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秋の月夜に、昔を懐かしむお話

夜風が涼しい。 日中はまだ暑い日が多いけれど、いつの間にか朝晩にはすっかり冷えるようになってきたと思う。 明るい金の髪を後ろで一つに括った青年は、多忙な従者に代わって、孤児院の見回りをしていた。 外門の施錠を確認して振り返ると、眩しいほどの月が煌々と孤児院を照らしている。 「……満月かな? ランタンが要らないくらいだ……」 金髪の青年は、丸い月を金色の瞳に映して、うっとりと目を細める。 遠い遠い昔……あの日も、こんな風に月の明るい日だったな……。 青年は長い指先で自身の唇をそっと撫でる。 あの日、初めて触れ合わせた唇。 何も知らなかった自分に、ひとつずつ優しく教えてくれた人……。 ふと、月明かりに照らされた孤児院が、普段と違うシルエットになっている事に気付く。 孤児院の中でも一番背の高い建物の屋根の端。 そこに、誰かが座っていた。 あんなところに居る可能性があるのは、青年の知る限り一人しかいない。 別棟、玄関、一階の窓、二階の窓、と戸締まりを確認しながら上がってゆく。 耳を澄ましても、子ども達の話し声は無い。 日中散々外で走り回っていたからか、今夜は皆揃って寝てくれているらしい。 三階の奥、梯子をのぼって屋根裏の窓は、鍵が開いていた。 窓から顔を出せば、そこにはやはり、屋根に腰掛けて一人月を見上げている愛しい男の姿があった。 「カース……こんなとこにいたんだ?」 青年が尋ねると、夜に溶ける浅黒い肌をした男は、柔らかそうな細い黒髪を揺らして言った。 「ああ。見つかっちまったか……」 ずっと一人で黙っていたのか、小さく開いた唇から零された男の声は、低く掠れていてどうにも色っぽい。 「チビどもには言うなよ」 子ども達が窓から身を乗り出すだけで危ないと注意する男は、こんな柵も無い屋根の上に座っている様が見せられないらしい。 どことなくバツの悪そうな顔をしている男に、青年は笑いながら答えた。 「ふふっ、わかってるよ」 男と同じ景色が見たくて、青年は窓からその向こうへと視線を投げる。 丸くて大きな月は、地上から見るよりも、もう少しだけ近く感じた。 「月を見てたの?」 「ああ」 「綺麗な月だね」 「そうだな」 男は短く答えて、深い森のような緑色の瞳で空を見上げる。 懐かしい何かを映している様な、優しげな眼差し。 男は、この月の向こうに何を見ているのだろうか。 この男は過去の話をしない。 だから、この男がどこで生まれて、これまでどう過ごして来たのか、青年は知らないままだった。 初めの頃は、いつか話してくれたら良いなと思っていたけれど。 どうやら、彼は誰にも何も話さないまま死ぬつもりでいるらしい。 無理矢理聞き出そうとは思わなくても、それでも、時々、その思いを覗いてみたくはなった。 「……何、考えてたの?」 尋ねれば、男は月を見上げていた時と同じ、柔らかな眼差しを青年に向けた。 「お前は……?」 男は青年にそう尋ね返して、ゆっくり立ち上がると、窓からするりと室内へ戻る。 「俺は……、カースと初めてキスした時の事、思い出してた……」 金色の青年の素直な言葉に、黒髪の男は満足げに微笑む。 距離を詰められて青年が顔を上げると、男は浅黒い指先で青年の白い顎を引き寄せた。 「んっ……」 しばしの静寂。薄暗い屋根裏に、ランタンの灯りと月の光が混ざり合う。 優しく重ねられた唇をそっと離されると、青年はどうしようもなくなった。 「カース……」 思わずその名に縋った青年に、男は口端を持ち上げて優しげに囁く。 「俺もだよ」 青年は僅かに目を見開く。 この男が、今日の月に、自分と同じ思い出を蘇らせていたなんて……。 青年の胸に、温かいものが滲んで広がる。 過去なんて、きっと知らないままでいい。 この人はこんなに。昔も、今も、未来でも、俺を大事にしてくれる。 「……ね、今夜は月明かりの下でしよっか」 金色の青年が、月光を背に受けて柔らかく微笑む。 月の光に、キラキラと金の髪が反射して揺れる。 黒髪の男は、青年の姿にどこか眩しげに目を細めると、苦笑して応えた。 「あまり無茶してくれるなよ……?」

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