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いらっしゃい、名無しさん
『ウチの店に来ませんか』
そう誘われ、彼に手を引かれるがまま、酔いに賑わう夜の樋田を歩いた。
時折、他愛のない世間話なんかしたりしながら。
俺は歌を歌いにこの町へ来たこと、
彼もまた仕事として詩を歌っているということ、
実はよく行く蕎麦屋が同じだったこと、
近くの神社にある一本桜が丁度見頃だということ。
そんな差し障りのない世間話をしながらついたそこは『ゆずや』と書かれた遊郭だった。
薄暗くなった外からは眩しすぎるほどに輝いていた店内に入ると、煙管を咥えて壁に寄っかかっている花魁の姿が見えた。
「ただいま戻りました、橙子さん」
「はいよ……おや?もしやあんた様があの名無しさんかい?」
「名無し…?」
藤色の羽織を優雅に着こなしていて、艶やかな笑みを浮かべるその人は、彼とはまた違った華やかさがある花魁だ。
大人っぽい印象の見た目の割に、結構豪快に笑う。
『名無しさん』と呼ばれたのは少し気になったが、特に追及することでも無いような気がして辞めた。
「ちょっと橙子さん!もぉ、いつまでからかうんですか」
「はは、悪い悪い。ついな。まぁこの子の連れなら構わないさ、絢女さんには私から説明してやる。奥の桜の間なら一晩空いてるから好きに使いな」
「ありがとうございます」
『橙子』と呼ばれたその花魁は気前が良さそうな笑みで奥の扉を顎で指し、また煙管を吸い始める。
彼はまだ少し何やらむくれていたが、直ぐに直って礼をし俺の手を引いたまま長い廊下を進んでいく。
桜の間と呼ばれたその部屋に着くまでに何人か花魁やら芸者やらとすれ違ってその度に、あぁ、やはりこういう人達は胸やら腰周りが大きいのだと感心する。
いやいや、何を考えてんだ……こういうのって見ちゃいけないって思えば思うほど、罪なものに思えてくる。
「さぁ、着きましたよ。今食事運ばせるのでゆっくり寛いでいて下さい」
「あぁ、分かった」
彼は襖を少し開けて、廊下を通った者にいくつか料理を頼んでから、こっちへ戻ってきた。
人にあれこれ頼めるってことはきっとそれなりには位の高い男娼なのではないだろうか。
初めて出会った時から、薄々気がついてはいたが動作の節々に上品さが表れている。
果たして俺みたいな歌唄いなんかが、一晩も独り占めしてしまっても本当によかったのか。
彼が黙々と琴などの準備をしている間の沈黙が気になり、気を紛らわそうと視線を部屋のあちこちに巡らせていると、隣の座敷から楽しそうな声が聞こえる。
「なんか意外」
「そうですか?」
「もうちょっと如何わしいことしてるんだと思ってた」
けれど隣から聞こえてくるのは男女が楽しそうに談笑している声ばかりで、普通の居酒屋みたいだ。
「あぁ、花魁もいますが、私達は芸者ですから。主に琴を弾いたり舞を踊ったりするのが仕事なんです。まれに“そういった事“を所望されるお客様も居ますが…」
「そっか、詩を歌ってるってこういう事だったんだね」
俺と一緒だ、と微笑みかけると彼はどこか悲しそうに目を伏せてしまった。
「……お食事まで少し時間がありますし、先に湯浴みを済ませますか?」
その悲顔のわけを知りたくて手を伸ばすけれど、あと数センチ、ってところでパッと表情は変わってしまった。
「…うん、そうさせてもらおうかな」
だから、何となくそれ以上は聞くに聞けずそう頷くしか出来なかった。
「分かりました。ご用意は出来ております、こちらへどうぞ」
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