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スタンドバイミー B面
おいてかれるくらいならおいてくほうがいい。
後ろ指をさされて臆病と嗤われても、そのほうがいい。
「歩くの速くね?」
「お前が遅いんだよ」
「ひとをどんくせえみてえに言うなよ」
「どんくせーんだよ」
文庫本の活字に目を落とし俯き加減に歩けば、秋山の不満げな声と油さしたての車輪が快調に回る音が追いかけてくる。
雑草が生い茂った土手べりの通学路は下校のピークを過ぎて閑散としている。西空は燃えるような茜色だ。
片手で少しずれ始めたマフラーを巻き直す。小脇に挟んだ鞄には教科書とノートが詰まってる。
秋山がぱたぱたと小走りに追いかけてくる。少し遅れてついてくる足音に優越感と安心感を半々におぼえちまうあたり俺は性格が悪いんだろう。
自覚はなかったが、秋山の指摘によると俺の足はだいぶ速いんだそうだ。
本に夢中になるとまわりが見えなくなるのは悪い癖だとも言われた。
いつだったか、同じことを圭ちゃんに言われたことがある。
譲は本当に本が好きだねと苦笑がちに言う圭ちゃんに嫌味な感じは全然なくて、ありのままの俺を理解してくれてるのが素朴な笑顔から伝わってきて、子供心になんだか面映ゆかったのを覚えている。
俺はまた無意識に秋山と圭ちゃんとを比べている。
どっちが上位で下位だとかつまんない序列に組み入れてこいつの存在を貶めちまう悪循環に心底辟易してるのに、こいつがなにげなく言い放つセリフが俺の記憶を覗いてるのかと邪推したくなるほど圭ちゃんとかぶるせいで時々無視できなくなる。
「なー、せっかくなんだからおしゃべりしようぜー。本なんかいつでも読めるじゃんかよー」
「『なんか?』」
振り返り、秋山を睨みつける。
「自称活字中毒らしからぬ発言だな。元ミス研部長の肩書が泣くぞ」
「そういう意味じゃねえって」
「じゃあどういう意味だ」
「本見ながら歩くなよ危ねえだろ、車に轢かれちまったらどうする」
「盾にする。お前を」
「倒置法かよ!と・に・か・く!せっかく一緒に帰ってんだからひとり先いくな……って、いねえし!?」
一人で賑やかなヤツだ。放っておこう。すたすた歩み去る背中に罵倒が飛ぶ。
「だーかーらっ、歩くの速すぎなんだよ!」
自転車を押して慌てて追いかけてくる秋山に思わず頬が緩む。必ず追いかけてくる確信あればこそブラフで翻弄し甲斐があるというものだ。
一方で非効率的な行動を訝しむ。秋山は行き帰りに自転車を使っている。自転車に乗れば俺など簡単に追い越してしまえるだろうに、どうしてそれはしないのだと疑問が募り、隣に来るのを待ってあっさり指摘する。
「乗りゃいいじゃんか」
「それだと一緒に歩けねえだろ!」
噛みつくように返され面食らう。
「……意味わかんねえ」
返事を返すまで一呼吸の間があった。内心の動揺がバレないことを祈る。とんでもない鈍感を装う演技を真に受けて、単細胞の秋山が嘆かわしげに首を振る。
「……お前に友達いなかったワケがよくわかる」
そんなのお前以上にわかってる。
こいつと出会うまで小中高と行き帰りはひとりだった。格別それを寂しく思った事はない、そういうものだろうと割り切っていた。
気の合う仲間とつるんで寄り道したり馬鹿話をしたり、帰宅後に待ち合わせて遊びに繰り出す計画を楽しげに語り合う奴らを横目に、俺はただ人の流れに乗って通学路を往復していた。
俺にとって学校の行き帰りに通う道は殺風景なアスファルトの道、それ以上でも以下でもない。この道が尽きなければいいと思った事もない。
でも、今は違う。
できるだけ長くこの道が続けばいいと、こいつと歩く時間が長引けばいいと思う。
「……ちぇ」
不服げな舌打ちをよそにページをめくる。
「一緒に歩くのイヤか?」
「イヤじゃねーけど」
「じゃあなんで先行くんだよ」
そんなのおいてかれるのがやだからに決まってる。
逃避だと罵ればいい、臆病者と蔑めばいい。それでも俺はもう二度とおいてかれるのはごめんだ、大切な人の背中を追いかけて見失ってしまうのだけは。
俺の手の届かない場所に行ってしまった人、ずっと憧れで目標だった人の背中にこいつを重ねてしまったら、今度こそ自分自身が許せなくなる。
だから適当な嘘を言ってごまかす。
「犬みてえでおもしれーから、つい」
「はあ?」
「ちょっと先行くと小走りで駆けてくるのが面白くて」
「待て、わざとか?今までずっとこの純真な俺を底意地悪くおちょくってたのか愉快犯の確信犯め」
「言ったら怒るだろ」
「当たり前だ!!」
「自分でも性格悪いと思う」
「お前な……もう一緒に帰ってやんねーぞ」
「それは困る。お前と一緒がいい」
ぽろりと本音がこぼれる。
こんな単純な脅しに虚をつかれるなんてと心の中で舌を打っても後の祭りで、秋山が驚き目を瞬く。
「え?」
本当はわかってるんだ。
信頼なんて言ったらこそばゆい。だけど本当はわかってる。思い出す大晦日の出来事、命がけで俺を追っかけきた秋山、何の見返りも求めず走って走って走り抜いて敷島を道連れに死のうとした俺の手を掴んでくれた。
あの時俺は本当に死んでもいいと思った。
勝手な言い分だが、最後に網膜に焼きつくのがこいつの顔なら悪くない幕切れだと素直に思えた。
どん底から這いあがるため足掻いて足掻いて足掻き抜いて、それでも結局壁に立てた爪が折れて剥がれて真っ逆さまに墜落して、それを何度となく繰り返してボロ雑巾みたくなってくくらいなら、地面に激突して飛び散った方がまだしもさっぱり諦めがつくと思っていた。
そんな俺の手を、こいつは笑っちまうくらい必至な形相で掴んで力の限り引っ張り上げてくれた。
生きる事を諦めかけた俺を境界線のこっち側に引き戻してくれたのは秋山だ。
秋山はきっと俺をおいていかない。
秋山なら信じられる。
「だからいい」
ずっと人と深く関わりあうのを避けてきた、敬遠されるにも孤立するのにも慣れていた、誰かが境界線を飛び越えて間合いに入ってくるわけないと思っていた。
そんな線引きなんて無意味だと体を張って教えてくれたヤツがいる。
俺が引いた見えない境界線の内側に飛び込んできて、圭ちゃんに倣って死のうとした馬鹿な俺を力強い手で救い上げてくれた。
生まれて初めて生きてほしいと言われた。
生きててほしいと乞われた。
あの時俺の手を掴んだ秋山の手は熱くて、汗びっしょりで、自分と関係ないだれかの生き死にに体を張るヤツがいるなんて信じられなくて、そのだれかが他でもない俺だなんて冗談みたいで、両手が自由なら頬をつねって正気かどうか確かめたい心境だった。
俺の後ろに立つ秋山が切なげに顔を歪めるのが沈んだ声でわかる。
「……なんで先歩いてるくせにおいてかれる心配してんだよ」
「おいてかれないためにはおいていくしかない」
俺は秋山を試してるのだろうか。
どれだけ離れたら諦めるのか、どれだけ距離が空いたら立ち止まるのか実験してるのだろうか。
いざ本当に別れる日が来た時の為の備えに、痛みを思い出した心を再び麻痺させる訓練をしてるのだろうか。
信じてると口では言いながら喪失を体験し臆病になった心を納得させるのは難しくて、いつか避けがたく訪れるだろう別れの日を予感して、おいていかれたんじゃなくおいていったんだと言い訳が立つようにわざと足早に歩いてるんだろうか。
かっこ悪いな、俺は。
「タッチ!」
背中を叩かれ顔を上げる。
「……何したいんだ?」
俺の正面に素早く回り込んだ秋山が、挑むように俺を見据えて宣言する。
「ゼロだ」
手を伸ばせば届く距離に秋山がいる。
抱きしめる事も、その気になれば唇を奪う事もそう難しくない。
身の内から湧き上る欲求を堪えるのに苦労する俺の気持ちなどいざ知らず、腰に手を当て身を乗り出してくる。
「本と俺どっちが大事?」
「本」
「悩めよ!」
「お前?」
「なんで疑問形!?」
「じゃあ秋山って事で」
冗談のフリして本音を混ぜ込めば力づくで本を奪われる。
「あ」
「没収。駅に着いたら返す」
慌てず騒がず冷静に。こんなこともあろうかと持ち歩いていた二冊目の文庫を取り出す。
「予備あるし」
「人の話聞け!」
きつくお叱りを受け鞄の中をあさる手を止める。まなじりを吊り上げた秋山自分と俺とを交互に指しつつ憤然と詰め寄ってくる。
「俺は!お前の!何!?」
何と聞かれたら答えは一つだろう。
「……ダチ」
「ハイよくできました」
満足げに笑う秋山にいらだつ。俺の気持ちを知ったうえでカマかけたんだとしたら顔に似合わずイイ性格してる。
諦めて歩き出した俺のそばに寄って、近い距離から人懐こく顔を覗き込んでくる。
「隣歩いていいか」
「別に」
「並んで歩くぞ、べったりと」
「ご勝手に」
こいつの相手をするのは疲れる。そっけなくあしらいつつ靴を蹴り出せば、不意打ちで核心をつかれる。
「俺の事好き?」
「るっせえ」
聞かなくても態度でわかるだろう。
横顔に視線が注がれる。心配そうな眼差し。俺の歩調に合わせて歩きながら、不器用に言葉を選んで言う。
「おいてかないって約束する。だからお前も……一緒にいる時はちゃんと俺を見て、その、何だ、おいてかない努力をしてくれると嬉しい、かも」
途切れ途切れに言う横顔に見入る。
どこまでお人よしなんだと呆れつつ、こんなやつだからこそ好きになってしまったんだと追認する。
「じゃなきゃさ、もったいねーじゃん」
残照の逆光を受け、照れたように笑う顔がオレンジ色に染まる。
秋山はかっこいいやつだ。
こんなかっこいいやつ世界中さがしたっていないだろう。
俺はかっこ悪い。
気付けばいまだけでいいと自分に言い訳し態度を保留している、友達の関係性を壊すのが怖くて一線を越えられずにいる、決定的な変化を恐れている。
このままでいいという気持ちと先に進めたい気持ちとがせめぎあい葛藤を生む。
このままでいたいという願いとこのままじゃいやだという足掻きが衝突しあって衝動を抑えきれなくなる。
「距離の取り方がむずかしいんだ。近すぎると危険だし」
「?何が、むぐ」
ふいに顔を近付け唇を奪う。
目をつむりほのかにかさついた唇を味わう。秋山の唇はコーヒー牛乳の味がした。そういえばさっき学校の自販機で買ったのを呑んでたっけと思い出す。
唇と唇が触れ合うだけのキス。
友達の枠組みを踏み外す勇気はなくて、友情と恋愛の一線をこえるのは時期尚早で、それでもこいつが隣にいるとどうしようもなくなって、悪ふざけの延長で無性に唇が欲しくなる。
硬直した秋山からゆっくりと唇を放し、そそくさとマフラーを巻き直す。
「だから言ったろ。ちょうどキスしたくなる角度なんだよ、お前の横顔」
秋山の顔が真っ赤になる。
「―ばっ、ばっかやろ、畜生ファーストキスだったのに煙草の味なんて最低だ、禁煙しろよ肺癌で死ぬぞ!」
「ボルゾイにもってかれたんじゃねえのか」
「ねえよ!気色悪ィいことぬかすな、俺の唇は艶ピカヴァージンだよ!!」
「俺との奴はカウントされないのか」
ボルゾイの名前にぶり返した嫉妬をせせら笑いに隠してからかえば、キレた秋山が意味不明の叫びをあげて猛然と走り出す。
「おめーなんかひとり競歩で電柱ごっつんこ眼鏡割っちまえ!!」
「秋山」
「何だ!」
「本返せ」
「っ!」
急ブレーキをかけて嫌々不承不承もどってきた秋山が、俺の方は見ずに文庫を突っ返す。
「サンキュ」
文庫を受け取り、少し考えてから口に出す。
「辞書引け秋山。さっきの捨て台詞は矛盾してる、競う相手がいなきゃ競歩はスポーツとして成立しねえ」
「お前な……いや、もういいや」
脱力したように肩を竦め、再び自転車を押して歩き出す。文庫本をコートのポケットに滑り込ませ、秋山と歩調を合わせて歩き出す。
どんなにかっこ悪くても、指をさされて臆病と言われても、いまだけでいいと消極的な諦観に流れてしまう気持ちがまだ心のどこかにある。
シャッターを切るように一つ一つ瞬きし、こいつと見る風景を記憶に焼きつける。
こいつがいればただそれだけで、何の変哲もない景色が特別なものに置き換わる。
これからさきのことなんてわからない。こいつといられるのは今だけかもしれない。ならばいっそ時が止まってしまえばいいと、俺は願う。
報われない祈りも叶わない願いも二度と抱くものかと誓ったのに、その決心が揺らいでいる。
人生には未来を担保に入れても釣り合う瞬間があって、俺にとってのそれは秋山と歩く今じゃないのかと、夕日に溶けて滲む眩しい横顔を眺めて思った。
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