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第1章
高いところで一つに結わえられた黒髪が激しい動きにたなびいている。
肩を怒らせ、石畳を走ってくる八歳の少年は眉を吊り上げ、鋭い声を放った。
「何をしているっ」
厳しい口調だ。しかしまだ少年期特有の甲高い声である。しかし悪さをしていた三人の少年たちは動揺を持ってその言葉を受け止めた。彼らは少し狼狽え、互いに気まずそうに、素早く視線を合わせた。
三人のうち、一際、豪奢な服装の少年が代表して口を開いた。眉を吊り上げたまま、サリネは鋭い目線をそちらへ向ける。
「サリネ兄様、これは……違うんです、俺たちは手伝おうとしていただけで」
この状況ではあまりにも苦しい言い訳であった。これ以上聞く価値がないと判断し、サリネは途中で言葉を遮る。
「うるさいっ、ならばなぜ咲いている花を引き千切り、その者へ投げているのかわけを述べよ、愚かな弟とその取り巻きたちめ」
三人はみな一様に口を噤む。
サリネには三人ほどの少年たちが、頭を抱えて地面に蹲る、豊かな金髪を持つ華奢な少女に向けて引き千切った花を投げつけているように見えている。
大方、弟の残酷でたわいも無いいじめだろう。だがそれを『皇子だから』と言って大めに見る、という選択肢はサリネにはない。
蹲っていた少女が顔をあげ、近寄るサリネを見上げた。
ここは中庭で、背の高い建物に囲まれているものの、日差しがよく入ってきている。花が散らされ、絡まった少女の金髪から雫が垂れ、それが髪色と同じく金色に反射する。
晴天の空からそのまま色を落とし込んだように美しい水色の瞳からはまだ涙が流れ、土や泥で汚れた頰を濡らしていた。癖のある長い髪には投げつけられた花びらの残骸が絡まり、白いシャツは砂や水で汚れている。きっと彼女は植物の世話がしやすいよう、普段から動きやすい格好をしているのだろう。ズボンは踝あたりで裾を丸めて、サスペンダーで吊っている。南国育ちのサリネから見れば、その服装は北方の国特有のものに見えた。サリネの国では一年中乾いた暑さが続くので、男女ともに緩く、風通しの良い服を着る。
サリネは駆け寄り、懐から出したハンカチで涙や、顔についた砂を拭ってやった。また身体が震えていたので、自分が着ていた上着を肩にかけてやる。
しかし少女は泣き止まない。新たに溢れてきた涙を見て、サリネはまたかっとなり、声を荒げた。
「誰かをいじめて泣かせるなど、それでもお前はメア・ドゥリースの皇族かっ、セラムっ」
セラム、と名指しで呼ばれた少年は顔を真っ赤にした。そして、しばらく経つと震える唇を開く。
「う、うるさいっ、サリネ兄様なんか、兄様なんか、オメガのくせに……」
「それがどうしたっ!」
今日一番の怒声が辺りに響き渡った。白亜の開放的な城の壁に言葉が反響している。サリネの大きな声に反応して、サリネ以外のこの場の全員が身体を一瞬びくつかせた。
「私がオメガだから何だと言うのだっ、他人の大切なものを踏みじり、泣かせるお前たちは最低だっ」
サリネは立ち上がり、セラムの方へ詰め寄っていく。そして胸ぐらを掴み、地面へと突き飛ばした。
「私がこれ以上お前たちに危害を加えないうちに立ち去れ、そして私の名の下、お前たちがここに近づくことを禁止する、ほらっ、行けっ!」
セラムは急いで立ち上がり、踵を返して逃げていく。取り巻きたちもなんだかんだと言いながらも、セラムを追いかけていき、すぐに姿が見えなくなった。
三人がいなくなり、サリネはまだ蹲っている少女へ再び近づく。
そして膝をつき、首を垂れ、謝罪した。
「私の愚弟たちが申し訳ないことをしてしまった。だが、彼らはここにはもう近づかないだろうし、貴方の大切な花たちにも手を出さないだろう。こんなことを言うのは烏滸がましいのかもしれないが、どうか寛大な心で許して欲しい。すまなかった」
「あ、頭を上げて……くださいっ」
その時、初めて少女が口を開いた。可愛らしく、線の細い声だが掠れている。メア・ドゥリース帝国は開かれた国風で、他国からの留学生が多い。この少女も何かの学問を修めに来たどこかの国の姫なのだろう。
サリネの頭を起こそうとしているが、サリネは動こうとしない。彼女が許すまで、頭を下げているつもりだ。
「ゆ、許しますっ、許しますからどうか頭を上げてください」
「ありがとうございます、貴方の砂漠のように広く、寛大な心に感謝します」
許しが出たので、サリネは立ち上がる。そして、少女越しに無残にも荒らされてしまった花壇を見た。
サリネは眉を顰めた。
「愚弟の失態は兄である私の責任だ、貴方の美しい花壇が元通りになるまで、私もお手伝いします」
「そこまでして頂かなくても」
「いえ、ぜひやらせてほしい。このままでは私の気持ちも済まない」
サリネはまだ困惑している少女の手を取り、淡い水色の瞳をじっと見つめた。
「私はメア・ドゥリース帝国、第五皇子のサリネと申します。これからよろしくお願いしますね」
少女は名乗るのも忘れて、あどけなく白い頬を薔薇色に染め、惚けたようにサリネを見つめている。不躾に女性に対して名前や年齢を聞いてはいけない、と母から教えられていた。なのでサリネはそれ以上は何も聞かず、彼女の美しい顔に笑いかけると、花壇の方へ促した。
荒らされた花壇はサリネの協力もあり、一週間ほどで元通りになった。枯れてしまった植物は新しいものを貰い、新たに植え直したり、柵を立てかけて、容易に人が中へ入り込まないように工夫をする。
花壇はサリネが母と住む後宮の一角からはほど近いところにある。なので毎日通い、サリネは少女と親交を深めていった。
そして互いに花や植物が好きという共通点もある。二人が仲良くなるのにそう時間はかからなかった。
いつものようにサリネが例の花壇に向かう。すると少女が座り込んでいるのが見えた。
こちらからは後ろ姿しか見えないが、俯き、肩が震えている。
(まさか、またセラムたちが……っ)
小走りで駆け寄り、まず花壇を確認した。
荒らされたり、壊されたりしている様子は無い。やっと咲いたばかりの晴蘭花は昨日と同じように美しく、黄色く咲き誇っている。ちなみにこの晴蘭花はメア・ドゥリース帝国固有の種で、サリネの紋章にも使われているが、栽培はとても難しい。花を咲かせるとなると、それなりの技術が必要であるので、サリネはまさか他国の者が咲かせられるとは思ってもみなかったので驚いた。
彼女の花や植物に関する知識は本物なのだ。
「姫、どうかされましたか?」
サリネは横に座り、優しく声をかけた。どうやらサリネが近づいてきたことに気がつかなかったらしい。大袈裟に少女の肩が跳ね、その勢いで顔を上げた。
「サリネ様……」
泣きすぎたのか、目が赤く腫れている。グスグスと鼻を鳴らしており、サリネは少女が口を開くまで辛抱強く待った。
「明日、国に……シャルパンティエに帰らねばならないのです」
可愛らしい声がしゃがれて、低くなっている。おそらく泣き過ぎて、喉を痛めたのだろう。
シャルパンティエといえば北方にある冬が長い雪国である。こことは正反対の気候の場所だと聞いたことがあった。
「急にまた、どうして」
「兄がオメガであることがわかり、ぼ……わ、私はすぐに帰国しろ、とお父様とお母様が……」
この世界には男女の性の他にアルファ、ベータ、オメガというバース性がある。
アルファは支配階級の性で、サリネの兄弟はサリネ以外は全員アルファだ。男性のアルファは女性や男性オメガを孕ませることができる。
ベータは被支配者階級の性で、一番人口が多い。
オメガは男性であっても孕むことのできる性だ。
また、どこの国でもオメガに王位継承権はない。それはオメガの発情期が関係している。三ヶ月に一度、人によっては一ヶ月に一度、期間は一週間くらい、発情期と呼ばれるものがやってくる。その間、仕事どころか日常生活さえままならなくなってしまうため、男性だろうと、女性だろうとオメガには基本的に王位継承権は与えられないのだ。
もちろんオメガのサリネにも王位継承権はなかった。なので、兄や弟たちが名乗っている姓も与えられていない。いづれ名家のアルファの元へ婿養子もしくは嫁入りすることが決まっているからだ。
サリネにも一応、親が決めた許嫁がいる。五歳年上のエレアザールという大貴族の貴公子だ。だが、サリネはどうしてもエレアザールが好きになれず、大人になってから断ろうと考えていた。
「失礼ですが、姫、貴方のバース性は?」
「ア、アルファ、です」
それならば女王として立てられるのかもしれない。それでも自分の望まない、親が決めた相手と結婚をしなければならないだろう。
「私は、国には帰りたくありません……、もっと花や植物の研究をして、大学で学問を修め、いずれは研究者として名を馳せたいと思っていました。昨日やっと栽培が難しい晴蘭花を貴方と一緒に咲かせることができたのに、国に帰ればそれも全て意味がなくなってしまうっ、帰りたくない、国なんか継ぎたくないっ」
とりつく島がないほど泣き始めた。膝に顔を埋め、大声を上げている。
流石のサリネも困り果ててしまった。
ふと、少女から視線を外し、花壇を見やる。
晴蘭花だけでなく、二人で工夫して育てた様々な花や植物が灼けつくような日差しを照り返し、力強く咲き誇っている。その逞しく、生命力に溢れた様子と少女が泣いている様子を交互に見比べ、サリネは立ち上がった。
二人で育てた花を茎から長めにして千切る。そして何本か、それを手に握り、再び横に座るとそれらを交差させ、組み合わせて器用にも編み込み始めた。
黄色い花は彼女の髪を、青や緑色は彼女の瞳をそれぞれ表す。いつの間にか少女もサリネの手元をじっと見つめていた。
「よし」
最後に一輪、大きめの晴蘭花を差し込んだ。
そしてサリネはでき上がった花冠を少女の頭に恭しく、優しくのせた。
「聡明で、可愛らしい貴方に泣き顔は似合いません。どうかこの晴蘭花が咲いた時のように、花のように愛らしく、太陽のように眩しくずっと笑っていてほしい」
少女は頭を押さえた。指にサリネが捧げた花冠があたり、ハッとした顔になる。そして顔を赤らめた。何事か言おうと、何度か口を開くが、言葉になっていない。
その様子を見てサリネまで照れてくる。
そしてこの少女に国へ帰ってほしくない、という気持ちが出てきた。
これでさよならなんかしたくない。もっと一緒にいて、植物を育てたり、花の話をしたり、色々なことをしてみたい。
しかし、国の決定にまだ何の力もないサリネも少女も逆らえるわけがない。
初めから叶うわけがない思いだとわかり、自覚した思いを隠すようにサリネは言葉を続けた。
「国に帰り、望まない人生を歩まなければならないとしてもどうか悲観しないで。どうしてもダメだと思ったら私を呼んでください」
サリネは自分が緊張しているのを感じた。誰かにこんなことを言うのも初めてだったからだ。
「私が貴方を拐いに行きます、そして砂漠のどこか、まだ誰にも見つかっていないオアシスで、二人きり、花を咲かせましょう」
金色の前髪を指で梳きながら左右に分ける。出てきた白い額に、サリネはそっと唇を押し当てた。
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