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第13話

 人間だれしも人に言えない趣味のひとつふたつあるもんだ。  「なに読んでるんですか先輩」  「!っ」  面倒くさいやつに見つかった。  読んでいた本を慌てて隠すも遅く、そいつはちゃっかり向かい席を確保して椅子を引く。  社員食堂を利用する頻度は少ない。  男女混成グループで和気藹々賑わう食堂に紛れこんじゃ居心地が悪い、昼は大抵外回りのついでに済ましているし寄る機会もねえ。  例外中の例外がたまたま今日だった。  本当なら得意先に営業に行くはずが、先方の都合とやらで急に取り消しになって空白ができた。  昼食ラッシュの時間帯はずれてるし今なら閑散として顔見知りとあう危険もないだろうと油断しきって食堂を訪れ、コーヒーを飲みながらぱらぱら読書をしていたら、運悪く大嫌いな後輩にでくわしちまったわけだ。  「仕事はどうした。羽鳥のおともで高円寺行くとか言ってたくせにもう終わったのか」  「急な変更があって僕の代わりに亀田さんが。おかげでスケジュール空いちゃって……オフィスに戻るにも中途半端な時間だし、食堂で暇潰そうとおもって来てみたら先輩発見。運命ですね」  「断じて偶然だ」  憤然と言い切り席を立つ。  こいつの顔を見ながらじゃせっかくのコーヒーもまずくなる。  ちゃっかり俺の対面席を占めた後輩の名前は千里。  世界で一番大嫌いな後輩。  「前から思ってたんですけど食堂のコーヒー味薄いですよね」  「安い舌にはちょうどいい」  プラスチックのカップを満たすコーヒーに砂糖とミルクを投入、かきまぜつつ言う。  「まあ座ってください先輩、逃げるみたいにして立ち去らなくたっていいでしょう」  「はあ?逃げるだ?」  「逃げようとしませんでした?」  「今のは……膝の屈伸だよ。昨日タクシーがなかなかつかまらなかったせいか足がだりいんだ」  「年ですね」  「三十前だよ」  「四捨五入したら三十」  「四捨五入する意味がわかんねえ」  「加齢はまず足と腰に来るっていいますから」  いちいちむかつく。  今席を立ったら言い分を認めるようで癪だ。  こいつがいようが構うもんか、先着順だと開き直り改めて腰を落ち着ける。   不承不承椅子に座りなおすのを見届け、よく出来ましたと笑みを深めてコーヒーを啜る。  カップに口をつけ味わう動作がやけに優雅だ。  俺はこいつが苦手だ。  なんかもう生理的に無理だ。  千里バンリという女と勘違いしかねない語呂合わせみたいな名前も、女受けのいい爽やかな容姿も、分け隔てなく人当たりよい性格もぜんぶまとめて大嫌いだ。  澄ましてコーヒーを飲む千里を睨みつける。  「さっき読んでた本なんですか」  「関係ねえし言いたくねえ」  「ちらっと『将棋』って字が見えましたけど」  ……ばればれじゃねえか。  ちょっと迷うも下手に隠し立てして詮索される方が面倒くさいと判断、テーブルに本を叩きつける。  将棋の戦法を考証したハンドブックを挟み、出方を探り合う微妙な沈黙が漂う。  「……将棋ですか」  「将棋だ。言いたいことあんならはっきり」  「マイナーですね」  「言え」まで言わせてもらえなかった。  「マイナーっていうか年寄りくさいっていうか渋いっていうか……お似合いですけど」  「うるせえ」  「好きなんですか?」  カップを置いて無邪気に聞いてくる。  俺を見る目は素直な好奇心を映す。  「教えてください、好きなんですか、どうなんですか」  「知ってどうすんだよ」  「優柔不断な人ですね。一対一で聞いてるんだから好きか嫌いかはっきりしてくださいよ」  千里がじれる。  ……確信した。  前々からそうじゃないかと疑ってたが、やっぱ職場じゃ猫かぶってやがったか。今のが地だ。  執拗な追及にいい加減うんざりし、しかめっ面で吐き捨てる。  「好きだ」  「…………」  なんで赤くなる。  まかり間違って告白したみたいな痒い空気が流れ、咳払いで付け足す。  「中学高校と将棋部だったんだ」  「それはまたマイナーな部活を……」  「小学校高学年で流行したんだ。ばかが彫刻刀で机に升目ほってさ、休み時間になるとそいつの机囲んで盛り上がった。担任も混じってたんだから今考えりゃ能天気なクラスだ」  「それがきっかけで?陸上とか野球とか目立つ部活は興味なかったんですか」  「目立ってどうすんだ、部活ってのは自分の好きで選ぶもんだろ」  「女の子にモテますよ」  「軟派だな」  鼻で笑い、コーヒーに口をつける。  千里もつられて苦笑する。  「まあ、見るからに文系ってかんじですけど。将棋部か……うん、一番似合ってるかも」  自分の中で検討し結論を出し、嬉しそうに頷く。  変なヤツ。俺が元将棋部だからってこいつが得することなんかねーだろ。  根掘り葉掘り聞かれるばっかってのも癪だ。  千里の経歴なんぞさっぱり興味はないが、意趣返しに聞いてやる。  「お前は何部だったんだ?」  「当ててみてください」  「……自意識過剰だな」  「気に障ったら謝ります」  「体育会系じゃねえな、見た目的に。文系……美術部?」  「英論部です」  「えいろんぶ?」  聞き慣れない名称に面食らい、カタコト鸚鵡返しにくりかえす。  よっぽどおかしな顔をしてたのだろうか、千里の表情が和む。  「英語で討論する部活、略して英論部。先輩のところにはありませんでした?」  「ねえよんな高尚な部活。茨城なめんなよ」  「コンクールでもいい線いったんだけどな……あと一歩で優勝を逃しました」  準優勝か。そうか。さりげなく自慢か。  「イヤミがスーツ着て歩いてるようなヤツだな。つうか楽しいかその部活?」  「楽しかったですよ、いろいろ国際交流できたし」  「英語ぺらぺらで羨ましい」  『Oh, don't mention it.』  「……なんて言ったんだ?」  「とんでもありません」  謙遜に見せかけた自慢だ。絶対そうに決まってる。  にこやかに微笑み、カップを両手に包んで身を乗り出す。興味津々といった顔。  「先輩て将棋強いんですか?」  「一応中高とやってたからな。そこそこはいける」  「今でもやってるんですよね」  「暇な時に」  「相手いないのに?」  ……痛いところをつかれ、これ以上ない仏頂面でずずっとコーヒーを啜る。  「……一人で研究してるんだよ、色々。将棋の世界は深いから対戦相手なんかいなくたって励み甲斐がある」  「エア将棋か……孤独な戦いですね」  「エア言うな。対戦相手は脳内にいるし」  「どういうところが好きなんですか?」  「一口じゃ言えねえよ。そうだな……歩が金に成ったり、俗に言う成金だけど、盤面がひっくりかえる瞬間のヤられたーって感じが癖になる。駒ひとつひとつにちゃんと意味があって並びをひとつずらすだけで趨勢が動く、勝敗が左右される。麻雀と違って使い捨てにされる無駄駒がないんだ。たとえば歩兵、香車、桂馬、銀将をヒラとする。けれどこいつらは実はやりかた次第で金に成れる可能性の塊だ、機転頼みで出世のチャンスを掴めばあれよあれよと成りあがる。名人戦観てるとここでそう来るかーって舌巻き通し膝打ちっぱなしすげえ勉強に……勝手に読むな!」  隙を見せりゃすぐこれだ。  饒舌ふるうあいだに手に取った本をぱらぱらめくり、顔を顰める。  「むずかしそうだなあ……」  図々しい手から本を奪い返す。丁寧に解説してやって損した。  大人しく本を返すも、手を離れる寸前愛しげに角をさすり呟く。  「まめっていうか、ほんっと真面目ですね。赤ペンでチェック入れたり端折ったり書き込みだらけ……趣味なら気楽にやればいいのに」  「本気で打ち込んでこその趣味だろ」  「そういうところ嫌いじゃないです。一度手合わせ願いたいですね」  「金輪際チェスもオセロも将棋もお前とやんねえよ」  「今度トランプ持ってきますね」  ……揚げ足とりやがって。  「お前とは遊ばねえって言ってんだよ」  「ふうん。先輩にとって将棋は自慰とおなじですか?」  「はあ?」  「誰にも見せず一人でこっそり耽るものなんでしょう」  この野郎、なんてことぬかす。誰かに聞かれたらどうする。  付き合ってらんねえと見切りをつけ、椅子を引き席を立つ。  不覚にも不本意にも、思いのほか話が弾んでしまった。  「じゃあな。ごゆっくり」  「今度正式に対戦を申し込みます」  「返り討ちにしてやる」  最後に険悪に一睨み、ハンドブックを小脇に抱え、からのカップをカウンターに返却に行く。  食堂を突っ切ってカウンターに辿り着くまで、背中にずっと視線を感じていたが、振り向いて目が合うのがいやで無視をした。 [newpage]  以上、回想終了。  「待った」  片手を挙げて制止。  盤を挟んだ千里はあきれ顔。  「待ったは三回までって決まりですよ、先輩。往生際が悪いです」  「待った、待て、ほんっと洒落じゃなく待ってくれ頼む」  「待ちません。諦めてください」  余裕を感じさせる微笑が憎たらしい。  密会に利用するビジネスホテルの部屋に何故か将棋の盤面があり、駒も全部そろってやがったのが今回の不幸の発端。  悪魔の策略か支配人の陰謀としか思えない準備のよさだ。   ……というのは現行形で追い詰められつつある俺の勘繰りで、おそらくは宿泊者が退屈しないようにとのホテル側の配慮だろう。  備え付けのキャビネットを漁ってボードゲームを発見した千里が、「将棋をやりましょう」と提案した時からひしひしと嫌な予感はしたのだ。  こっちはとてもじゃないが呑気に将棋を打つ気分じゃない、というかビジネスホテルに男ふたりきりというこの状況からしてアレだ、異常だ、とっととヤること済ませて帰りたいのが本音なのに俺が嫌がれば嫌がるほど悪乗りする千里は将棋の盤面をセットしながらぬけぬけこうぬかしやがったのだ。  「逃げるつもりですか」  「将棋強いって嘘だったんだ」  「こないだは偉そうなこと言ったくせに叩きのめす自信ないんですね?」  「言動に実力が伴わない男性って幻滅だな……」  「だから先輩は金に成れないヒラどまりなんですよ」  ところで、実のところ、俺は死ぬほど負けず嫌いだ。    それでなくても何の因果か、俺はこいつに弱みを掴まれ脅迫され体の関係を強いられていて、今日だって外回りで疲れてとっとと家に帰って寝たかったのに会社を出ると同時に引っ張られてビジネスホテルに連れ込まれて、そっからあとはもう説明するのもアホらしい展開で、要はあれだ、その、あれだ。ヤッた。ヤられた。  リベンジしてえじゃねえか人情として。  「くそ……」  縛られないだけマシなのか、殴られないだけましなのか。  既に一回。  ヤってる間中物音が漏れないか気が気じゃなかった、ビジネスホテルの壁は薄く防音効果なんか見込めずベッドが断続的に軋む音やどうしても噛み殺しきれない喘ぎ声が隣に聞こえちまうんじゃねえか心臓がばくばくした。  もうやだ昼夜二重生活。  今の俺ときたら精気と生気を搾り取られて出がらし状態だ。   「お疲れ気味のようですね。顔がげっそりしてますよ」  「だれかさんが絶倫なおかげでな」  「照れます」  「いい加減にしろよ……変態にも程があるぞお前、俺がいやがりゃいやがるほど調子のって突」  「突きまくって?」  「……のしかかって!やめろって言ったの聞こえなかったのか聞こえたろシカトかよ、外の廊下歩いてく靴音とか、抜けって言ったのにわざと……」  「腰を使って抉りこんできたから気持ちよくてすぐイッちゃったんですよね」  怒りと恥辱が綯い交ぜとなって頬が熱を持つ。  千里に呼び出された夜は一回じゃ終わらない、最低でも二回は必ずヤる。  俺は一回でたくさんだ。いい加減腐れ縁を切りたい。  そして今、目の前でしてやったりとほくそえむ悪魔は、俺に条件を出したのだ。  即ち、「将棋で勝ったら自由にしてあげますよ」と。  「……………っ」  勝つ自信はあった。  相手はつい一週間前までルールも知らなかった素人で、対する俺は中高と将棋に青春を捧げた男。負けるはずないと高を括っていた。  気付くべきだったのだ、最初に。  千里が自分に不利な条件を出すはずがない、事前に敗北が確定した勝負にでるはずないと。  罠だった。  はめられた。  滑り出しこそ好調だった。  俺は有頂天だった。  俺には及ばぬとしても千里はなかなか筋のいい指し手で、巧みに歩を拾い死角を突いてきて、誰かと将棋をさすなんて高校以来だったせいか利害ぬきでのめりこんじまった。  「……ほんっと性格悪ぃ……」  「手加減してあげたんですよ。すぐに決まっちゃったらつまらないでしょう」  「将棋歴一週間てぜってえ嘘だろ」  性悪な後輩は序盤、わざと手を抜いていたのだ。  俺を天国から地獄に突き落としたいが為だけに。  「信じなくても結構です。先輩のその顔が見たいという不純な動機で猛勉強しましたから」  ベッドを背にして正座する。  膝においた拳がわななく。  「……ほんといい顔するなあ。悔しさとやり切れなさと怒りとで決壊寸前の顔、すっごくマゾヒスティックでそそります」  「桂馬の角に頭ぶつけて死んじまえ」  こいつに王将はもったいねえ。  優越感と嗜虐心に酔いしれ微笑、手をしなやかに振りかぶる。  「あ」  「待ちません」  パチン。  王手がかかった。  「~っ、待てって言ったじゃねえか」  「待てができない性格だってベッドの中でご存知でしょ。待ってほしかったら頼んでくださいよ、『お願いします待ってください千里さま』……いまいちだな……『淫乱マゾ奴隷一生のお願いです、後生ですから今一度愚かな私めにチャンスをお与えください』」  「舌噛み切る」  命乞いも土下座もごめんだ。  が、敗北は断じて否。  腐っても元将棋部のエース、プロ棋士にゃかなわねえまでも趣味としちゃ上々の部類だと自負してた、それがこんな最低なヤツにあっさり下克上されちまうなんていいとこなし  「…………」  最後の手段。  秘技盤面返し。  「…………」  いや、それはどうかと思う。  待て待て俺、仮にも将棋に青春を賭けた男として往生際が悪すぎねえか、自分が負けそうになったからって盤面ひっくり返すとかガキかよ。  だけど今回は事情が違う、勝てば自由にしてやると千里は約束した、もちろん口約束だし本気にしたわけじゃねえが溺れるものは藁にも縋るで儚い希望を託しちまったのは事実で、つうか敗けちまったら今より酷い境遇におとされるんじゃ  深呼吸で覚悟を決める。  駒が陣形を描いて並ぶ盤の両側をがしっと掴み、一気にひっくり返そうと力をこめ  「王手」  パチン。  脱力が襲う。  もう少し早く決断してればとグズさを呪ったところで後の祭り。  千里は俺の行動を予期し、盤面が傾いで駒を振り落とす寸前に高らかに勝利を宣言する。  「先輩の敗けです」  「……はいはい強いですよご立派ご立派」  「で、罰ゲームなんですけど」  ……初耳だ。    「……おい待て」  「まさか自分だけご褒美もらえるとか都合いいこと考えてたんじゃないでしょうね?遊戯の鉄則、罰ゲームも褒賞も平等にです」  迂闊だった。  どうして見抜けなかった。  ぶらさげられた餌がでかすぎて、まんまと釣られちまった。  もう終わったんだからいいだろうと先ほどやりかけてやめた事に再着手、盛大に盤面をひっくり返し駒をばらまく。  吹っ飛んだ盤面から滑落した駒がじゃらじゃら散らばる中、完璧な笑顔をくずさぬ千里をうかがう。  罰ゲームの響きは黒い恐怖を伴い、悶々と妄想が膨らむ。  「フェラか?生か?道具か?」  虚勢で口走るも語尾の震えを隠せず、床に撒いた駒を蹴散らしつつあとじさる。  「罰ゲームなんていうんだからどうせろくなこっちゃないだろ、最初っからこれが目的だったんだろ、だったらヤれよ好きなだけ。で、どうすりゃいい?舐めりゃいいのか、飲めばいいのか、バックが飽きたから騎乗位か。ローターやバイブ持ち出してくるか変態……」  「先輩からキスしてください」  耳を疑う。  聞き間違いかと思う。  反応に困る。  「………」  頭に上っていた血が急速に冷え、改めて自分の格好を見下ろす。  上半身にボタンをとめずシャツをひっかけ、下はトランクスだけ。  どうせ一回じゃ終わらないだろうと観念してたから服を身につけてない。  さっきまでこの格好で盤面を挟んでたんだからシュールな光景だ。  「……口に?」  「はい」  「だけでいいのか」  疑念を拭えず確認をとれば、正視の重圧に負け戸惑いがちに俯く。  ようやく本当に欲しいものが言えた子供みたいな反応だ。  拍子抜けした。  「………」  眼鏡のフレームを上げて下ろす。無意味な動作は緊張と動揺をごまかすため。   「眼鏡はとったほうがいい……よな」  「どっちでも」  拒否するとか反抗するとかあるだろうもっと。しねえのかよ。自分に突っ込む。  だって、今さらじゃねえか。  今さらキスくらいなんだ。  ついさっきベッドの上でヤッたことを思い出せ。  羞恥心なんてとっくに死んでる。  キスひとつですむなら安いもんだ、体に負担をかけず明日の仕事に支障がでない、願ったり叶ったりじゃねえか。  懸命に自己暗示をかけつつ、一歩、二歩と極端に緩慢な動作で踏み出す。  慎重に歩み寄り、距離を縮め、心臓の鼓動が聞こえそうな距離に迫るや、吐息に紛れて消えそうな声で囁く。  「罰ゲームだから……」  勘違いするなよ。  「しません」  千里が目を閉じて顔を仰向ける。  鼻梁から顎へと至る線が綺麗だ。美形はどの角度から見ても美形だなあと感心しちまう。  「……早くしてくださいよ」  「今やる」  「怖いんですか?」   「額とか前歯とかぶつけちまったら困るだろ」  「そこまで下手だとは思いません。無理矢理じゃない経験もあるんでしょう?まさか自分主導でキスした経験ないなんて言いませんよね」  「無理矢理もってかれたのはお前が初めてだよ」  「僕が教えたようにやればいいんですよ」  口腔をまさぐる舌の感触が生々しく甦る。  おもいきって目をつぶり、同時にシャツの胸ぐらをひっ掴み、唇の上っ皮を一瞬掠めるようにして即座に突き放す。  超高速技。  「……投了」  「ふざけてるんですか?」  背筋が凍りつく。  「文句あんのかよ、お望みどおりにしてやったじゃねえか。茶番はおしまいだ、後片付けやっとけよ、俺もー帰る」  ネクタイを締めつつ背を向けるや、腕を引っ張られつんのめる。  「!!まっ、」  「待ったは聞きませんて言ったでしょう」  間近につきつけられた顔は臨界の怒りを透かして酷薄な笑みを刻み、もがく俺を合気道有段者の身ごなしで軽く押し倒し組み伏せる。  「ちょっと待て背中に駒が当たって痛え、っ、さっきのキスじゃ不満かよ唇と唇が接してりゃキス勘定でいいだろ!?」  床に背中が激突し拍子に駒が食いこむ、必死に身をよじって迫り来る千里の顔面と背中にめりこむ駒から逃げるもムダ、唇に吐息が絡む、蹴り上げた足を膝がおさえる、唇を舌が割る、すべりこむ、性急に前歯がかちあう、息が吸えず苦しい、口腔の柔らかく敏感な粘膜を練りこみ蹂躙される、歯の裏側舌の裏側も容赦なく暴きほぐされ唾液にむせる  「―ふっ、ぁぐ、ふ……畜生やっぱりこうなるんじゃねえか」  背中を駒が圧迫する、こんな事になるならぶちまけるんじゃなかったと後悔が襲う、固い駒が体重の乗った背中にめりこみ軋む、千里はお構いなしにがっつく。  「―頑張ったんですよ、僕」  触れ合う胸から火照った体温と鼓動が流れこむ。  「先輩に勝ちたくて……認めてほしかったから……」  「一週間で追い越すなよ。イヤミか?下克上か」  押しつけるばかりの唇が離れ、思い詰めた表情と熱く潤んだ目で懇願する。  「ご褒美ください」  「やったろさっき」  「キスじゃないですよ、本当に欲しいのは」  「やめろよ。うんざりだ。帰りたいんだよ俺は、疲れてるんだ、将棋も負けたし……お前とこうなってからいいとこなしだ、仕事も上手くいかねえし。疫病神め。放せよ、手。どけよ。それとも―……」  俺の上からどかない千里を射殺しそうな目つきで睨みつけ、あらん限りの憎しみをぶつける。  「二回戦おっぱじめるか?」  「……付き合ってくれますか」  まなざしが頼りなげに揺らぐ。  届かない憎しみと報われない哀しみがごっちゃになった痛切な表情。  諦めてため息をつく。  上に乗った千里が力を抜いた隙に体をずらし、駒の圧迫を消し、眼鏡を外して弦を畳む。  壊れないように。  割れないように。  ただ転がっているだけじゃあんまり惨めでかっこ悪くて、戯れに手を伸ばし頬に触れてやれば、上に乗っかった千里が目を見張る。  俺がそんなことするなんて考えもしなかったという顔。  「まったなし」    キスを乞う時、「久住さん」ではなく「先輩」と呼んだのは理由があるんだろうか。  俺のキスが欲しくて、たったそれだけの目的で将棋を一から勉強したという言葉を反芻するにつれわからなくなる。    ひょっとして、もう詰んでるのか。  とっくに王手がかかってたのに気付かずにいたのか。  キスしろと一声命じればすむ事さえ、自分が完全に優位に立った上で罰ゲームの口実を設けねば実践できない不器用な後輩にほだされていたのか。  それは永遠の謎にしときたい。

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