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第2話

 トントントントントン。  八拍子の快音が意識を浮上させる。  『あっ、起きちゃったのズミっち。待ってて、もうすぐご飯できるから。今日は安子特製トンカツだよ~』  安子がキャベツを刻んでいる。  左手でキャベツを押さえ、右手に包丁を構え、ご機嫌な鼻歌まじりに千切りにしていく。  俺の嫁さん候補は実によくできてる。  顔よし料理の腕よし……  『でもねえズミっち、安子謝らないといけないことがあるの。トンカツ作ろうとして、下ごしらえの時、間違えて味の素ふっちゃって~。あ、いけないって思って、すぐにシナモンパウダーかけて中和したんだけど、ひょっとしたらちょっと変な味するかもしれな~い。ごめんね?』  ………頭はちょっとたりねえけど。総評して俺にはもったいねーいい女だ。  舌足らずな喋りと間延びした語尾に胸苦しいほどの愛しさが込み上げる。  愛情で窒息しそうってこんな感じ?  斜め四十五度に小首を傾げるお茶目なポーズがもう辛抱たまらん。  後ろから忍び寄り抱きしめ、エプロンの脇から手を突っ込んで巨乳をまさぐる。  ああ極楽。  男に生まれてきてよかったと神様と遺伝子に感謝したくなる至福の瞬間。  『もー、悪戯はだめだよ、ズミっち。料理の邪魔だよ~』  柔らかな背中に顔を埋め、軽快な包丁の音を聴き、安堵を覚える。  安子は手際よく新鮮なキャベツを切っていく。  ……あれ?今なにか、意識の隅っこにひっかかったぞ。キャベツ、キャベツ、キャべジン……  安子が突然、俺の腕をすりぬける。  包丁を持ったままくるりと振り返り、お得意の斜め四十五度の小首傾げポーズに加え、庇護欲くすぐる小動物めいた円らな目を潤ませ俺を見る。  『ズミっち。安子ね、内緒にしてたことがあるの』  安子らしくねえ深刻な声に不安がきざす。  とにかく包丁おろせ。こっちに向けんな。  調理用の道具は持ち主の気分次第で殺人の凶器にもなる。  少女趣味なエプロンを羽織った安子が包丁の切っ先を危なっかしくこっちにつきつけ、大粒の涙をためた伏し目で謝る。  『このキャベツね、ズミっちのために刻んでるんじゃないの』  え?  じゃあだれが食うの?  まな板の脇には大量のキャベツの千切りがこんもり小山を作っている。  キャベツの山を指さし聞けば、安子は申し訳なさそうにうなだれ、ちらりと振り返る。  いつのまにか背後に男が立っていた。  『海外事業部の富樫くん』  今泣いた小娘がもう笑った。  安子は男に腕を絡め、幸福の絶頂で頬ずりしてみせる。  え?え?  なにこの急展開。  完全においてけぼりだよ、俺彼氏なのに。  混乱する俺をよそに、安子と富樫くんとやらは臆面もなくいちゃいちゃよろしくやってる。  略奪愛。二股。  俺はただただ呆然と、口半開きの間抜け面で、乳繰り合うふたりを見つめるっきゃない。  富樫は可も不可もねえ凡庸な顔立ちの男で、ただ、スーツと靴が、俺より高価そうだった。  いかにもエリートでございってイヤミな光沢を放ってやがった。  海外事業部。  会社の未来をしょってたつエリートが集まる部署。  安子、いつのまに富樫くんとお近づきに……  『だってズミっち、将来性ないもん』  安子の言葉が、強烈な痛みを伴い胸に刺さる。  『いっつもかりかりしてるし。安子の話聞いてくれないし。最近じゃなに話しかけても邪魔だ、うるさい、あっちいけしか言わないし』  ちがう、安子、話を聞いてくれ。俺は疲れてたんだ。連日仕事仕事でストレスたまってたんだよ、そう、諸悪の根源はストレス社会なんだよ!  不満げに口を尖らす安子に追い縋ろうとするも、安子と富樫くんはがっちり腕を絡めていて、遠吠えしか能のねえ負け犬がつけいる隙などあろうはずない。  『安子のお腹にね、富樫くんの子供がいるの』  衝撃。  右手に脅しの包丁をちらつかせ、左手は優しく腹に添え、安子が笑う。   『全然気付かなかったよね、ズミっち』  しょうがねーだろ、疲れてたんだよ。  言い返せるわけがない。そんな最低の言い訳、吐けるわけがねえ。  恋人が妊娠したのにも気付かず。  安子の話に耳を傾けず、そばにいるのが当たり前になって、邪険にあしらって。  自業自得だ。  不甲斐ない恋人を捨て玉の輿できちゃった婚を選んだ安子を、責める理屈がねえ。  富樫くんの顔は奇妙にぼやけて目鼻立ちも分からないが、将来性・俺より上、性格・俺より良、服のセンス・年収比較にならねえときたら、結婚相手にゃ申し分ない。  完敗だ。勝負する前から勝敗は決まってた。  だって、腹にガキがいるんだろ?  その時点で、対抗心が萎えた。  富樫某から安子を取り返して、どうする?  安子は物じゃねえ。  簡単に奪ったりのし付けて送り返せる安い女じゃねえ。  安子の心はもう俺から離れてる。ガキをやどした女は強い。  俺には富樫から安子を奪い返す度胸も腹のガキと二人まとめて養ってく甲斐性もねえ。  『ごめんなさい』  安子が一瞬真顔になる。  ひたと俺を見詰める眼差しは責める色も詰る色もなく、罪悪感に染まっていて。  片手に包丁をぶらさげ、もう片方の手を顔のない富樫に絡めて去っていく。  待て、安子。いかないでくれ。  追う資格はないとわかっていて、つい未練がましく手を伸ばしてしまう。   トントントントン、単調な音が響く。幻聴、か?安子はもうキャベツを刻んでない、包丁はまな板を叩いてないのに、どうして聞こえるんだ。  キャベツ。  キャべジン。  デジャビュ。  何か思い出しかけた。  何か思い出しそうだ。  こめかみがきりきり痛む。  だれかが俺のこめかみに錐を突っ込んで原始人式に火をおこそうとしてる。  誰だ、人の甘酸っぱい思い出を土足で踏み荒らす無神経な馬鹿は。  もう少しで目の穴鼻の穴から煙が立ちそうだ。  キャベツ・キャべジン・キャベツ・キャべジン・キャベツ……  シュレッダー。  千切り。  そこはかとなく黒く爽やかな後輩の笑顔。   『キャべジンにしとけばよかったのに』   千里。    「!!っ、てめ!!」  覚醒と同時に跳ね起きる。  現実に叩き戻され、睡眠薬の余韻で重い頭とだるい体を気力を振り絞って支え、犯人を捜す。  「三十分と二十一秒か」   耳障りな音が途端に止む。  課長の椅子にふんぞりかえった千里が余裕綽々で頬杖つき、いやらしく目を細めて俺を見下ろしてる。片手の人さし指でカウントダウンよろしく机の端っこを叩いてたのが、夢に感応した音の正体。  目が合った刹那、背筋に悪寒が走る。  天使のような悪魔の笑顔のフレーズが頭を掠めた。  背広の袖をたくしあげ腕時計を読み、千里が呟く。  「もっと長くかかるかとおもったんですけど、こんなもんか」  「タメ口と敬語がまざってんぞ、後輩」  地が出てきやがったな。  凶暴に歯を剥いて唸れば、手に負えねえ駄犬でも蔑むような冷ややかさで再び見下される。  「お前、何した?」  単刀直入、核心を突く。  千里が笑う。  「オロナミンCに薬を仕込みました。最近はネットで簡単に手に入るんですね、睡眠薬。錠剤を砕いてすり潰してちょっとだけ」  顔から血の気が引いてくのがわかる。  「今のご時世に薬物混入って、悪魔か。洒落になんねーぞ。だいたい栄養ドリンクに睡眠薬って、その組み合わせ鬼門じゃねえか」  詰る声も自然震える。一歩間違えば俺、今頃この世にいなかったかも。  「鬼門は睡眠薬にウィスキーです。栄養ドリンクなら大丈夫です」  自信たっぷりに断言しちゃってるが、その根拠が猛烈に知りたい。  こめかみが疼く。   霞がかった頭を苦労して持ち上げ、ジーコジーコと記憶を巻き戻す。  素朴な疑問点。   「千里。俺がオロナミンC選ぶって、わかってたのか」  あの時千里は、最初にキャべジンを薦めた。  俺はそれを拒否し、引き出し最前列のオロナミンCをひったくったのだ。   予め用意されてたとしかおもえないそれを。  椅子を鳴らし、深く身をもたせ、足を組む。  「先輩の好きな栄養ドリンクは把握済みです。先輩、オロナミンCしか飲みませんもんね。おまけに僕の事嫌ってるし、僕が薦めたら絶対断って、勝手に引き出しからもってくと計算しました。わざわざ取り出しやすい一番手前に置いてた甲斐があった、作戦勝ちですね」  ……策士め。  ほくそえむ千里をあらん限りの殺意をこめ睨みつける。  「!!おまっ、」  床を蹴り反動つけ、千里に掴みかかろうとして、手首にしこりの違和感。  バランスを崩し、顔面から床に突っ伏す。    転倒のはずみに眼鏡がずれ、辛うじて鼻梁にひっかかる。  「痛ッて………」  「状況をよく見たほうがいいですよ」  人を食った声がする。  愉悦の笑みを含んだ声に促され、おそるおそる振り向き、ぎょっとする。  両手を縛られていた。ネクタイで。  「本当は意識がある時にやりたかったんですけど」  千里が悪戯っぽく首をすくめる。  どういう状況だ、これは。捕虜?人質?生贄?緊縛ショー?……究極の四択じゃねーか。  頭が混乱する。脳が現実を拒否する。  見下ろせば、俺はネクタイをしてない。  出社時も、残業中も、たしかにしていた。  意識を失ってる間にだれかがはずしたんだ。  誰が?……消去法で千里しかいねえ。  手首を縛るネクタイはきつく、暴れてもほどけそうにない。  「…………ほどけ」  悪ふざけの域をこえてる。  会社でネクタイを外すことなんかめったにないせいか、はだけた襟元が妙に涼しくて落ち着かない。  会社でネクタイを外すのは、深夜の街中で素っ裸になるのと同じ位、根源的に不安だ。    他の連中はどうだか知らねえけど、少なくとも、俺はそうだ。  人前でネクタイをほどくのは、抵抗がある。  よそむきの上っ面をひん剥かれ、名伏しがたい羞恥が襲う。  シャツの襟が首を擦るささくれた感触が不愉快だ。  糊の利いた襟が鋭敏な素肌をちくちく刺して脈拍を乱す。  「ネクタイしてない先輩ってなんか新鮮。いつもきっちり締めてて、息苦しくないのか不思議だった」  「会社じゃネクタイすんのが礼儀だろ」  「礼儀?先輩でも気にするんだ、新発見」  完全になめきった口調にむかっぱらがたつ。  敬語も口先だけ、俺に対する敬意と誠意がちっとも感じられねえ。  んなもん払うに値しねえってか?けっ。  ネクタイを抜いた襟元を外気が冷やす。  シャツから覗く素肌に空気が染みる。  シャツの着崩れが気になる。  ネクタイで縛られた手首にしこりを感じる。  手が使えないだけで、ひどく不便で不自由だ。  「最近のネクタイて丈夫ですよね」  俺の胸の内を見抜いたように千里が呟く。  「耐性があって、しっかり結べばほら、立派な拘束具になる」  椅子を軋ませ、床に突っ伏した俺の鼻先に革靴の先を向ける。  「自分のネクタイで縛られる気分はどうですか、先輩」  「………………」  「クツジョクテキ?」  「死ね」   毒が滲んだ調子で唾棄する。  「お前、くるってるよ。栄養ドリンクに睡眠薬しこんで、気絶してる間にネクタイ縛って……次はなんだ、映画で見た拷問でも試すのか?爪きりでわざと深爪させんのか?セロテープで瞼を吊って、眼球乾かすのか。職場でもできるお手軽な拷問、いくらでもあるだろ」  「そんなに怖がらなくても、これまでいじめられた仕返しに、先輩の大事な指をシュレッダーにかけたりしませんて。キー打てなくなっちゃいますもんね。あ、舌でつついて入力する練習します?犬みたいに。ブラインド・タン・タッチ、なんてね」  涼しいつらでおそろしいことを言う。想像して、吐き気がした。  おもむろに椅子から腰を浮かす。  革靴の先端がレンズにかちあい、反射的に身を引く。  這ってあとじさる俺の傍らに膝をつき、喉仏に触れる。   「ずっと想像してたんですよ。あのネクタイの下の喉仏は、どういう形をしてるんだろうって。襟を開いて確かめたかった」  「………もしもし、千里くん?」  「もちろん、皆の前では普通にふるまってましたよ。誰もに愛される無邪気で可愛くちょっとドジな後輩を演じてました。この加減が案外むずかしいんですよ、一線こえちゃうとただのお荷物だし……同期の足を引っ張らない程度にこまごました失敗しつつ、先輩の前では盛大に」  「ちょっと待て。看過できねー発言したぞ今」  こいつ、もしかしてわざと。  入社半年間、俺の目の届く範囲でだけ、足手まといの困った後輩を演じてたのか?  「今日、書類をシュレッダーにかけたのも……」  「故意ですよ」  生まれて初めて本気で人を殺したいと思った。  「先輩が書類おいてトイレに行くとこ見てましたから。今がチャンスだ!ってシュレッダーで処理しました。見事な千切りのできあがり」  「殺す絶対殺すホチキスでその舌下唇にとめてパソコンで撲殺する」  「どうぞ。両手が使えるなら」  不可能を見越し、宣言。  「パソコンて結構重たいですよ。持ち上げるだけでも大変。凶器に用いてデータ飛んだら即刻クビでしょうね」  ひしひしと絶望が染みてくる。  今俺、ひょっとして、すっげーやべえ状況なんじゃね?110番しなきゃいけねーたぐいの。  深呼吸で冷静さを吸い込み、噛み付くような目つきで千里をにらむ。  「もう一度言う。ほどけ」   「嫌です」  「ほどけくそったれ」  「なおさら嫌です」  埒あかねー。  平行線を辿る問答に苛立ちが募る。  床に転がったまま、首だけ上げる体勢は存外辛い。  首筋が突っ張り、筋肉に乳酸がたまる。   手首をしきりと動かし擦り合わせ拘束を緩めようと努めるも、ネクタイは手首にがっちり食い込んで、もがけどあがけど解けない。どころか、募る焦燥に比例して縛す力も強まってくる。  「痛ッ………、」  摩擦で皮膚が熱くなる。  苦痛に顔を顰めた俺の方へ身を乗り出し、喉仏を触る指を、下へと移す。  「強引に、脱がしたくなるタイプですよね」  「はあ?」  「スーツを」  倒置法?  いや、その前に。  千里の触り方に、違和感を覚える。  千里は執拗に俺の喉を触る。  喉仏に重点において、まわりの皮膚をなで、呼吸に合わせた筋肉の収縮を確かめる。  露骨にセクシャルで、気持ち悪い触り方。  「千里………、」  呼びかける声に、警戒心が篭もる。  生唾の嚥下に伴い喉を動かし、注意深く、聞く。  「ホモ?」  「ゲイです」  譲れないのねそれは。  いや。  待て。  「!!!!!!っ、さわん、なぐ!?」  後頭部に衝撃が炸裂。  額が接する近距離に迫った千里から飛びのいた拍子に、背後の机に頭をしこたま痛打。  危なく舌を噛みそこねる。  いっそ噛んだほうがマシだったかもしれん。  「うわ、痛そ。漫画の擬音みたいに『ごつん』て鳴りましたよ」  千里がご丁寧に顔をしかめる。  「耳から脳汁でそうだよっ……」  誇張じゃなく、悶絶。手を縛られて頭を抱え込めねーから、仕方なく、芋虫のように身を伸縮させ筆舌尽くしがたい痛みを訴える。  ぶつかった拍子に眼鏡がまたずれた。気を抜けば落っこちそうだ。  「先輩って面白いなあ」  無邪気な笑い声が神経に障る。  俺が七転八倒の苦しみを味わってる時に薄情な後輩ときたら、呑気に笑ってやがる。  生理的な涙で目がかすむ。眼鏡がずれたせいで、視界の軸が定まらず、ぶれ、悪酔いする。  右に左に傾ぐ頭を立て直そうと努力して    「面白いなあ。犯したいなあ」  シャツの内側に手が滑り込んできた。

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