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約束

「夏休みなんですから、ちょっと増やしてもいいですよね」  八月に入って、茂の家に勝手に居座っていた菜月はぬけぬけとそんなことを言った。  リビングのテーブルに頬杖をついて、スマホを弄っていたところからにこっと笑みで見上げてきて。 「ちょっとじゃないだろ!? 一昨日も来たじゃないか」  一昨日は茂も休みだった。  先日、やっと大学も夏休みに入ったとはいえ、講師や教授といった職員は普通に出勤なのである。  その中の日曜日。  菜月が訪ねてきていた。 「昨日は来てませんもん」  なのに菜月は屁理屈をこねる。 「じゅうぶん増えすぎだ!」  茂の言葉はツッコミじみてしまった。  あれから二週間ほどが経った。  解決したかというと、完全にはしていない。  杏子と咲耶と話をして、咲耶にも説明した。子供に話しても構わない範囲でだが。 「事情があって、今は離れて暮らさないといけないんだ」  茂は咲耶を膝の上に抱いて、話した。 「でもパパは咲耶を嫌いになったわけじゃない。なにかあれば必ず駆けつける。幼稚園の父兄参観でも、咲耶がいなくなっても。絶対に」  咲耶は茂の説明をじっと聞いていた。  きゅっと茂のシャツを握っていた、その手。  今度は茂が手を伸ばし、捕まえた。  小さな、小さな手をしっかり手に包み込む。 「約束する」  それは誓いだった。  まるで菜月がしてくれたことを、そのまま返しているようだと思う。  でもきっとそういうものなのだ。  茂が知らない間に『菜月を救った』ように。  ひととの間に連鎖して、繋がっていくもの。 「……絶対よ」  咲耶はそう言ってくれた。茂の手を握り返して。  咲耶の気持ち、本当には満たされることはないのだろう。  望みを叶えてやることはできないのだから。  だからいつまでも、本当の解決と言えるかは怪しいものだ。  でも今できる精一杯はこれからもする。  その誓いだ。  そのあと、杏子と二人だけでも話した。  菜月との関係についても。 「別に他言しないわよ。元夫が男子高校生と付き合ってるなんて、私にとってだって、誇れることじゃないもの」  杏子の声も表情も態度もツンとしていて、到底優しいものではなかったけれど、内容は優しかった。  茂にとってはじゅうぶんすぎるほど、優しかった。 「でも捕まるようなことをしてくれたら、今度こそ縁を切るわ。犯罪者なんかと付き合えないから」 「そんなこと、絶対にしないさ」  それ以上は言ってくれなかったけれど、やはりじゅうぶんだったのだ。  杏子には苦労ばかりかけている、と思う。  たとえ養育費や生活費を渡していても、そんなものでは本当に労っていることにはならない。  茂にとってできる、一番のことは、誠実に過ごすこと。  杏子と咲耶、二人の生活を見守ること。  それだけでも欠かさず与えたい。  流石に杏子の手など取れやしなかったけれど、茂はそのくらいの気持ちで言った。  「ありがとう」と。 「そうだ、茂さん。冷たい飲み物がありますよ。レモネード」  菜月はスマホをぽいっと放り出して、キッチンへ向かった。冷蔵庫を開ける。 「お? そんなもん、だいぶ久しぶりだよ」  苦言を呈した上に、ツッコミまでした直後だというのに、そんなものはすぐ消えてしまった。  諦めもあるけれど、それは諦念ではない。  ただ、菜月の行動力や積極性に対する、少々の呆れと、それから言葉には出さないけれど、愛おしさ、なのだから。  菜月はすっかり茂の家の台所番になってしまって、今では茂一人のときでも食べるに困らないような食料をちょくちょく入れていってくれる。  高校生にそんなことをさせて申し訳ない、と思う気持ちはあれど、そこは多分、甘えていいのだ。  菜月はそのクチで、レモネードだという瓶を取り出して、氷と一緒にグラスに注いだ。  ソファに腰掛けて待っていた茂の元へ持ってきて、手渡してくれる。そして自分も隣に座った。 「え、これ絞ったのか?」  渡されたレモネードは明らかに買ったものではなかった。  だって、レモンの果肉がチラチラ見えるのだから。  買ったものでこんなもの、そうそうあるものか。 「ええ。そんな難しくないんですよ」  菜月はにこっと笑って、「どうぞ」と勧めてきた。  酸っぱいだろうか、レモネードというからには酸っぱいのだろう。  危惧しておそるおそるになってしまったけれど、口に入ってきたレモネードは甘酸っぱかった。  レモンの酸っぱさははっきり感じられるけれど、確かに甘みがある。ちょうど飲みやすいくらいに。 「美味い」 「それは良かったです」  茂の褒め言葉、たったひとことだけだったのに、菜月は本当に嬉しそうに笑う。  自分で言ってくれたように、好きなひとに手料理を振る舞えるのが幸せ。  そう、笑みに表れていた。  菜月も自分のぶんをゆっくり飲んでいく。 「甘みがあるけど、砂糖か?」 「砂糖じゃ溶けにくいですから、はちみつですよ」  夏の渇いた体に染み入るようで、つい次々飲んでしまう中で聞いてみると、菜月は素直に教えてくれる。  しかしそこでなにか、思いついたような顔になった。  悪戯っぽいような、なにかたくらんでいるような。  無邪気でありながら、ちょっと悪い笑み。  茂がそれにぎくっとしたときにはもう遅かった。  菜月は片手にグラスを持ったまま、茂の腿にもう片方の手をついて、器用に触れてきたのだから。  どこにって、レモンの味がするところに決まっている。  数秒ののち、確かにレモンの味がした、なんて思ってしまった。  呑気すぎることに。  菜月はその数秒のあと、体を引いた。  ソファの上に片膝をついた行儀の悪い姿勢で、ふふっと笑う。  でもその頬ははっきり色づいていたのだ。  ここまで茂が見たこともないような、かわいらしい色に。 「確かにレモンの味なんですね。初めてですから」  恥ずかしそうな表情を浮かべつつも、それでも普段の菜月だった。  舌を出して、味を確認するようにぺろっと小さく舐める。  その仕草にやっと実感してしまって、こちらのほうが恥ずかしくなる。  菜月よりずっとはっきり顔が赤くなっただろう。 「や、ちょ、それはレモネードなんて飲んでたんだから当たり前……」 「いいえ、初めてだからですよ」  ツッコミにも菜月は動じない。  はっきり言い切った。 「だって俺、茂さんが初恋だったんですから」  (完)

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