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第3話

 俺、今超ピンチ。  絶体絶命危機的状況九死に一生脳髄沸騰。  「まっ、ちょ、まっ、ええっ!?」  現状の異常さに言語中枢が麻痺、呂律が回らず舌を噛む。  落ち着け俺、平常心平常心。こういうときは手のひらに人と書いて飲み……こめねえよ縛られてるじゃねーか!  「犯していいですか?」  「駄目だよ!!」  「よし」  「聞けよ!!」  何がよしだ、キャッチボール成立してねえよ。俺の意志完全却下で脳内了解かよ。  アドレナリン過剰分泌でこめかみの血管がいきりたつ。  床でのたうつ俺の胸を千里の手が這う。  着乱れたシャツの内側に忍び込んだ手が、首筋から胸にかけて緩慢に往復。  千里の手が首に吸いつき、胸板にじゃれつく。  両手は使えない。ネクタイできっちり縛られている。  背中に回された手をしきりに擦り合わせ抗うも、結び目は固く、布がきつく手首に食い込む。ネクタイてこんな丈夫だったんだ、現実感が遠のいて冷めた頭の片隅で妙に感心する。  千里の言う通りだ。  手を縛られて痛感したが、ネクタイは存外丈夫な素材で出来ている。ちょっとやそっと暴れたくらいじゃちぎれそうにねえ。一本千円の安物なのにこの丈夫さ、結構お買い得だったんじゃとせこい考えが脳裏を掠める。  慰めにはまったくならねえ。  「千里、おい千里、このバカ後輩!勝手に人のシャツはだけて手え突っ込むな気色悪ィ!」  「ばかばか言わないでくださいよ、興がそがれるから」  「ばーかばーかばーか!」  「うわ大人げない。二十五歳でこの大人げなさ奇跡。恥ずかしくないんですか、小学生の返しですよ。ボキャブラリー貧困なんだから」  「るっせ、人が気絶してるあいだにしめしめと両手括るようなゲスはばかで十分なんだよばか」  興をそぐ?上等だ、削いでやろうじゃねえか。  闘志再燃身構える俺を見つめ、ため息をつく。  「ま、抵抗してくれたほうが燃えますけど」  久住宏澄二十五歳、貞操の危機。  落ち着け俺、まずここに至る経緯を振り返ろう。半裸で乳繰られるはめに陥るまでの経緯をひとつひとつ回想しよう、いつどこでだれがどうしたか時間軸を整理しよう。5W1Hは文法の基本だ。  ここは深夜の会社オフィス、俺は後輩の尻拭いで残業中、後輩が好意でさしだした(と、あの時は錯覚した)オロナミンCイッキで沈没、目覚めたら緊縛。  ………結論、意味不明。  俺はどこにでもいる普通の会社員だった。  ネクタイで縛られ転がされて悦ぶ趣味もなければシャツをはだけられて浮かれる性癖もねえ、何度も強調するが至って平凡な、入社二年目のサラリーマンだ。  実際ほんの三十分前まで散弾銃の如く舌打ちしつつ、はやく帰りてえ不満と明日までに脱稿しなきゃなんねえ焦慮に駆られ、やけっぱちでキーを乱打していたのだ。  だがしかし。  オロナミンCイッキで気絶して、目覚めた三十分後に立場が逆転していた。  俺は今、非常にクツジョクテキな格好で後輩に見下ろされてる。  みじめにぶざまに床に這い蹲って、不自然な姿勢にこる首を励まし上を向き、鼻梁にずれた眼鏡の奥から殺気滾って凶暴にぎらつく目で千里を睨みつけている。  床に這う俺の位置からは天井も机も遠い。  液晶から放射される光が平板な床を青白く照らす。  俺の眼鏡にも反射し、ぎらつくレンズが想像の余地に頼って極悪な表情を演出。  もとより眉間の皺が近寄りがたい、無愛想でとっつきにくいと職場の人間に陰口叩かれる俺だ。今はさぞかしおっかない顔をしてるだろう。  唾とばし罵る俺とは対照的に、千里は涼しく笑ってやがる。  俺の抵抗を歯牙にもかけねえ自信と優越感に酔いまくったつらに殺意が湧く。  デキは悪いが持ち前の愛想よさが中和して憎めねえ後輩の仮面をかなぐり捨て、外道な本性をさらけだした千里が、嗜虐的に笑う。よからぬことを企んでますよと暗喩する胸糞悪ィ含み笑い。  予感的中。  俺のシャツの内側に手をさしいれ、胸板をまさぐりつつ、調子にのりくさった千里がほざく。  「愛してるって言ったらほどいてあげます」  微笑み一発でなんでも許してやりたくなるような母性本能直撃系の笑顔だが、同性の率直な意見を述べると一発殴りたくなった。  嘘、最低十発。  今この状況で千里ににっこり微笑まれてもどす黒い憎悪しか感じない。  腹這う床の無機質な固さ冷たさ、愉悦の笑みを含み見下す千里の目が、反発を煽る。  後ろ手縛られたまま苦労して上体を起こし、啖呵を切る。  「お前に愛してるって言うくれえなら課長に『そのヅラ中国製ですか?』って聞いたほうがましだ」  「香港製です」  「なんで知ってんだよお前。社内一の情報通か」  「香港製はナイロンだから不自然にてかってるんです。よく見れば毛根が不ぞろいで違和感あるし」  ……ものすごく不本意な形で長年の疑問が解けた。感謝する気はこれっぽっちもおきねえけど。  課長のヅラの出所をあっさり暴露した千里は、その間もシャツに忍ばせた手を止めず、俺の体を露骨にまさぐってやがる。  「な、に、してんだよっ」  怒りを上回る生理的嫌悪に声が上擦る。  「触ってます」  「勝手に触んなよ、男の胸さわって楽しいか!?」  「楽しいですよ。ゲイだから」  マリアナ海溝より深い断絶を感じる。  価値観とか、性的嗜好とか、もろもろひっくるめて。  巨乳派の俺にゲイの気持ちは理解できねえ。男のひらたい胸べたべたさわってなにが楽しいんだ?女みてえにふかふかしてねえし、弾まねえし、乳首も勃たねえし。  目に入る光景の忌まわしさから逃れようと瞼を閉ざすも、暗闇に安子の笑顔が浮かび、今度は胸が痛くなる。  安子の乳は俺の手にすっぽりおさまるナイスなサイズだった。  後ろから不意打ちで抱きしめて乳を掴むと「やんっ!」と辛抱たまらねえ声出した。感度も上々で、指先でこりこり転がすとすぐ固く……  「ぃう!?」  「色気のない声」  千里が失笑を漏らす。  「わる、かったな、色気がなくてよ………男の、骨ばった手でさわられても、こんな声しか出ねーよ」  駄目だ。  現実逃避の妄想も打ち勝てないほど、現実は過酷だ。  俺は、俺の喉から出た声が信じられない。手さえ自由になるなら今すぐ喉を潰してえ。  千里のなめらかな手のひらと長く器用な指先は、慣れた動作でシャツを割り、胸板をなでまくる。  気色悪さが頂点に達する。  「気持ち悪いですか?」  しゃあしゃあと、当たり前のことを聞く。  「最ッ高に気持ち悪ィ……虫唾が走るの定義を身をもって味わってる……」  他人の手のひらの温度が、肌の質感に馴染んでいく。  千里は器用に手を動かす。  乾いた衣擦れの音が恥辱をかきたてる。  本気で抵抗すれば、みぞおちでも蹴っ飛ばしてやれば、さすがのこいつもべそかいて反省するだろう。「すいません、悪ふざけがすぎました、許してください先輩」と尺取虫のように這い蹲って平謝りするだろう。  滂沱の涙と鼻水たれながし俺の足にすがりつき、「僕はドジでのろまなカメです、おわびのしるしに後は全部でやっときますから先輩は帰ってDVD鑑賞のネクラな趣味に励んでください」と言うはずだ。よし、やろう。みぞおちに蹴り一発ですべてが終わる、どうして最初からこうしなかったんだ、ちょろいちょろ……  「いいじゃないですか。先輩、どうせこの後予定ないんでしょ。彼女も友達もいないし」  遠慮会釈ねえ指摘が、胸にぐさっと刺さる。  「せいぜい家に帰って一人わびしくDVD鑑賞でしょ。だったら、もっと楽しいことしましょうよ」  「お前が楽しんでるだけだろが!うるせーなほっとけよ、昨日ローソンで買ったクリスタルスカル観るの楽しみにしてたんだよ!うっかり寝おちして冒頭しか観れてねーからリベンジしようと気合いれて」  「うわネクラ」  キレた。  「俺のインディをばかにすんじゃねえ!!」  引いた千里を苛烈に怒鳴り飛ばし、風切る唸りをあげ蹴りを放つ。    俺は熱烈なインディ・ジョーンズファンだ。前三部作はもちろんばっちり観てるし永久保存版DVDもってるし、ガキの頃はインディをまねして縄跳びの縄を鞭に見たて、それが跳ね返ってきてしばしば額を怪我した。俺が今日脇目もふらずキー叩いてたのもパソコンと格闘してたのも二十歳老けたインディに会いたい一心で、再びインディの活躍を拝みたい一心だったのだ。なのに千里は、俺のこの熱い想いを、「うわネクラ」の一言で片付けやがった。そうだよどうせネクラだよネクラで悪いか。同僚にゃ飲みに誘われねーし彼女はいねーし、今の俺にはインディだけなんだよ。  鋭く呼気吐き放った渾身の蹴りは、千里の横髪を掠めただけだった。  みぞおちを狙ったはずなのに、大きく軌道が逸れた。  千里にかわされたのだ。  俺が反撃に出るのも予測済みか、すばらしい反射神経だった。  一方俺は。後ろ手縛られた姿勢から急に立ち上がり、無謀な蹴りを放ったせいで、バランスを崩し、派手に倒れる。  「お前にインディのなにがわかる、旧三部作観てから出直してこい!インディはすごいんだよ、大学教授なのに世界中の遺跡冒険してんだよ、鞭の腕前も天才級なんだよ、知恵と度胸が備わった最高のヒーローなんだよ!三部作で完結だと思ったら二十年ぶりに奇跡的に復活して、巨匠スピルバーグが小難しいなんちゃらぬきに初心にかえって娯楽活劇に徹して、血湧き肉踊らなきゃ男がすたるだろ!?」  「世代差感じますね。僕、ティム・バートンのほうが好きだな」  手ぶりまじえ熱弁ふるう俺の気勢をごっそり削ぐ冷静なコメント。  倒れこんだ拍子におもいっきり床で背中を打ち、息が詰まる。  激しく咳き込む俺の上にのしかかり、首筋にひたと手を添える。  怖い。  理屈じゃなく、怖え。  俺を見る千里の目に本能的な恐怖を感じ、総身に鳥肌が立つ。  飢えたようにぎらつくその目に、極限の嫌悪に強張る顔が映りこむ。  崩壊ぎりぎりで理性を保つ、俺の顔。  「俺たち、だって、男同士だろ」  「単純な話、男のいいところを一番知ってるのは同性だとおもいますよ」  手のひら腋の下が不快な汗でじっとり湿る。  視界がぼやけて酷く不安だ。世界の軸が歪んでる。  せめて、眼鏡の位置を戻したい。  今の状態は、あんまり悲惨で、かっこ悪ィ。  俺の気持ちをくんだのか、頬を包む千里の手が、横に移動する。    ずれた弦を摘み、鼻梁にひっかかった眼鏡をツイと持ち上げ、元の位置に戻す。  「僕の顔、見えますか」  至近距離に千里がいた。  じっと、笑みを薄めた真剣な顔で、瞬きも惜しんでこっちを覗き込んでいる。  「………近付くな」  「恥ずかしい?顔、赤いです」  「怒ってるんだよ」  なんで、俺なんだ。  俺がなにしたってんだ。畜生。  千里は意外と睫毛が長い。男のくせに、妙に肌が綺麗だ。  至近距離に近付いても、毛穴が目立たない。  課の女どもに人気の理由が、同性の俺にもよくわかる。  ミスが多くても嫌われないのは、ルックスと人徳の相乗効果だ。  でも俺は、こいつが大嫌いだ。  「………震えてますよ」  「頭に来てんだよ」  今度は恐怖から来る震えじゃない、純粋な怒りから来る震え。  「人だましてくすり飲ますなんて、卑怯なまねしやがって。最低だ、お前」  「もっと言ってください。どうぞ、ご遠慮なく。自分のネクタイで後ろ手縛られて、前髪と服を乱して床に突っ伏した人に罵られるのって、倒錯的で気持ちいいなあ。今の状況表現するのにぴったりな言葉あったはずなんだけど……負け犬の遠吠えだっけ」  怒りが臨界点に達すると、人間の体って、勝手に震えるんだ。  意志で制御できない震えが声帯に乗り移って、言葉が吐息に紛れる。  「緊縛趣味のホモのド変態め。男のケツに突っ込んで何が楽しいんだ?お前みたいなゲスなホモと背中合わせの机で働いてたなんて、思い出すだに虫唾が走るよ。反吐が出る。気持ち悪ィ」  「罵詈雑言で萎えさせようたってむだですよ。先輩の憎まれ口には慣れてますし……むしろ性的に興奮するし、逆効果です」  読まれていた。  悪態吐いても喜ばれるなら、他にどうしようもねえ。  後ろ手縛られた状態で脱走も考えたが、成功の確率は低い。  手が使えないと、歩行のバランスをとるのが酷くむずかしい。  いや、それ以前に。こんな、レイプされましたと喧伝してるような格好で外に出る度胸がねえ。警備員に見付かったらどうする……どう説明する?  薬で前後不覚に陥って、後輩に剥かれましたってか。  死んでもいやだ。  貞操と体面を秤にかけ、脂汗をかいて逡巡する。  この格好で廊下にとびだして、万一警備員に見付かったら、明日、会社中の噂になる。どっちが加害者で被害者かは関係ねえ。深夜のオフィスで後輩に襲われたってだけで十分不名誉なのに、相手が男ときたら最悪。千里の評判も失墜するだろうが、俺だって、会社にいられなくなる。  胸板にひやりと吸い付く、手。  「!-んっ、」  悶々と苦悩する俺を現実に引き戻したのは、性懲りなくシャツを払ってもぐりこむ、千里の手。  「貧弱。あんまり筋肉ついてないんだ」  「デスクワーク、だからだよ……」  「胸板薄い。色、白い。あ、鎖骨の形キレイですね。左右対称で……窪みがくっきり弧を描いて」  千里の指が、まだるっこしく、鎖骨をなぞる。   「シャツの下、こんな感じなんだ」  本当、気持ち悪ィ。胃が痙攣する。嘔吐の発作に襲われるも、奥歯をぐっと噛んで堪える。  机を背に追い詰められ、顔を背け、千里の愛撫をうける。  へたに暴れるとさっきの二の舞だ。後ろ手のネクタイが解けない事には反撃も望めねえ。つくづく人から貰った栄養ドリンクに口をつけた自分の考えなさを悔やむ。ちょっとは警戒するんだった。  触り方が、微妙に変わる。  「っあ……変、なとこ、さわんな……っ」  「気分、出してきたじゃないですか」  出してねーよ勘違いすんな。生理現象だよ。  耳朶に揶揄がふれ、恥辱で体が火照る。  官能を燻りだすような千里の触り方は、ひどく淫靡で、俺の喉が、勝手に変な声を漏らす。  長く骨ばった男の指に首筋を愛撫され、性感を導かれるのは、めちゃくちゃ屈辱的だ。  怒りと情けなさで、うっすら涙が浮かぶ。  口を、塞ぎたい。  もうこれ以上変な声出さねーように。  プライドがずたずたになる前に舌を噛めば、全部解決するだろうか。  必死で吐息を噛み殺す。  顔に血が上る。  千里の火照りが伝染し、体温が上昇していくのが、わかる。  「会社でこんなかっこして、恥ずかしくないんですか」  「お前の発言の方が恥ずかしいよ」  憎まれ口を叩くも、覇気がない。  ばらけた前髪の間、自分の吐息で曇り出すレンズ越しに千里を睨むも、本人はてんで構わず、俺の下腹へ手を移す。  びくりと下肢が引き攣る。  「ちゃんと眼鏡かけてあげたんだから、僕の顔、よく見てください」  強制力をもつ命令に、全身全霊で逆らう。  「それとも。これから自分を犯す男の顔をみるのは、耐えられない?」  あからさまな嘲笑に理性が弾ける。   「調子のってんじゃ、」  ベルトの金具が触れ合う音が語尾に被さる。  手際よく俺のベルトをゆるめ、ズボンを下ろしていく。  「先輩、トランクス派?そんな感じですよね」  「待て千里、こっから先はしゃれになんねーぞ。今ならまだ間に合う、思い直せ。何事もなかったように机に戻ろうそうしよう。提出期限は明日だ、よくよく考えたらこんな事してる場合じゃねー?パソコンの電源点けっぱなしだし、そろそろスクリーンセーバーかかりだす頃だし。電気は大切にしなきゃ」  「脛毛薄い」  「頼むから聞けよ!」  本気で泣きてえ。  俺の脛毛なんてどうでもいいから残業に戻してくれ続けてくれ期限は明日までなんだ!  こっちが土下座で拝み倒そうが聞く耳もたず、千里はご機嫌に鼻歌口ずさみ、するするとズボンを下ろしていく。  今度こそ、俺は抵抗した。本気で暴れた。  ズボンを下ろされたらもう終わりだと肝に銘じ、手の代わりに両足と首をばたつかせ、最後の砦を守らんと千里を振り払う。  「千里、おまっ、正気かよ!?勝手にズボンおろすな涼しいよ、いやちがう、そうじゃなくて、なんでよりにもよって俺なんだよ!?てっとりばやく性処理してーなら二丁目いけよ、それ専門の風俗あるだろ、よく知らねーけどさ!!ここは会社、仕事する場所!俺とお前は今残業中!そんでもって男同士、俺は男に興味ねえ、抱く方も抱かれる方もこれっぽっちも」  「教えてあげます」  「知りたくねえって言ってんだよ!!」  世の中には知らない方がいいことが沢山ある。人間二十五年、サラリーマン二年もやってりゃ、それがわかる。  とにかく暴れる、必死に暴れる。こっちは貞操がかかってんだ、会社の備品壊してもいいと腹をくくる。  両足を激しく蹴り上げ千里を牽制、縺れる足で逃げようとして、裾を踏ん付け蹴っ躓く。  一人コントのように派手に転倒。  「往生際悪いなあ」  ほとほとあきれた調子で千里が嘆き、痛みに呻く俺の前に、ひょいとしゃがむ。  カシャカシャ、音がする。  最大級の不吉な予感。胸の内に渦巻く暗雲。   即座に顔を上げる。  千里が上機嫌な様子で、俺に携帯を向け、写メを撮っていた。カシャカシャ連続で。  「お、まえ、なにしてくれちゃってる、んだ?」  衝撃で思考停止、動揺で舌が縺れる。  「いえね、面白い光景なんで写メろうかと。ほら、見てください。先輩の恥ずかしい姿がばっちりと」  千里が携帯画面を見せる。  たしかに、ばっちり撮れていた。  ズボンをおろし、トランクスを半ばまで覗かせ床に転倒した、俺の恥ずかしい格好が。  「百万画素、永久保存版です」  最近の携帯、高性能すぎ。いらねーよ百万画素も。悪事に利用されるだけだよ。  トランクスの柄はおろか、三十分前に落っことしたドリンクの銘柄までわかる鮮明な写真に泣きたくなる。  証拠隠滅をはかる。  携帯をひったくり即座に削除しようとして、後ろ手縛られてたせいで、勢いあまって千里の膝に突っ伏す。  「先輩の恥ずかしい写メ、同期の皆に送っちゃおうかな~」  「やめろそれだけはやめろ、会社にいられなくなる!!」  「課の全員のメルアド入ってるんですよ、僕の携帯。最近の携帯てすごいですよね~容量ほぼ無限に近くて。この登録名、ホンコンて誰だかわかります?課長です。なぜって香港製だから」  「てめえがいかに異性同性にモテる人気者かって自慢はいいから、即刻写メ削除しろ!!」  「じゃあこれは?」  俺の慌てぶりをさも愉快そうに眺め、千里が意味深にほくそえむ。   携帯を操作し、登録者の欄名を表示した液晶を、俺に示す。  『駿河さん』  安子の姓だ。  「………………っ!!」  全身から血の気が引く。  ぱくぱく口を開閉する俺にわざとらしく液晶をちらつかせ、ひっこめ、千里が邪気なく笑う。  コンパクトな携帯をもてあそびつつ、にやつく目の端で俺の顔色をうかがう。  「駿河さん、今日は飲み会だっけ?もうすぐ産休に入るから打ち上げとか……先輩、参加できなくって残念ですね。あ、もとから誘われてなかったか」  「やめろ」  「今の時間だとそろそろ解散か二次会か……どっちにしろ、盛り上がってるでしょうね。話のネタ、送信してあげよっか」  「やめろ、千里」  喉が渇く。  嫌な汗で背中がびっしょりぬれ、シャツがへばりつく。  後ろ手に食い込むネクタイがもどかしい。  床を蹴り、諦め悪く千里に挑み、そっけなく払われもんどりうつ。  視界が反転、天井が回る。  レンズの表面に固い先端が当たる。  「人にものを頼む時は?」  「ぐ……」  高いんだぞ。割れたらどうする、弁償しろよ。  罵りたいが、言葉にならない。  喉を締められてるように息苦しく、こめかみを汗が伝う。  革靴の爪先で眼鏡を小突き、これみよがしに携帯を操作し、人を食った顔と口調で千里が宣言。  「先輩の写メ見たら、百年の恋も冷めますよね」  「もう冷めてるよ」  「なら、送っちゃっていいですか」  「耳の穴かっぽじってよく聞け。やめろと言ってる」   俺にも意地がある。つまらないプライドがある。  別れた女に恥部を見せるわけにゃいかねえ。  飲み会盛り上がってるさなかに俺がズボンにじゃれてる写メ送り付けられるのだけは、なんとしても阻止する。  「いいから消せ。しまえ。考え直せ」  「笑えると思うけどなあ。みんなにも先輩の意外な一面見せてあげましょうよ。僕だけ独占するの、心苦しいです」  飄々ほざく。口、ひんまげてやりてえ。  俯き、苦汁の決断をくだす。  「……消せ」   頭を垂れる。  「命令ですか」  千里の声が冷え込む。  俺は、頭を下げ続ける。  「頼む。消してくれ」  恥も外聞もかなぐり捨て、懇願する。  後ろ手縛られた体勢で首をうなだれると、はだけたシャツから覗く素肌が目に入り、恥辱で身が燃えたつ。  いつでも送信できるようボタンに指をかけたまま、千里が軽やかに挑発。  「駿河さんに見られるの、やっぱヤですか。元カノですもんね」  靴の爪先で強引に顎をおこされる。  痛みに顔を顰めるも千里は容赦せず、俺の下顎に靴をかけ、目線を合わせる。  他人の靴で物のように顔を上げさせられ、屈辱に目がくらむ。  怒りと生理的嫌悪が綯い交ぜとなった形相の携帯を突き付け、何枚か写メを撮る。  「いい顔ですね。眉間の皺と眇めた目が、すごく色っぽい」  無機質なシャッター音をなすすべなく聞く。  熱を孕んだ千里の目とカメラの無機質な目とに晒され、皮膚の下で毛虫が蠢くようなむず痒さが苛む。  シャッターをきりながら饒舌に千里が言う。  「今の先輩見たら皆びっくりします、いっぺんで酔いさめます。シャツを淫らにはだけて、ネクタイで縛られて、靴で顔上げさせられて。鞭待つ駄犬みたいに卑屈に這いつくばって。顔赤いけど、恥ずかしいんですか。目、潤んでます。写メ撮られて興奮してるとか?露出狂の素質ありますね。まんざらでもない顔、してるじゃないですか」  「……それ以上無駄口叩くと、ホチキスで口縫い付ける」  「どうやって?縛られてるのに」  携帯が顔のすぐ近くに来る。  カシャリ、最後の一音が鳴る。  「駿河さんにばらされたくないなら、言うこと聞いてください」  携帯を背広の内ポケットにしまい、靴をのける。  「げほっ、がほげほっ」  喉仏を押えていた靴が放れ、咳き込む。   靴で踏まれたショックより保身が先に立つ。  携帯がひっこみとりあえず安堵するも、千里がすっと屈み、俺の耳元で囁く。  「もっと恥ずかしい写真撮ることだって、できるんですよ」  脅迫と呼ぶには、あまりに優しい口調だった。  千里の手が下着にかかる。  咄嗟に叫ぼうとして、唇を噛む。  「賢明です。先輩もさすがにそこまで馬鹿じゃなかったか」  千里がわざとらしく感心する。  トランクスの中へ、外気と一緒に手が入ってくる。  「叫びたければどうぞ。先輩が恥かくだけですから。警備員になんて説明します?いや、説明なんかいらないか。この状況みれば何おきてるか一発でわかりますよね。先輩はシャツを剥かれて、ネクタイで縛られて、物みたいに床に転がされて。僕に色々いじくられて、眼鏡の奥を誘うように潤ませてる」  「いちいち言い方が卑猥なんだよ……」  「事実でしょ」  そうだ。  認めるのは非常に癪だが、千里の指摘は、なにから何まで現実だった。  大声で助けを呼べば警備員が駆け付ける。  それから?  警備員がくる前に、千里がこの状態の俺をおっぽりだして、とんずらこいたら?  俺はネクタイで後ろ手縛られて突っ伏して、上半身殆ど裸で、ズボンと下着も脱がされかけた格好で、深夜のオフィスに転がってる。それを警備員が目撃して……駄目だ、どう転んでも最悪の目がでる。  今のかっこを人に見せるくれえなら、舌を噛む。  「気まずいですよね、警備員さんも。プレイ中に置き去りにされたって、絶対誤解しますよ」  ただ縛られて転がされてるだけなら、強盗の言い訳も通る。  しかし、ズボンと下着まで脱がされてるときたら、話は別だ。  「…………っ…………」  下着の中で蠢く手の気色悪さに、喉が鳴る。  後輩の手で萎えた性器をいじくられ、へたりこむ。  机にもたれかかり、首が許す限界まで行為から顔を背ける俺をよそに、千里は嬉々として性器をもてあそぶ。  男の、しかも格下の後輩の手に自分の一番敏感で大事な部分を掌握された現実が、俺をうちのめす。  机上のパソコンの光を受け、顔を青白く染め、千里が笑む。  「次から僕の手じゃないといけないくらい、気持ちよくさせてあげます」

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