がさす。  冷たく静謐な朝の空気が漂う中、秋山と面つきあわせ、苦いのと甘いのそれぞれの嗜好に合わせ淹れたコーヒーを時間をかけ味わう。  現実とまどろみの間でぼんやりすることが許される、一日の始まりの助走の時間。  「何の本読んでたんだ?」  「法医学」   「専門書?ちょっと貸して……うわっ、さっぱりわかんねー!」  「ミステリー好きなら法医学もかじってるだろ」  「基礎教養みたく言うなよ、そりゃ監察医ものも法医学教室の事件ファイルも好きだけどさー……」  俺が横に伏せた本を掠め取ってぱらぱら斜め読みし、秋山がさも大げさに渋面を作る。  秋山の手から本を取り返し、しおりを挟んで閉じてから、向き直る。  「昨日、よく寝れたか」  「ぐっすりと。お前んちのソファーふかふかだもん、トランポリンみてえ。あ、どうでもいいけどトランポリンとポワトリンて似てね?」  わざとらしく尻を弾ませはしゃぐが、目の下には憔悴の隈が浮く。  明け方になってようやく眠りについたのだろうと、リビングからわずかに聞こえてくる物音で推測したけど。  「今何時?」  「八時」  「は!?」  だからそう言った時の秋山の顔ときたら傑作だった。  「八時って、おま、なに落ち着いてんだよ今からマンション出たら完璧完全遅刻じゃん!?電車でも二十分かかるし、そっからまた歩くし、ああくそどうしよう担任怒ってる、お前先起きてたんなら起こせよ、お前は優等生だからいいけど俺なんかこれで遅刻十三回目だぜ、今度遅刻したら両手にバケツ持たせて廊下にフラミンゴ立ちって宣告されてんのに……しまった、制服家だ!?もーどーすんだ」  「サボれよ」  髪掻き毟り騒ぐのをやめ、虚を衝かれ俺を見る。  「俺も付き合う」  優等生の俺の口から不真面目な台詞が出たことが信じられず、きょとんとした秋山を無視し、からっぽのカップを流しへ運ぶ。  「………サボって……どうするんだ」  しばらく経ち、蛇口を捻り洗う背後で、本当に困惑しきった声がする。  ソファーに起き直った秋山が、ずる休みの後ろめたさと学校に行かずに済む嬉しさとが綯い交ぜの複雑な表情で訊く。  跳ね放題の寝癖をなでつける秋山を蛇口を締めて振り返り、抑制した口調で言う。  「行きたいところがある」  俺が住む町には川がある。  マンションから徒歩五分に位置する川は、町を北から西へと蛇行して過ぎって、隣の県へと続いている。  これといって特徴のない普通の川。  別段景観が売りということもない。  街なかに存在するせいで、お世辞にもキレイとは言えない。  水も少なく、不揃いな石が転がる川床がほとんど露呈した状態だ。  孤島のような中州には雑草が生い茂って、コンクリート製の巨大な橋脚の影では、たまに浮浪者がテントを張っている。  よどんだ水が静かに流れる普通の川。  土手に面した川沿いの道は遊歩道となっていて、ジョギングにいそしむ市民や犬を散歩させる飼い主のほかに、徒歩なり自転車なりで登下校中の学生や園児を送り迎えする母親をよく見かける。    今は時間がずれているため、中高生の姿はない。  日課のジョギングで汗を流す人間もいない。  理由は簡単。  夜通し雨が降った直後は川が増水し危険だからで、こんな日に川沿いの道を歩く物好きは、学校をサボると決めた俺と秋山くらいのものだ。  昨日一晩ふり続けた豪雨の影響で水位が増し、轟々と唸り渦巻いている。  普段晒された川床も完全に濁流に隠され、平凡な日常に溶け込んだ川は、まったく別の顔を見せる。  「すっげー、渦潮!」  「川に渦潮は発生しねえよ。地理学び直せ」  「うっせえな、発生したってふしぎじゃねえ荒れ具合ってことだよ!」  「ポーの小説にそんなのあったな」  秋山は平らに均された川沿いの道を歩く。  道のすぐ脇は土手になっていて、その下ではしぶきをあげ濁流が暴れ狂っている。  「近くに川あったんだ。知らなかった」  「駅とは方向ちがうから」  「有名な川?」  「隣の県まで続いてる。けど有名ってほどじゃない」  「怖いな。なんか。落ちたらって考えると」  「足元気をつけろ」  「ガキ扱いすんな」  「十分ガキだよ、はしゃぎやがって」  秋山に遅れて歩く。  秋山はガキみたいに両手をぶん回す。  嵐が去った空は嘘みたいに晴れ渡り、清清しい空気が満ちる。  川沿いの道。土手の反対側には公園や野球場や空き地が点在する。  だけど、今日はどこも静かだ。まだ時間が早いせいもあり、利用者がいない。  俺と秋山と、世界でふたりきりになった気がする。  いつから、どちらから切り出すだろうと、タイミングを計算しつつ時を待つ。  「昨日の事、さ」  口火を切ったのは秋山だった。  俺に背中を向けたまま、俺が貸したオフホワイトのパーカーに両手を突っ込み、続ける。  「………その。悪かった……かな、なんちて」  「なんで謝るんだよ」  「……いや……それは、なあ?」  ばつ悪げに頬を掻く。パーカーに突っ込んだ片肘をのの字に回しつつもぞつく。  居心地悪げな沈黙の理由を悟り、少し愉快になって口の端を上げる。  「なるほど。あの後大変だったんだ、お前」  「どういう意味だよ?」  「俺の部屋出てから一回トイレに行ったろ」  意味深な台詞の裏を読み、両方の耳朶までも真っ赤に染まっていく。  「……しっ……しかたねーだろあれは生理現象だよ男なら誰でもああされりゃああなっちまうんだよ、お前がやたらキス上手いもんだから、色々いじくられて火照って辛かったんだよこっちも!」  「一回イかせてやったのに」  「言うなよ!!」  物凄い剣幕で振り向きざま俺の口を塞ぎにかかるのを素早くかわせば、両手が見事に空振りし、たたらを踏む。  「イかされてねえよ、出しちまったんだよ!!」  「同じことだろ」  「全然ちがうっつの!!」  地団駄踏んで怒鳴り散らす秋山にため息ひとつ、さりげない足取りで横に並び、悪戯めかし囁く。   「躾がいい犬なもんでね、俺は」  だからお前のような失態は犯さないとからかうつもりだったのに、秋山の顔に浮かんだのは笑いとは正反対の感情。怒り。嫉妬。  「………今度そういうこと言ったら、怒るぞ」  険悪に低めた声で牽制。  秋山が憤然と歩みを再開、俺に遅れまじと早足になりつつ食い下がる。   「じゃあお前、あれから寝たのか?普通に寝れたのか?おさまったのか。いや、ならいいんだけどさ……」  「お前のやらしい裸思い出してマスターベーションしたって言や満足かよ?」  「~~っ、どうしてお前は歩きながらそういうこと言うかね、いつだれが通りかかるかわかんねーのに!」  お前をからかうのが楽しいからだという本音は黙っておいた。  秋山と隣り合い川べりの道を歩く。  涼しい風が吹き、髪にじゃれる。  「家に連絡入れたのか」  「…………………いれねえ」  「いれろよ」  「ほっとけ」  「居候の分際でほっとけか。偉そうだな」  下唇を噛む。  強情そうな顔つきで黙りこくる秋山を流し目で一瞥、眼鏡の位置を直す。  「いつまで意地はってんだ。ずっと部屋に居座る気か」  「お前さえオーケーなら。俺、役に立つよ。毎日好きなもん作ってやる。なにがいい?」  「エクスタシー」  「煙草じゃん!!つかまだやめてなかったのかよ!!」  「お前の前じゃ吸わないようにしてただけ。家に一人のときしか吸わねーよ」  「吸ってんじゃん!」   「煙草ぐらいでいちいち怒るなよ。そんなに真面目だったか?」  挑発的に問えば、こみ上げる何かをやっとの思いで飲み下し、ぶっきらぼうに横を向く。  「………ほかの煙草なら怒んねーよ」  梶に教えてもらった煙草だからむきになると、不満が横顔に書いてあった。  「………ひょっとして、弁当とか作ってくの迷惑だった?」  深刻に思い詰め、ふいにそんなことを言い出す。俺が好物をあげなかったから、深読みしたのだろう。  「迷惑とかじゃなくて。今話してんの違うだろ」  「やっぱ迷惑だったんだ。じゃあそう言えよ。そりゃ押し付けがましかったけど、いっつも購買や学食だから体に悪いんじゃねーかって気にして、しかも平気で抜くし、どうせついでだし……男友達に弁当持ってくの変じゃねえかって当日まで悩んだんだぜ、まりに相談したら兄貴イケイケゴーゴー事後報告よろしくって押されたから決心したけど……」  「……お前なあ」  「口に合わなかったらちゃんと言えよ。もう持ってかないから」  完全に拗ねていじけた秋山が、不満そうに口を尖らすのに苛立ち、ブリッジを中指で押さえて表情を隠す。  「……悪くなかった」  「そんだけ?」  正面に回りこみ、図々しくのぞきこんでくる。  納得しない限りは引きさがらないだろう秋山と対峙し、ブリッジから手をはなし、諦めの息を吐く。  「お前の作るもんは、ちゃんと味がする」  圭ちゃんが死んでから何を食べても味けなかった。  こいつと食べる弁当は、ちゃんと味がする。  こいつの味だけは間違えない自信がある。  俺の感想がしっくりこなかったのか、秋山はしきりと首を捻っていたが、もう相手にせず通り越して歩き出す。  「………料理に味があるって、しばらく忘れてた」  大事な人が死ぬと料理の味がしなくなると言ったのはだれだったか。  感傷が過ぎる台詞だと、大げさな表現だと、俺はそれを笑えない。なぜなら、事実だから。  しばらく無言で歩いてると、十五メートル前方に川に突き出した堤防と、対岸とこちら側を繋ぐ沿線の鉄橋が見えてくる。  コンクリート製の堤防へと、どちらからともなく足を向ける。  「……本当にショックなことがあると、何食べても味がわからなくなるよな。親父がいなくなってから、しばらくそんなかんじだった。今でも覚えてる。親父が出てった夜、うち、昨日の残りのカレーだったんだ。お袋はテンパって、夕飯どころじゃなくて、泣いて騒いで、色んなところに電話かけて大変で……まりはにいちゃんおなかすいたって俺の服引っ張って泣き始めるし、仕方ねーから、鍋に入ってた昨日の残りを温め直して食ったんだ。カレーだったのに全然辛くなくて……しょっぱかったの覚えてる」  ゆっくりと息を吸い、吐く。  俺に向けた横顔が緊張する。  ポケットに突っ込んだ手を、きつく握りこむ。  「……今さら……七年もほっといたくせに、ばかにすんなよ」  父親が蒸発してからの歳月を回想する。  母子家庭で苦労した記憶を、辛い体験を、噛み締めるように思い出す。  秋山が背負ったもの、抱え込んでるものを、俺が代わりに持ってやることはできない。  だからただ、こうして寄り添う。  川風に吹かれ、隣に立つ。  視線の先、川のど真ん中に架かる鉄橋に重く鈍い遠雷の残響伴い電車が接近しつつある。  「あいつがいなくなってから、お袋がどんな思いでいたか。親父の分まで朝から晩まで仕事して、俺とまり育てて、近所で陰口叩かれて。まりだって、学校でいじめられて……親父が会社の金持って逃げたせいで、女作ってとんずらこいたせいで、そんなの全然知らなかった俺たちまで白い目で見られて、居場所なくして。俺たちはもう親父なんかいないつもりでやってきたんだ、七年前に死んだもんだと割り切って諦めて家族三人やってきたんだ、なのに今さら金だけ送り付けて、学費にあてろとか父親面しやがって、自分はどっか遠くで女といちゃついてるくせに……七年越しの手切れ金ってか?」  ポケットに隠した手をきつくきつく握りこむ。  表情に亀裂が入り、深く伏せた顔に沸々と憎悪と憤怒が滾りたつ。  「……死んじまえ。クソ親父」  住所が書いてあったら今すぐぶん殴りにいくのに、それさえできない。  「……腹が……立つよ、すっげえ。だってこんなの、ずりい……あいつがいなくなってから、最初から三人だったつもりでがんばってきたのさ。金……住所書いてねえから、送り返すこともできない。出てった時とおんなじ、一方的。お袋はお人よしだから、いい事なら覚えてりゃいいって言うけど、俺、むりだ。親父のことなんかもう殆ど覚えてねえし……覚えてるの、カレーの味で。メモで。あの日の印象が強すぎて、他みんな薄れちまって、上手く思い出せねーんだ」  鉄桁を車輪が滑走し、雷鳴のような心音のような轟音が次第に大きく鼓膜に反響する。  憎しみと怒りと哀しみともどかしさとが入り混じって、沸騰する。  「覚えていたくたって、思い出せねーよ」  「秋山。大学行け」  ポケットに手を入れたまま、秋山がこっちを向く。  同時に橋上を電車が通過する重低音が断続的に響き、旋風を巻いて最高潮に達する。  「………は?」  「家族を捨てた父親が憎いんだろ。なら利用してやれ」  「なに言って……頼りたくねえって、話聞いてなかったのか」  「行きたいんだろ?」  「無理、だって俺ばかだし、お前みたく頭よくねえし」  「つまらない芝居はやめろ。バレバレなんだよ。他の連中はともかく、俺を騙せるとおもったか」  「俺のことばかばかって口癖みたく」  「いっつも人のことばっか考えて、本当の自分を殺して生きるようなやつがばかじゃなくてなんだ」  落ち着き払って現実をつきつければ、言い返そうとした秋山が口を噤み、鬱屈したまなざしをふっと外す。  「……俺、さ。中途半端だから」  いつもの明るい笑顔を限りなく薄め、自虐と諦観が複雑に交じり合う翳りをはにかみの中ちらつかせ、小石を蹴飛ばす。  怒りと失笑が綯い交ぜとなった、絶望とも失望ともつかぬ壮絶な顔で、言う。  「頭のよさも半端で。高校受かったのもまぐれで。めちゃくちゃ頑張ればそこそこはイケるかもしんねーけど、奨学金ねらえるほど頭よくないって悟っちまったんだ。早々に諦めて、努力もしねえことにした。奨学金って、俺よりもっと辛い状況で頑張ってるヤツが貰うべきだよな……いや、それも建前で。ぶっちゃけ、そこまでして大学行きたいのか自分でもよくわからなくて。行ってどうすんだよって、誰かが心の隅で囁くんだ。大学行ってしたいこと大学出てしたいことはっきりしてねえのに、親に苦労かけてまで進学なんて……」  「やりたいことを見つける場所かもしれない」  「……行けるもんなら行きたいって、少しも思わなかったっていや嘘になる。だけどそのたび打ち消して……俺にはむりだって、高望みだって、諦めるほうが簡単だった。高校出たら地元に就職して、今までどおり、お袋と妹支えながら暮らす。親父がいない分、親父の分まで……人生、納得してたのにさあ。いつから気付いてた?」  「クラスの連中が大学の話すんの、羨ましそうに見てたろ」  「マジで?」  「自覚なしか」  川に架かる橋を電車が渡り視界が翳る。  鉄橋を走り去る電車が風を巻き起こし、大気を震わせ鼓膜を叩く重厚な残響が消え去るのを待たず、なんとも形容しがたい顔の秋山に詰め寄る。  「もう我慢すんな」  俺より華奢で細い腕。掴んで抱き寄せ、言い聞かせる。  「もう三年だぜ。今さらあがいたってむりだよ、間に合いっこねえ」  「勉強教える。つきっきりで」  「麻生、」  「今度はお前がボーダーラインをとんでみせろ」    俺を引き止めたのが秋山の言葉なら  俺は言葉で、秋山の背中を押す。  「やるだけやってから諦めろ。あがいてあがいてあがききってみろ。無理ってのは今のお前がしてることだよ、本当は納得なんかしてねーくせに割り切ったふりすんな、家族のために地元に就職とか大義名分に逃げるな、優しさの使いどころ間違えてるんだよ、そんなことされたって迷惑だって気付かないのか?」  「お前に何が、」  「誰かのためって口実は誰かのせいって言い訳と互換可能だ」  秋山が狼狽し、拒絶と拒否の意志を示し首を振る。  「……ッ、ほんとはわかってた、あの金……ずるして稼いだもんじゃないって、一枚一枚働いて稼いだもんだって、一目見てわかったんだ。手垢がついて、皺くちゃで、大事にためてたのがわかったから……余計にどうしたらいいかわかんなくって、頭がぐちゃぐちゃんなって」  秋山の顔が歪み、こぶしで俺の肩を叩く。  七年間、降り積もった怒り哀しみ全てを吐き出すように、絶叫する。  「憎めばいいのか許せばいいのか、わかんなくなったんだよ!」  父親は、決して自分を、家族を忘れたわけじゃなかった。  分厚い封筒にぎっしり詰まった皺くちゃの一万円札を見た秋山の絶望と安堵は、どれほどだったろう。  父親は家族を捨て家を出た事を七年間ずっと後悔し続けて、罪悪感を抱き続けて、娘が高校へ上がる年と息子が大学に上がる年をちゃんと覚えていて、手垢まみれの万札を送金した。  差出人名が空欄だったのは、父親と名乗る資格がないと自らを戒めたから。  欺瞞と愛情の線引きはいつだって曖昧で、どちらか一方が嘘で一方が真実だと、白と黒に分けて断罪できない。  ボーダーラインを引けないことだって、この世には存在する。  「俺をこっち側に引き戻したのはだれだ。お前だろう」  秋山の目に映る俺は、たしかにボーダーラインのこっち側にいて。  妥協を許さぬ透徹した眼差しを、目の中から撃ち返す。  「今度は俺が引っ張ってやるから、安心して飛べ」  憎しみに押し流されそうになったら、お前の手を掴んで、引き戻してやる。  秋山の体が弛緩し、次第にずりおちて地面に膝をつく。  俺のシャツの裾を掴んだまま、地面に跪き、力なく笑う。  「………かっこつけすぎ」  「今のは本音だ」  シャツの裾を掴んでへたりこむ秋山を立たせ再び歩き出せば、背後から声が追う。  「お前は卒業したらどうするんだ」  人に言うのは初めてだ。  言うなら一番最初はこいつと決めていた。  「………なりたいもんができた」  「え、何なに?」  「監察医」  秋山が驚く。  目を丸くして俺に追いつくや、貧困なボキャブラリーですげーすげーと連呼する。  「監察医って、警察で死体を解剖して事件性とか死因を調べるアレか!?お前監察医になんの!?すっげー、マジ!?なんで?」  無邪気に興奮し歓声をあげ、少しだけ殊勝な面持ちになって、さぐるように声を落とす。  「やっぱ、圭ちゃんの事件が関係あるのか」  「それもある」  否定はしない。  監察医を志す動機には、六年前、警察がもっと詳細に圭ちゃんの死体を調べてたらという割り切れない想いも幾分か混じっているが、それがすべてじゃない。  「……本読んで、興味が湧いて。今の監察医制度ってお粗末なんだよな、驚いた。自治体と連携とれてない面もあるし……」  「自分が監察医んなって変えてやるって?かっくいー。白衣似合いそうだな」  にやにやとはやされて、仏頂面で眼鏡のフレームに触れる。  「きっとなれるさ。がんばれ。参考に俺いちおしの監察医ミステリー貸してやる、須藤武雄なんて読み物としても面白いぜ」  「お前もがんばるんだよ」  お気楽な秋山を小突く。  大げさに痛がるふりで頭を抱え、俺が振り上げたこぶしから逃げ堤防の突端で立ち止まって深呼吸、川のほうへと啖呵を切る。  「聞いてるか、クソ親父!!日本のどこにいようがいつか必ず見つけ出してぶん殴ってやっから、絶対生きてろよ!!」    再び電車が通過し、余ったパーカーの裾が轟風にうるさくはためく。  強風に立ち向かいつつ叫ぶ秋山、自分たち家族を捨てて女と逃げた父親に対し「死ね」と言わず「生きていろ」と願を掛ける。  精一杯声を張り上げ前を向き、葛藤を乗り越えての決断にこぶしを固め、障害だらけの人生に挑み立つ。  「見返してやる、あんたなんかいなくてもやってけるって証明してやる、あがいてあがいてあがききる、そんでもってぶん殴りにいく!!」  それは妥協ではなく、克服の意志。  どこまでも真っ直ぐな、お前の。  まぶしくて直視できないほどの。  毅然と逆境に対峙し乗り越えていく姿勢が、白い息吐き屋上にやってきた残像と、俺の手を握り締め説得する必死な形相と被る。  憎しみに折り合いをつけることと妥協は同義じゃない。  詭弁と揶揄されようが欺瞞と非難されようが、秋山を見てるとそう思う。  秋山には秋山なりの折り合いのつけかたが、けじめのつけかたがあると。  憎みたくても憎みきれない、許したくても許せはしない、世界でただ一人の父親に対し最大限の譲歩と不敵な挑戦状を叩きつける。  鉄橋をけたたましくがたつかせ越境する電車の轟音に吹き散らされまじと、七年間積もりに積もった憎しみ哀しみ体の底に溜まった澱を全部全部吐き出すように、堤防に当たり砕け怒涛を打つ川に乗り出し渾身で叫ぶうち、バランスを崩す。  「!?っあ、」  ぐらつき前傾、堤防から転落しかけたその体を慌てて引き戻す。  「危なっかしいんだよ、ばか」  両腋に腕を入れ後ろに引き戻せば、踵でコンクリを削って引きずられるがままに、秋山が白い歯を見せる。  「お前も叫べば?気持ちいーぜ、すかっとする」  「付き合ってらんねえ」  「照れてんのか」   勝ち誇る秋山に鼻を鳴らしずり起こす時、気弱げな囁きが落ちる。  「……一緒の大学行けるかな」  俺と目が合わぬよう俯いた秋山が、頬を赤く染め、呟く。  「むりだろ」  「即答かよ!?嘘でもいいから行けるとか頑張り次第とか、ほかにもっと言いようが」  ごねる秋山の腹に腕を回し、うなじに顔を埋める。  遠くに架かる鉄橋から届く断続的な電車の音。  川の匂いがする風を浴びながら、秋山を抱きしめ、耳元で言う。  「……手伝うから。やるだけやってみろ」  俺の腕の中で秋山が力を抜き、素直に身を任せる。   「………譲って、実は優しいな」  秋山が首だけ捻って俺を仰ぎ、してやったりとほくそえむ。  昨日俺に抱かれぐずっていた時から一皮剥けた笑顔は大人びて、しなやかな強さをやどしていた。    今すぐ答えはださなくていい。  いそがなくていい。  川沿いの道を歩く速度で、ボーダーラインを歩いていこう。  振りきって振りきって振りきって  それでも振り切れないものとは折り合いをつけて生きていくしかないと、そう教えてくれたのは秋山だ。  俺をおいていった人間に対する恨みや憎しみや裏切られた喪失感や、そういったもの全部と、これから一緒に生きていく。    「………お前がいるなら」  「え」  「なんでもねえ」  お前がいるから、どっちに墜ちるかわからないボーダーラインの上を歩いていける。  振りきって振りきって振りきって、それでも振り切れない過去の悪夢や罪悪感とは、どこまでも一緒に生きてやる。  生ききってやる。     ボーダーラインを歩くのは、リバーズエッジにだけ許された特権。  できるなら、叶うなら、もう少しこのままで。

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