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第27話 おやすみ

  「え………ゆ、ユノさん?」  ユノさんの部屋の床に寝っ転がっている僕の上には、銀髪の男前が乗っかっていた。気の強そうな、切長のグレーの瞳が、まるで獲物を品定めるかのように、スッと細められた。長い指先で、顎をなぞられ、くっと上に向けられた。  顔が、近い。その男前の、ーーーユノさんの、唇が、僕の耳元に寄せられ、小さく囁いた。 「ノア」  はあっとユノさんの熱い息が、耳にかかった。僕は、身体中の血が沸騰してしまうかのような感覚が走り、ぎゅうっと目をつぶった。  こんなことになる数十分前、ーーー僕はこの部屋にはじめて足を踏み入れた。 「うわああ、すごい量の魔術書ですね」  騎士であるユノさんが、どうして異世界に詳しいんだろう。僕は不思議に思いながら帰宅した後のことだった。いつも通り、夕飯の準備をして、一緒にご飯を食べ、恐る恐るユノさんに異世界のことを尋ねてみたのだ。答えてくれないんじゃないかなあ、と、半ば諦め気味に聞いたので、こう返された時は、驚いた。 「どうして異世界のことが気になるんだ?」 「あっ えと、会いたい人がいるんです」 「誰」 「え、あ、前に異世界で出会った人なんですけど」  そう言った僕を、ちらっと一瞥すると、ユノさんは立ち上がり、「ついてこい」というように、二階の、ユノさんの部屋へと促した。はじめて入ったユノさんの部屋は、思ってたよりも魔術書だらけだった。本棚にはもちろんのこと、床にも、机の上にも、寝台の上にも、とにかく分厚い魔術書が、そこかしこに散らばっていたのだ。  そのいくつかを手に取り、タイトルに目をやれば『異世界召喚』『異世界』『伝説の癒し手』など、とにかく、異世界の本ばっかりで、僕は驚いてしまった。今までのユノさんの態度から、そんな気配は一切なかったのだ。 (もしかして…だから僕のこと、引き取りたかったのかな)  そうだとすれば、僕が異世界の話でもすれば、ユノさんは興味があるのかもしれない、と、少し思った。僕がぼーっとしていると、ユノさんが言った。 「何が知りたいんだ」 「あ、えっと。異世界の座標を特定する方法が知りたくて」 「ああ。座標の特定は、目印になるものがあればそんなに難しいことではない。何か、その世界のものを持っているなら、できるはずだ」  僕は、内心、かなり驚いていた。魔法陣の中でも、かなり難しいエレメントなはずなのに、本で調べたりすることなどなく、スラスラとユノさんは話した。というか、ユノさんと、出会ってから、こんなに会話が続くのは、はじめてで、同時に、それにもびっくりしていた。 (そうか、目印。ヤマダくんもペンダントが目印だったって、ヒューが言ってたんだった。てことは、僕が持ち帰った、異空間収納袋とか、ヒューにもらったものなら、ユクレシアの座標が特定できるのかな…)  時間軸のことも、もしかしたらわかるかもしれない、と思い、ダメ元で聞いてみる。 「時間軸の設定が難しいんじゃないかって、リビィさんが言ってて…」 「時間軸?ああ、特定の時代に働きかけたいのであれば、生物を目印にすればいんだ」 「生物を?!」  そんな発想はなかった。すごい。ユノさんは、騎士だと言うのに、剣とは無縁のことを、こんなにも熟知しているのか。生物を目印にする、と言うことは、ヒューを目印にすればいいと言うことだ。ヒューは生き物だからな。 「あれ…?でもどうやって?」 「座標を特定するエレメントの後に、『探知』を入れるんだ」  探知、一定の座標の中で、ヒューという人間を探す、なるほど、と僕は納得した。だけど、それでは、ヒューの存在する時代には行けるかもしれないけど、ヒューが0歳の赤ちゃんの時か、八十歳のおじいちゃんの時か、判断がつかないな、と思う。  何を探知するんだ?ヒューという人間を?いや、その人間の中でも、その人間が、あの時、十七歳であるヒューの時間軸に合わせるためには、どうすればいいんだろう。  異世界の座標を特定し、生物の個体を『探知』することで時代を絞り、それから、その人間の時間を特定する。どうやって。 「魂の歴史を読み取る…んですか」 「!……よく知ってるな。そんなこと」 「わ、あたり?だとすれば、生物探知の作業を省略して、その時点で、特定の魂に照準を合わせちゃったら、エレメント減らせますよね」 「ああ。そうだろうな。そこから、魂の時間を絞れば、特定の時間に合わせられる。ただ、ーーー、魂の探知には、その相手の想いの強い目印が必要だ」  そうなのか、と僕は思った。想いが強いかはわからない。でも、ヒューに「大切に持っておいて」、と言われて、預かったものが、収納袋に入っていた。もしかすると、それが使えるかもしれない、と思う。  実は、魂の歴史を読み取るっていうのは、禁術の類だと思う。  エミル様の実験室で、変な魔法陣があって、それを見ていて気がついたのだ。想いの強い目印…と聞いて、何故か、エミル様に精液を採取されてしまったことを思い出した。そして、うっかり、ヒューの性液でもあれば、と、ナチュラルに変態なことを考えてしまい、僕の思考は、羽里だけでなく、エミル様にも汚染されていた。 (僕はまたしても、ニュータイプの変態に…)  とにかく、ユノさんの説明してくれたことを整理すれば、僕が考えている通信機は、かなり複雑なものになりそうだな、と思った。目印となるものを、中に入れるような形で、魔法陣を発動させることになるんだろう。そして、もう一つは、受信する側が、どういう形で受信するか、と言うところも。  それでも、今日ユノさんとちょっと話しただけで、たくさんの発見があった。ユノさんは相変わらず、むうっとした顔だったけど、すごくありがたかった。「ありがとうございます」と僕が言ったら、ユノさんの綺麗な尻尾がふさふさと動いていて、僕はあったかい気持ちになった。そして、つい尋ねてしまった。 「ユノさんは、どうして異世界に興味があるんですか?」  ユノさんは、むっとした顔を、さらに嫌そうに歪め、僕は、「しまった」と思った。せっかく、未だかつてないほど、ユノさんときちんとした会話が続いたのに、どうやら僕は、失敗してしまったようだった。だけど、ユノさんはぷいっと顔をそらしながら、不貞腐れたように、言った。 「名前。教えて。ノアが会いたい人の名前」 「え??あ、はい。ヒューっていう人ですけど…」  それを聞いたユノさんは、さらに首をそらして、ぷいっとしながら、「あっそう」と小さく言って、なぜか、ぼんっと、いつもの狼姿になると、撫でろと言わんばかりに、一度僕に擦り寄ると、「ん」と、床に転がっていたブラシを顎で示した。 (え…どういう状況?これ)  でも、撫でさせてもらえるなら、と思い、ユノさんのお腹のところにもたれかかるように、僕は、ユノさんの首元の長い毛にブラシを通した。  しばらく、ずっとそうしていたが、ユノさんがふと顔をあげて、僕の頬をぺろっと舐めた。犬が親愛の印に、舐めてくるみたいでびっくりしてしまった。 「わ、ユノさん? んっ」  ぺろぺろと、長い狼の舌に舐められ、僕の頬は、びっしょりだった。でも、ちょっと嬉しい。僕はおじいちゃんちの柴犬を思い出しながら、僕も、大きな狼の頬に、ちゅっと唇を寄せた。 (かわいい。あったかい。ふさふさ)  僕は、完全に、ユノさんが人間であることを忘れていた。というか、動物に触れ合っていると、つい、僕は、でろでろに甘やかしたくなってしまうのだ。ちょっとピクッとユノさんが震えて、それから、ぽそっと言った。 「ノアが、いるから」 「…え?」 「違う世界に、ノアがいるから。興味があるだけだ」  その声の甘さに、僕はびっくりしてしまって、しばらく、ぱちぱちと目を瞬かせた。僕が、なんだって?と、僕は頭の中に、これでもかと言うほど、はてなマークを浮かべた。だが、混乱する頭の中で、リビィさんが、ずっとユノさんが異世界のことを調べている、と言っていたのを思い出した。ユノさんに出会ったのは、つい最近のことであって、僕が、ユノさんの異世界への興味の理由に、なるはずはなかった。  呆然としている僕をみて、大きな銀狼は、「ハア」と心底嫌そうにため息をつくと、人型の獣人に変体した。 「…………へ?!」  僕の目の前には、美しい銀髪の美青年が寝そべっていて、その青年、ーーーユノさんは、ゆっくりと体を起こし、僕の胸をどんっと押した。僕の背中が床に当たって、いつの間にそこにあったのか、クッションの上で、頭がぽすんと音を立てた。  ユノさんは、騎士なのである。   美しく鍛え上げられた肉体が、突然、僕の目の前にあった。きれいに割れた腹筋に、陰が落ちる。いつも「孤高」のように思っていたユノさんの、雄々しい姿に、僕はドキッとしてしまった。 「え??ユノさん???」  僕の頭は、全く状況を理解していなかった。何故ユノさんが、いきなり人型になって、僕のことを床に押し倒しているのかは、わからない。が、この世界の|常《・》|識《・》は、僕だって知っているのだ。 (人型は、愛する人の前だけ…)  いやいやいやいや。だめだった。僕には、何一つ状況が、理解できなかった。たった今の今まで、魔法陣の話をしていたと言うのに、ユノさんはどうしてしまったのだろう。もしかして、具合でも悪いのかもしれない、と思い、口を開こうとした時、ユノさんが言った。 「お前、動物好きなの?」 「は?え…あ、はい。好きです、けど」 「ふうん。じゃあ、俺のこと撫でるの、好き?」 「え、はい。大好きです」  ユノさんは一瞬キョトンとして、「大好き」と、小さく噛みしめるように呟くと、「そっか」と言って、ちゅっと僕の唇に、唇を重ねた。  そう、僕の唇に、唇を重ねたのだ。 「………は?」  驚愕に目を見開いている僕をみながら、ユノさんは、相変わらず、むうっとしたような、不貞腐れた顔のまま、言った。 「おやすみ」  そして僕は、部屋を追い出された。それを聞いて、僕は思った。 (結局、何一つ状況が理解できない!!!)  ←↓←↑→↓←↑→↓←↑→ 「なあ、何隠れてんの」 「ひゃえいっ?!ゆ、ゆのさん!おおおおはようございますっ」 「一緒に出かけるぞ」  朝、ユノさんのご飯を用意してから、こそこそと隠れながら、洗濯やら、掃除やらをしていた僕を、背後から、男らしい腕が抱きしめた。突然、耳元で囁かれた言葉に、びくうっと体を震わせた。  今までずっと無言だったのに、思いがけない言葉に、へ?と思って、振り返った瞬間、ちゅっと、唇から音がした。  僕は目を丸くした。  目の前には、銀髪の涼やかな男前の顔があって、よく考えてみたら、今朝ちらっと見たユノさんが、ずっと人型だったことに思い至った。が、瞬時に狼になって、颯爽と走って行くユノさんの後ろ姿を見ながら、僕は行き場のない手をあげたまま、硬直した。  今、ユノさんは、「一緒に」と言ったのだから、一人でどこかへ行くわけではないだろう。現に、よくみてみたら、狼の姿のまま、ちょっと離れた位置で、僕のことをふりかえって、待っているようだった。  どこへ行くのか、何故なのか、目的はなんなのか、と、色んな疑問が、僕の頭の中で荒れ狂っていたが、というか、そもそも一番の問題として、ーーー。 「………きす」 (というかこれは、「おはよう」的なキス…昨日のは「おやすみ」のキス…)  僕は、寝不足の血走った目をぎんぎんに開いて、頭を抱えて、うずくまった。一体何が起こったというのだ。ユノさんに、一体何が起きたというのだ。  僕は一晩中考えたのだ。  昨日の夜、魂が抜けてしまったかのような顔で、借りている僕の部屋に戻った後、僕は、まず、一番はじめに、一番ありえなさそうな思考から、入った。  ①ユノさんは僕のことが好きな可能性  ありえなかった。どう考えても、ありえなかった。初対面から、僕のことを不審だと追いかけ回し、一緒に住むとなった矢先、開口一番「大嫌いだ」と言ってのけたユノさんである。そのかなり攻撃的なツン具合に、僕は凍ってしまうかと思ったのだ。  凍ってしまう、と考えると、頭に浮かぶのは、エミル様の悲しそうな氷点下の冷ややかさだが、当初のエミル様は、人に興味がなく、僕のことなんて、その辺の石くらいに思っていたはずだ。ユノさんは「嫌い」だと、はっきり言っていたのだ。嫌われているはずである。  が、ここに来て、ヒューのようにうっかり「嫌い」と言ってしまう、意地っ張りな人間がいることも、僕は知っていた。ユノさんの尻尾を見る限り、その可能性は無きにしも非ず、であったが、だとしても、初対面から「大嫌い」と言うだろうか。そして、大嫌いな人間を、一ヶ月で、好きになるだろうか。なるわけがなかった。  ②僕が夕飯を作っている間に、再び違う異世界、あるいは、違う世界線に、変わっていた可能性  僕は、この線が一番濃厚なのではないか、と思っていた。朝起きるまでは。だが、朝起きて、家の前を掃除しながら、近所のおじちゃんたちに挨拶をしてみたところ、なんら昨日と変わりはなかった。おかしい。  ③親愛のスキンシップである可能性  よーくよーく考えてみると、僕は、間違って、リビィさんに頬擦りをしてしまったり、昨日もうっかり、あのかわいいもこっとした狼ユノさんの顔に、ちゅっとしてしまったりしたことを思い出したのだ。そもそも、僕がスキンシップ過多な人間だと思われている可能性がある。もしかすると、僕の撫でるテクニックが上達して、ユノさんも、僕のことを、少し認めてやってもいい、と、思いはじめて、僕のレベルに合わせてくれているのかもしれない。  例えば、実はユノさんは、信頼する人間にはスキンシップが激しい人で、僕にも少しくらい、愛情を分け与えてもいい、と思ってくれた…とか。いや、どうだろう。自信はない。 それから、ユノさんが双子である場合、頭を打って人格が誰かと入れ替わった場合、罰ゲーム、ドッキリ、宇宙人によるアブダクションなどなど、ありとあらゆる可能性も考えたが、どれもしっくりこない。逆に嫌がらせの場合、と言うのも考えてみたのだが、ユノさんは、そんな陰湿なことをするタイプには、どうしても思えなかったのだ。  そういう内訳で、ーーーこの、また新たな異世界に来てしまったとしか思えない、あのユノさんの対応を、僕は理解できずに、目の下に、クマを作っているわけであった。  そして、一晩中、くぐもった邪神の高笑いが、ポケットから聞こえていた。 「あ”あ”あ”あ”あ”あ”」  僕は頭を抱えたまま、これ以上、小さくなれないというほどに丸くなった。だけど、これ以上コンパクトになる前に、僕は、何やら僕を待っているらしい、ユノさんのところに出向かねばならなかった。  よくはわからない。  よくはわからないが、とにかく、人を待たせるのはよくない。お世話になっている人なら、なおさらだ。  僕は真っ赤になった顔をぱんっと叩いて、鞄を持つと、ユノさんに向かって走り出した。そして、走りながら、少し思った。 (なんだろう…『大嫌い』って、拗ねてたのかなあ…それはポジティブすぎかな。もしそうなら、なんかヒューに似てるけど…) (あと、昨日思ったんだけど、『動物』っていう言い方おかしくない?あんなふうに、言うのかな??) (というか、僕はどうして、キスのことを考えると…意識がぼやっとするんだろう…あれ?僕、たしか、ヒューと…) ※※次回、ユクレシアです。混同にご注意。

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