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夏が開く

夏休みも半ばをすぎるとやることがない。クーラーが利いた部屋に寝転がり、漫画を読むのにもいい加減飽きた。 「もーまたゴロゴロして。邪魔、粗大ごみに出すよ」 「兄貴を足蹴にすんなよお転婆が!」 「ほっぺに畳の跡付いてる。ださっ」 「マジ?」 反抗期真っ盛りの妹と口喧嘩する。 風鈴が涼やかな音をたて、網戸を立てた窓の外からぬるい風が吹いてきた。 ぶすっと黙り込み、だらけた頬杖付いたまま漫画のページをめくる。 「お」 ちょっとした冒険を思い付く。俺が読んでるのは少年誌に連載されてる甘酸っぱい青春ラブコメで、高校生カップルが夏休みに夜のプールに忍び込み、きゃっきゃっうふふじゃれあっていた。 すかさずスマホをとって一番のダチに電話、短く用件を告げる。 「今から出てこれるか」 『んだよ急に。本読んでたんだけど』 「何?」 「『夏の庭』」 「あー面白いよなアレ、俺も小学校の頃読んだ。はみだし者小学生トリオが死にかけのじいちゃん観察する話だろ」 『雑な説明だな。情緒がねえ』 不機嫌な声で応じる麻生。読書を中断されて鬱陶しいはずなのに、きちんと相手くれるのが有難い。愛を感じる。 「夏の終わりのサプライズ。夜7時に学校の正門前に集合な」 麻生が愚痴をたれる前にスマホを切り、いそいそと支度にとりかかる。とはいえ大した準備はいらない。 「ちょっと出てくる」 「どこに?」 「コンビニ。アイス買いに」 「ダッツのストロベリーお願い」 「自分がバイトした金で買え」 こんな時だけ調子よく甘えてくる妹を一蹴、玄関ドアを開け放ち宵闇の中に飛び出す。すかさずママチャリに跨ってペダルをこぐ。虫の鳴き声がうるせえ、コイツらも夏の終わりを惜しんでやがるのかと感傷的な気分に浸る。 風を切って夜道を走ってると色んな事が頭に浮かぶ。たとえば去年の暮れ、青いマフラーをたなびかせ屋上で俺を待ってた麻生とか。ぐるぐる回るパトカーの赤いサイレンとか。 あの時がむしゃらに飛ばした夜道を今再び走る。季節は夏、耳は痛くねえし息は白くならない。確実に時間は経過している。 「うおおおおおおおおおお!」 全体重をかけペダルを踏み込み、一気に坂道を駆け上る。校門の前で人影が待ち構えてた。Tシャツとジーパンでカジュアルにきめた麻生だ。 「遅え。まちくたびれた」 「いや早すぎだろ、俺が連絡入れて即来たのか」 「たまたま近くのファミレスにいたんだ」 「また外食?自炊しろよ、米の研ぎ方教えてやっから」 「通い妻か」 アホくさいコントを繰り広げ、錆びた校門の前に自転車をとめる。 「で、サプライズって?」 「あててみ」 塀に沿ってぐるりと半周、校舎の裏に回る。そこには金網のフェンスが張られていた。網目を掴んで足をかけ、上に跨って手を伸ばす。 「来い」 こっちを仰ぐ顔に一瞬逡巡が浮かぶも、俺の手をしっかり握りしめ金網をのぼってきた。 金網をこえると葉桜に囲まれたプールのすぐ裏にでる。 「不法侵入も二度目となると手慣れてるな」 「一回目はお前が唆したんだろ」 ダチの皮肉に皮肉を返し、どちらからともなく苦笑い。コンクリの土台を運動靴で蹴り、その勢いに乗じて金網に取り付く。麻生も同じようにしてプールサイドに降り立った。 生まれ初めて目にする夜のプールに否が応にもテンションが上がってくる。特別な事が起こりそうな予感に高揚し、仄かに甘い夏の夜の空気を目一杯吸い込む。 両手を広げて深呼吸する俺の隣で、学年一の秀才はひらすらしらけていた。 「それで?夜のプールに呼び出して、不純異性交遊でもするのかよ」 眼鏡の奥から興ざめな眼差しを注がれ、反発がもたげてくる。 「あたり」 軽く目を見張る麻生をよそに、鼻を摘まんでプールに飛び込む。ばしゃん、派手な水柱が上がり透明な雫が散る。ぬるくて気持ちいい。塩素の匂いに全身を包まれ、立ち泳ぎする俺を麻生があきれはてて見下ろす。 「お前もこいよ」 「濡れた服で帰れってのか?露出狂で補導される」 「風にあてりゃすぐ乾くって。いいだろ今日だけ」 ノリが悪いダチにねだり、ズボンの裾をちょいちょい引っ張る。「さわんな」と顔をしかめ、そっけなく振り払おうとした拍子にバランスが崩れてよろめく。 「「あ」」 声が綺麗に重なった。直後、麻生が降ってきた。派手な水柱に次ぐ水音。頭からダイブした麻生を指さし爆笑する。 「~~~~てっめえ」 「ひーーーーひっ、ごめっわざとじゃねっあははははは眼鏡までびしょびしょじゃん!」 「笑いながら謝るあたりカケラも誠意が感じられねえ」 「俺をぼっちで置き去りにしようとすっからだよ、薄情者め!」 レンズに付着した水滴をいらだたしげに弾く麻生に両手ですくった水をかける。すると珍しくむきになりやり返してきた。プールの水面が激しく波立ち、顔面に水をひっかぶる。 「ちょっ、たんまっ、鼻に入ったげほげほっ」 「たんまはねえ。慈悲もねえ」 「プールに落とされた事恨んでんのかよ、大丈夫だよお前のぶんの着替えも持ってきたから、ぶっ!?」 「そーゆー問題じゃねえ」 ったく、なにやってんだか。夜空の下で快活な笑いが爆ぜる。シャツが張り付いて素肌を透かす。俺と麻生は気が済むまでプールでじゃれあい、時に潜り、時に泳ぎ、時に互いに抱き付いて底まで沈んでいく。水中に透明な泡が漂い、広がる前髪を巻き上げる。 「ぷはっ」 同時に顔を出し新鮮な空気を蓄える。両手で水をかいて近付き、悪戯っぽくほくそえむ。 「悪くねえだろ」 「……まあな」 濡れそぼった前髪をかきあげ、渋々認める麻生に愛しさが募りゆく。 俺は知ってる。 コイツはずっとプールの授業を見学してた、梶がいなくなった今も残る煙草の火傷の痕のせいで脱げないのだ。だから尚更、夏休みが終わる前に一度はプールに連れて来たかった。 「俺たち以外だれもいねえから、好きに泳げよ」 仰向けて浮かぶ俺をまねし、麻生が背中を倒す。 水面が凪いで静寂が訪れる。鼻にツンとくる塩素の刺激臭。等間隔に並んだ飛び込み台の灯台のような白さ。プラスチックのコースロープで仕切られたプールを無目的に漂ってると、世界でふたりぼっちのような錯覚に襲われる。 麻生が無感動に呟いた。 「『世界は丸いから泳げない者はどん底に沈む』」 「何それ」 「名前を忘れた偉人の言葉だよ」 「その心は?カナヅチにゃ生き辛い世の中ってか?」 「要領が悪いヤツは死ぬまで貧乏くじを引きまくる」 「ネガい」 「真理だろ」 「お前もそう思ってんの」 束の間の沈黙。 できるだけさりげなく、俺は言った。 「……もし息できなくなってもまた引き上げてやっから、安心しろ」 返事はない。なくていい。言葉なんかなくても気持ちは伝わる。今この瞬間、二人分の心がプールに溶けて同化する。 「秋山」 「ん?」 「さっぱりした」 頭の上から響く無愛想な声には、素朴な感謝の念が滲んでいた。 「いい思い出ができたろ」 「そうだな」 「んじゃアイスおごれ。ダッツな」 「ガリガリくん半分こで手を打て」 「せめてパピコで」 だしぬけに水音が立ち、夜空を背負った麻生が、無防備すぎる俺の顔を逆さまに覗き込んできた。 「溺れたら人工呼吸してやる。それじゃ不満か」 「~ッ!」 顎に手をかけ上向かせる麻生。濡れた唇に視線が吸い寄せられ、次の瞬間沈没した。 帰り道、俺はガリガリくんソーダ味をおごらせるのに成功した。計画通りだ。最初にハードルの高い条件を挙げ、次に本来の目的である妥協案を示せば受け入れてもらいやすいと推理小説で読んだ。 人工呼吸してもらったかどうかは、秘密。

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