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3Kのスペル

玄関で物音がした。 「遅ェな」 書いた部分まで一時保存し、ダイニングテーブルの椅子から腰を上げる。書斎にも俺用の机はあるが、こっちの方が捗るのだ。 ノートパソコンから離れ、ドアを開けて玄関へ行く。背広を着た男が無防備な背中を見せて靴を脱いでる。 「おかえり~」 明るく声をかけりゃ、振り返りざま鼻白む。 「メール読んでないのか」 「読んだけど、それが何」 「じゃあ寝ろよ」 「来週締め切りの原稿書いてたんだよ。別にお前の帰り待ってたんじゃねえから、うぬぼれんなよセンセ」 腰に手をあて言い返せば、俺の同居人……麻生譲は、疲労が滲んだため息を吐く。 「好きにしろ」 「腹減ってんなら温め直すけど」 「何?」 「ポトフ」 「茶色い煮物以外にンなしゃれたの作れんの」 「天才料理秋山透にかかりゃ和洋中余裕よ。ネットのレシピ見ながら初挑戦だから味は保証できねーけど」 「食ったのに保証できねーのかよ」 「俺の貧乏舌とグルメなセンセの舌を比べちゃ失礼だろ」 「そうだな」 「一応否定しろよ礼儀として」 「殊勝な心がけ見直したのに」 「俺の飯ででっかくなったくせに」 「餌付けかよ」 俺の名前は秋山透。職業はミステリー作家だ。 昔から推理小説が大好きで、高校ン時はミステリー同好会の部長を務めてたほど。 現在都内のマンションで同居してる麻生とは、高校時代から数えてかれこれ十数年の腐れ縁だ。 俺の執拗な勧誘がきっかけで麻生は同好会に入り、語り起こすも黒歴史な馬鹿をさんざんやらかし、太宰も白目を剥く恥の多い青春ってヤツを過ごしたのだ。 同居してるとは言ったが、俺が居候してると言った方が事実に即してる。前に住んでたアパートから火が出て、転がり込んだのだ。 仕事がデキて頭もキレるが生活能力だけがとんとなく、飯は外食中心だった麻生。 俺んちは母子家庭で、「ね~まだ~お腹すきすぎて死んじゃうよ~」と騒ぐ妹に飯を作ってきた。なもんで、料理スキルにゃちょっと自信がある。麻生が仕事に出てる間せっせと家事をこなし、飯を作って待ってんのが俺のルーティーンだ。新妻か家政夫か、判断は難しい。できれば前者希望。 麻生の背後にたたずむと、背広に染み付いた消毒液の匂いが鼻先を掠める。 今となっちゃ俺の生活にすっかり馴染んだ匂い。コイツを嗅ぐと落ち着く。 「……何してんの?」 「ごめん嗅いでた」 「匂いフェチかよきめえ」 麻生がおもいっきり顰めっ面をする。あんまりな言いぐさだ、どうも今夜は気が立ってる。 「11時回るなんて珍しいじゃん、検案立て込んでたのか」 「まあな」 仕事の話はしたくなさそうだ。麻生の意志を尊重し、一旦引き下がる。 「シャワー浴びてくる」 「ああ……」 麻生の匂いともお別れか、残念。 「ポトフは?食うだろ?あっためとくからなー」 俺の前を素通り、バスルームへ引っ込む麻生の背中へおっかぶせる。 キッチンに取って返し、コンロにかけた深鍋に火を入れる。ガラスぶたを持ち上げて中を覗き込み、お玉でゆっくりかき回す。 ここんとこ麻生はやけにそっけない。もとからクールで近寄りがたいヤツだけど、何かあったんだろうか。 隠し事してるとか。 ミステリー作家特有の勘がむずむず騒ぎだす。バスルームから響くシャワーの音をBGMに、温め直したポトフを皿によそり、スプーンとフォークを添えてテーブルに持っていく。 俺の真向かいが麻生の指定席だ。 しばらくするとシャワーの音が途切れ、Тシャツとズボンの部屋着に着替えた麻生が出てくる。首にひっかけたタオルで濡れ髪を拭き、椅子へと滑り込む。湯上がりのセンセは色っぽい。 「……食うって言ったっけ?」 麻生がほんの少し不満を見せる。俺はにっこり切り返す。 「毒見役してくれ」 「ミステリー作家がいうとしゃれになんねえな。もう食ったんだろ?」 「俺の胃は超丈夫だからメラニンろ過しちまうの」 「芽が出たジャガイモ使ったのか」 「ちゃんととったから安心しろ」 図星だったのであえて否定はせず、深皿に移したポトフを片手で勧める。 渋々といった感じで椅子を引いて座り、スプーンを持ってまずは一口、コンソメの色に澄んだスープを啜る。 麻生の正面に座り、ゆったり頬杖付いて食事風景を眺める。 「ご感想は?」 「可も不可もねえ及第点」 「毒舌め」 素直にうまいと褒めりゃいいのに。 マジにまずけりゃ一口でやめるだろうから、続けて啜るってこたあセンセの味覚にかなったのだきっと。 無表情にポトフを食ってた麻生が、突然手を止めて妙な顔をする。 「なんだこれ。ウィンナーじゃねえのか」 「賞味期限が迫ってた魚肉ソーセージで代用した。イケるだろ」 「本格の心を失ったな」 「庶民派アレンジと言ってくれたまえ」 本格の心を失ったと批判されると、別の意味でぐさりとくるのがミステリー作家のさがだ。 麻生はごく薄っすらと笑い、すぐに笑顔を消して食事を再開する。麻生の口と皿を往復するスプーンの動きを追い、注意深く訊く。 「仕事キツいか」 「関係ないだろ」 「関係なくはねェよ、一緒に住んでんだし」 友達じゃん。 そう続けようとして口を噤んだのは、麻生と友達以上の事をしてると思い出したから。 頬杖を崩して身を乗り出した俺を冷ややかに一瞥、釘をさす。 「食事中に話したくねえ」 「それもそうか。わり、無神経だったな」 麻生は監察医だ。現在は監察医務院にて、事件性がないと判断された遺体の解剖を行っている。 よく混同されがちだが、法医学者は事件性があると判断された遺体を法医学教室で調べ、監察医は事件性がないと判断された死体を監察医務院で調べる仕事だ。 後者には孤独死や自殺、不慮の心不全なども含まれる。 監察医の解剖によって初めて事件性が認められることも多々あり、自然死だと思われていたが実は他殺だったなんてどんでん返しが起こりうる。 麻生は死体の声の代弁者だ。 無言で腰を浮かせ、食べ終えた皿をシンクに持っていく。口数の少なさが不安を煽り、漠然とした予感が確信に変わりゆく。 「麻生」 キッチンに立った背中に声をかけてから言葉に詰まる。 麻生が胡乱げに振り向く。 「なんだよ」 「あ~~……明日休みだろ?じゃあちょっと位夜更かししてもいいよな」 「寝たいんだけど」 「わかってる。1時間、30分だけ。このとーり!」 両手をパンと合わせて拝み倒す。 洗った皿を水切り台に立てかけたのち、シンクにもたれた麻生が心底だるそうにため息を吐く。 「10分だけな」 「さっすが、話がわかるぜ」 先生の許可をもらい、リビングのソファーに移動する。 「俺のドラマ、深夜帯で再放送やってんだ」 「正確にはお前が原作のドラマな」 「いちいち言い直さねえでいいじゃんイケズ」 そばに転がってたリモコンを持ち、ワイド画面テレビの電源を入れる。 間に合った。麻生と隣り合ってソファーに腰を沈め、わくわくと画面を注視。 ほどなくオープニングが流れ、颯爽と白衣を翻して歩く主人公が登場する。 『監察医 吾妻弓弦のミステリーカルテ』 でかでか表示されたタイトルテロップに、拳を握り込んで幸せを噛み締める。 「く~~~~、夢が叶った……!」 「何回観てんだよ」 「だって自分の小説がドラマ化されたんだぜ?初ドラマ化だぜ?しかも初回に出てくるヒカリ役は朝ドラヒロインで人気の富樫杏樹ちゃん、俺のイチ押し新人女優」 「ハイハイ」 俺のおしゃべりを麻生がうんざり受け流す。 ドラマが始まった。『監察医 吾妻弓弦のミステリーカルテ』は俺の代表作で、現在も順調に版を重ねている。 主人公のモデルは隣のコイツ。 「助手が出るぞ」 「初登場時にコケる改変はやりすぎだよな、確かにドジ設定だけど」 で、助手のモデルは俺。 「自販機のコーヒーで舌を火傷するとか盛りすぎだって」 「ドラマにゃ口出ししない主義じゃなかったのか」 「そーだけどさー」 ドラマのオファーがきた時はおったまげた。出す本出す本初版止まりで、落ち込んでた頃からは考えられない。 『吾妻弓弦のミステリーカルテ』は若き監察医・吾妻弓弦が自殺や事故、あるいは自然死に見せかけられた死体を解剖し、事件の真相に迫っていくストーリーだ。 クールで毒舌ドSな主人公と、おっちょこちょいで天然な助手の掛け合いが何故か女子に受けている。 吾妻が助手をやりこめるシーンを退屈そうに眺め、麻生がおもむろに口を開く。 「……前から思ってたこと言っていいか?」 「どうぞ」 「吾妻のあだ名の氷の王子って、もうちょっとなんとかならなかったのかよ。ださすぎ」 「実際にそー呼ばれてんだろ?」 麻生が苦りきった顔をする。 氷の王子とは監察医務院における麻生の通称だ。それをちゃっかり拝借したのだ。 「氷の監察医なんてかっこいいじゃん」 「よかねェよ」 本人は気に入らないらしい。馬鹿にするように鼻で一蹴、画面にしらけた視線を投げる。 麻生が氷の王子と呼ばれた理由は冷たすぎるからだ。 職場の人と殆どなれあわず、どんな惨い遺体にも顔色を変えず、淡々と解剖作業をこなす上に整い過ぎた容姿が敬遠されたのだ。 『新人は皆最初の検案で吐くんだとさ。しれっとしてたら可愛げねえって言われたよ』 どうでもよさそうに麻生が言った言葉を、よく覚えている。 俺たちはソファーに並んで再放送のドラマを鑑賞する。ふと喉の渇きを覚えて腰を浮かす。 「コーヒー淹れてくる。お前は?」 「ああ……頼む」 「りょーかい」 軽く受け答えしてキッチンへ行き、ペアのマグカップにインスタントコーヒーを淹れる。 マグカップを持って戻ると、麻生はどこか寂しげな横顔で画面を見詰めていた。 「ドラマみてーにいけばいいのにな」 「若くて可愛い女の子が増えてほしいって?」 「じゃねェよ」 マグカップを受け取り、皮肉っぽく片頬笑む。 「臭くねえ。汚くねえ。危険じゃねえ。3Kと切り離されたフィクションの世界」 俗に監察医は臭い汚い危険の3Kと言われる。重労働のわりに見返りは少なく、年収は平均的なサラリーマンと同程度だ。 毎日仕事から帰ると、麻生の背広からは消毒液と防腐剤の匂いが漂い出す。 監察医務院に運び込まれる死体の中にゃ死後数日や数ヶ月経ったものもざらで、とにかく匂いが酷えのだ。 シャワーで一日の疲れと消毒液の残り香を洗い流し、さっぱりした麻生からは石鹸の清潔な香りがする。こっちも嫌いじゃない。 エンドロールが流れる頃、麻生があくびを噛み殺して呟く。 「そこそこの出来だな」 「俺が原作のドラマがツマンねーわけねーだろ」 「演技がオーバーで鼻に付いたけど」 「緩急が大事なの」 酷評を回避しこっそり胸をなでおろす。10分の約束を超過しちまった。なんだかんだ最後まで付き合ってくれるんだからイイ奴だ。 コーヒーの中身はまだ残ってる。すっかり冷めちまったが、シンクに捨てるのはもったいない。 「実物から見て主役はどうだ?案外ハマってたろ」 「昼食いに行く時はさすがに白衣脱ぐぞ」 「こまけえな」 「医務院の食堂ならともかく外だろ?ありえない」 「小姑か」 「ちゃんと眼鏡かけてたのは評価する」 「そこだけは頼み込んだ、眼鏡オフしちまったら吾妻じゃねーもん。映像化にあたって眼鏡キャラが眼鏡じゃなくなる改変許せねー派だからさ、俺」 「他にこだわる点ありそーだけどな」 たまには馬鹿話をしながらソファーでまったりも悪くない。ただでさえ忙しい麻生とは生活時間がすれ違いがちなのだ。 「……カフェインで目が冴えちまった、責任とれよ」 コーヒーを飲み干して麻生がぼやく。 空のカップを回収し、シンクにおいた俺は、再び隣に腰かけて切り出す。 「胸によどんでるもの吐いたら楽になるぜ、センセ」 「は?」 「仕事の話。ごまかしてばっかだけど、ホントは何かあっただろ」 そっけないのも冷たいのも今に始まった事じゃないが、隠し事してるのがわからねえほど俺は鈍感じゃねえ。 なんたって高校からの腐れ縁だ。 それでもまだ頑固に口を割らない同居人に苦笑い、変化球を投げる。 「覚えてるか、初めて会った時のこと。二階から人間失格が落ちてきた」 高校時代、図書館裏で不良数人に絡まれていた時。 突如として二階の窓から投げ落とされた太宰治の『人間失格』が、不良のリーダー格の顔面を直撃したのだ。 俺の指の間にシャーペンを挟んで絞り上げてた不良は、『人間失格』の烙印をおされてギャッと悲鳴を上げたっけ。 「で、そのあとお前が降ってきた」 麻生譲との衝撃の出会いだ。 「んなことあったっけな」 麻生はしれっととぼけるが、こっちは全然忘れてない。 「すげー勢いで食ってかかられて、言い放ったセリフ覚えてるか。或る阿呆の一生か白痴のほうがよかった?って……当時の俺、よくドン引きしなかったと褒めてやる」 腕を組んでうんうん頷き自画自賛すりゃ、麻生が不機嫌の絶頂で黙り込む。思い出したらムカムカしてきた。 「しかもお前、俺が落としたミステリーの新刊チラ見で犯人と凶器ネタバレしやがるしよ」 「まさか犯人が助手で、凶器が高枝切りバサミとはな」 「そこは覚えてんのかよ!」 ツッコミが冴え渡る。 当時と一言一句変わらないセリフが懐かしさをかきたて、呟く。 「色々あったけど、お互い夢叶ったよな」 あの頃から俺の夢はミステリー作家で、麻生の夢は監察医だった。 なのに今、麻生がせっかく叶えた夢を喜べなくなっているとしたら、それはコイツの心が冷たいからじゃない。 「……今日運ばれてきた遺体」 「ああ」 「学校の屋上から飛び降り自殺した中学生。痣だらけだった」 「いじめか」 「だろうな。遺書の記述とも一致する」 麻生が無表情に言い、電源の切れた真っ暗なテレビ画面を見詰める。 正しくは四角い枠の闇に映り込む自分の顔を。 「昨日は3歳児を解剖した。見た目に異常はなかったが、中は打撲の内出血で酷いもんだ。外傷性ショックが死因」 「虐待?」 「司法解剖に回した」 外見に異常が見当たらないということは、布団などを巻き付けて上から殴る蹴るした可能性がある。想像だけで胸糞悪い。 麻生はそれ以上詳しく語ろうとしない。 監察医の守秘義務に準じるのは勿論だが、見聞きしたものが惨すぎて語りたくないのだ。 「……続けて来るとキツいな、割と」 監察医務院には様々な遺体が運ばれてくる。 エアコンがない安アパート、サウナと化した部屋。ともに熱中症が死因とされた老夫婦だが、死亡時刻には3日の開きがあった。 老々介護で認知症の妻を世話していた夫が先に倒れて亡くなり、寝たきりの妻は糞尿にまみれ、それをただ見ているしかなかったらしい。 以前麻生が話してくれた事を思い出し、気持ちが重苦しく塞いでいく。 コイツが冷たいなんてとんでもない。 ホントはひどく不器用で優しいヤツだって、俺が一番よくわかってる。 「似てたからかな」 麻生が口の端を曲げて自嘲し、俺は小さく首を振る。 「やることやったんだろ。偉いよ」 麻生が監察医を志したきっかけは、当時高校生だった従兄弟の飛び降り自殺だ。彼は俺たちが数年後に通うことになる高校の屋上から遺書も残さず飛び、帰らぬ人となった。 後にわかったことだが、従兄弟の死体には沢山の痣があったらしい。 「死因を突き止めた所でどうにもならない。事件性があるってわかったら司法解剖に回される。事件性がなけりゃ監察医務院が処理する」 麻生が膝の上で両手を組み、ぐっと力をこめる。 「事件性って何だ?」 指が白く強張るほど力を入れる。 「ミステリー作家の秋山センセならわかるだろ、教えてくれよ。何が事件でそうじゃないんだ?いじめで全身に痣作って、1カ月前の骨折の跡もある中学生が自殺したら、それは事件じゃないのかよ。自分で死んだら殺されたって言えないのか。内出血の子どもは?」 「お前のおかげで本当の理由がわかったんだろ。で、事件が成立した」 地方都市の監察医制度は遅れている。 麻生は従兄弟の死体がちゃんと調べられていたらと悔やみ、見落としなど絶対しない、氷の監察医になったのだった。 「俺にできるのは、手遅れになった理由を突き止めることだけだ」 眼鏡を外して瞼を揉む麻生に寄り添い、続きに耳を澄ます。 「いじめられて死んだヤツも虐待されて殺された子どもも、あんなになる前に本当はずっと叫んでたはずなんだ。気付かなかったって?誰も?嘘だろ。クラスメイトに教師に近所の奴、少しもおかしいと思わなかったのか。面倒ごとに巻き込まれるのが嫌でほっといたのか。俺の所には手遅れになったヤツしか回ってこないんだ、何が起きたかわかったってリセットできない」 「麻生……」 「真実って、本当に大事なのか」 人を救えもしないのに。 麻生は従兄弟の自殺がきっかけで監察医になった。でも今、自分のしている事に意味があるのか悩んでいる。 「どんな酷い目にあったかとか、どんな可哀想なことされたとか。俺の検案でそれがわかった所で、ニュースで少しのあいだ騒がれて世間の同情集めるだけだろ。俺が欲しかった真実には、所詮その程度の価値しかないのか。娯楽のように消費されてく、胸糞悪い真実に意味なんてあるのか」 救いたくても救えない。 救えなかった現実だけがそこにある。 何度も何度も解剖に立ち会い、何度も何度も死体の無念を聞き、監察医でなければ知らずにいられた辛すぎる真実を知りすぎて。 コイツは優しいから、自分を責める。 俺はソファーの上でちんまり膝を抱え、腐れ縁の親友に声をかける。 「ぶっちゃけ、さ。知らない方が幸せなことって世の中たくさんあんじゃん」 「秋山センセの印税とか」 「うるせえ」 口を尖らせて拗ねりゃ、麻生がほんの少し表情を緩める。 膝を抱く手に力をこめ、断言する。 「知らない方が幸せな事って知らなきゃよかった事なのか?手遅れだろうがなんだろうが、間違った事は正さなきゃいけねーんだよ。死ぬまで苦しんで、死んでからもそっぽ向かれたんじゃあんまりじゃん」 監察医は最後の声を聞く仕事だ。 沈黙を守る麻生の方へ乗り出し、心から語りかける。 「臭くて汚くて危険でも誰かがやんなきゃいけねー事だよ。お前が見付けた真実ってのは、たぶん死体の最後の声だ。生きてる時はどんなに叫んでも聞いてもらえなかった、詰め物されてたのかもしれない、口止めされてたのかもしれない、どんなに叫んで叫んで叫んでも届かなかったその声が、全部終わった今、やっとお前に届いたんだ。確かにどうしようもなく手遅れだけど、悔しくて寂しくて哀しくて苦しくて、全身使って叫んだ事実がなかったことにされるよかずっとマシだろ。ちゃんとここにいたんだって、生きてたんだって、お前がすくいとってやんなきゃただ手遅れなだけで終わっちまうよ」 どんなに惨い最期を迎えたって、監察医務院の手術台に寝かされた彼らの人生が、「手遅れ」の一言で片付けられていいはずがない。 それでも麻生が動かないのにじれて腰を浮かす。 「ちょっと待ってろ」 カウンターのペン立てから油性サインペンをひったくり、大急ぎで駆け戻る。 「何すんだ」 「黙ってろ」 麻生の右手のひらを掴んで固定、きゅぽんとキャップを外す。 唇をなめて向かい合い、しなやかなてのひらにKから始まる英単語を書き付ける。 『|keen《キーン》、Keep《キープ》、Kindle《キンドル》』 「さて問題。3Kの意味がわかるか?」 「keen《泣き叫ぶ》、Keep《保ち続ける》、Kindle《火を点ける》」 「正解。Keepにゃ守るって意味もあるんだぜ」 「知ってる」 物知りな麻生センセのてのひらを愛おしげに見下ろし、囁く。 「辛いときは泣いて叫んだってかまわねえ、その熱を保ち続けて自分に火を点けろ。とうとうどうにもならなくなった時は、俺が体を張って受け止めてやる」 一瞬面食らった麻生が眩げに目を細め、ゆっくりと手を閉じ、新しく書き換えられた3Kを力強く握り込む。 「……サンキュ」 監察医は死体の叫びを守り抜く仕事。 冷たく静かに燃え立った麻生の目は、どこまでもまっすぐだった。

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