22 / 23
貴方を独りにしないから
会場は早々閉まってしまった。まだ十八時だというのに。
それでもその頃、既に子供たちの姿はなかった。
やはり子供の帰宅は早いもの。
それに合わせて会場も運営されていたのだから、「もう閉めますよ」と追い出すようにされて、一番最後に会場を出た。
菜月は「すみません」と急いで用具を片付けて、元通りバッグに詰めて、そして茂に追いついてくる。
会場を出ても、なんとなく駅のほうへは向かわなかった。河川敷を歩いていく。
夏の折だが、河辺だ。水の上を通ってくる風は僅かではあるが涼しくあった。
「小学校に実習で行ったんだっけな」
茂はぽつりと言った。
七年前。
まだ茂が大学生だった頃の話。
学校の教育実習、ではないが、研究を兼ねて小学校を訪ねた。
そのとき扱ったのが、工学部で、かつ小学生の興味を惹きそうなものということで、ミニ四駆だったのだ。
そのとき受け持った小学校やクラス。
やはり申し訳ないことに茂は詳細に思い出せなかったが、菜月がいたのだという。
「茂さんは、俺のことを救ってくれたんです」
菜月も小さな声で言う。
だがそれは茂にとっては思い当たらないことであった。
自分は授業をしたに過ぎない。
いや、大学生の実習だったのだから、授業というより半分遊びのようなものであったし。
それで救われた、なんてたいそうなことを言われようとは。
菜月は茂を見上げ、ふっと笑う。
まるでそこに、その頃の茂がいるかのような顔で笑う。
「あの頃の俺は、今と全然違ったと思います。友達の輪にもなかなか入れないくらい、引っ込み思案で。暗かったでしょうね」
「そうだったのか。意外だな」
「あ、失礼ですね」
茂の返しには膨れられたけれど。
でもこれはもう、いつものやり取りで、いつもの二人だった。
「俺、あの授業でミニ四駆に初めて触れました。それで夢中になっちゃったんです」
菜月は視線を外して、前を見る。ゆっくり河川敷を散歩のように歩く形で。
「ミニ四駆を好きになって、得られたのは『好きなこと』だけじゃありませんでした。俺、意外と才能あったみたいで、クラスの中でも速いほうになれました。それで尊敬……っていうと図々しいですけど。みんな、俺を仲間に入れてくれるようになりました。それどころか『教えてくれよ』なんて言ってもらえるようになって……。そのときから俺は変われたんです。今みたいな、明るい自分に」
懐かしそうな声で、話してくれる。
茂はただそれを聞いた。
「それは茂さんのくれたものなんですよ。『自信』です」
そこまで話し終えて、菜月は再び茂を見た。
今度はにこっと、はっきり明るい笑みであった。
「……そりゃ、良かった。覚えてなくて、悪かったよ」
「いえ、たくさんいた生徒の一人でしたからね」
そこまで話したところで、河川敷が途切れた。
近くに階段があったので、のぼって駅への道に戻るところだったけれど、菜月は河のほうへ寄っていった。
石を拾い上げる。
どうするのかと思えば、ひょいっと河へ投げた。
驚いたことに、石はピッピッと綺麗に水の上を跳ねていく。
水切り。
こんな綺麗なもの、茂は初めて見た。
「えへへ、小学生の頃、友達同士、ここでレースをするようになって、今日みたいに追い出されても、まだ帰るのが惜しいときとか。こうして遊びました。上手い友達に教えてもらったんですよ」
もうひとつ石を投げてから、菜月はもう一度、こちらを見た。
話は再開されるようだったので、茂は聞く体勢になる。
「茂さんはひとになにか教えるだけじゃない。大切なものをくれるんです。それは明るい性格だったり、知識だったり、モノだったりするかもしれません」
菜月の顔は穏やかだった。
なにかしら、彼の中で決めたことがある。
表情がそう言っていた。
次のことは数秒、間があった。
けれど菜月は口を開く。硬いけれど、はっきりした口調で言った。
「杏子さんにもそうです。咲耶ちゃんという存在を与えられたのは茂さんじゃないですか? たとえ壊れてしまったとしても、なにもなかったってこと、ないんじゃないですか?」
きっとこれが本題だった。
ミニ四駆コースに連れてきて、一緒に走ったこと。
これを話したかったからだろう。
茂はこの話題に胸が冷える思いを味わった。
今はまだ考えたくなかったし、どうしたらいいかもわかっていなかったことだ。あまり話したい話題ではない。
でも菜月のほうはなにか心に決めたらしい。
伝えたいと思ってくれるらしい。
茂の目を見つめる瞳は、まるで言い聞かせるようなものだった。
「咲耶ちゃんにもそうです。今、一緒に暮らせないのはわかります。それで咲耶ちゃんが寂しくなるのもわかります」
茂にとって大切な存在、ふたつ。
意味は違っても、そして今はその『大切』が変わってしまっても、確かに『大切』とくくれるカテゴリなのだ。
菜月にとっては胸に痛いだろうに。
恋人……いや、一旦は終わりを切り出されたのだから、今、そうあるかは微妙である。
が、菜月はきっと、終わりにしたつもりはないのだ。
そう伝わってきた。
だからこそ、こうして話をしてくれるのだろう。
思ったこと、伝えてくれるのだろう。
「でも、茂さんは立派なお父さんです。参観日のときに見て、思いました。ちゃんと『お父さん』だから、咲耶ちゃんはあんなに嬉しそうだったんだって」
菜月の言った言葉は優しかった。
けれどただの慰めではない。
菜月が本当にそう感じたから言ってくれている。
そのくらい、もうわからないはずがない。
「……そう、だろうか」
でもすぐに「そう言ってくれるならそうなんだな!」なんて言えるものか。
感じた嬉しさのまま、そんなふうに素直に受け入れられる青い時期、茂はとっくに過ぎてしまっている。
曖昧な返しに、菜月はちょっと首をかしげる。肯定するようであった。
「そうです。茂さんは、誰かに色々与えてくれるひとなんですよ」
今度は「そうだろうか」も言えなかった。
多分、「そうなんだ」と思っていいところなのだろうから。
だいぶ歩いて、水切りまでして、夏の折とはいえ、流石に暗くなっていた。
もう会場だったところはすっかり撤収されて、ひとはいなくなっただろう。
菜月がちらっと上のほうを見た。
そこには普通の道路がある。
歩いているひとはいなかった。
ただ、薄暗くなった藍色の夕方だけ。
その視線の意味。
茂は自分の手で知った。
菜月が一歩踏み出し、茂の手を取ったのだから。
それはまるで、二度目の告白をしてくれたときのものと同じように感じられた。
実際、そうだったのだろう。
片手で荷物の入ったバッグを地面に置いて、その手も持ち上げた。
茂の手を両手で包む。
菜月の手はまだ茂より小さいけれど、そうすればしっかり包み込めるのだ。
少し汗ばんだ、大人と子供、中間の手に包まれて、茂は悟ってしまう。
まるで誓いのように茂の手を包み、菜月は目を伏せて続けた。
茂の顔は見てくれないけれど、それはこちらを見たくないから、ではなかっただろう。
自分に言い聞かせる。そんな口調と伏せた顔であった。
「だからもう、茂さんも独りでいちゃいけません」
ぎゅ、と菜月の手に力がこもる。そのままの姿勢で言われた。
「俺はまだ高校生ですが、大人になったら必ず茂さんを支えられるような男になります。なにも隠さなくてもいいくらい、貴方を守れるようになってみせます」
どきりと茂の胸が高鳴った。
隠さなくてもいいくらい。
それはずっと、茂が恐れ、嫌だと思っていたことだ。
この子にそこまでは話していない。
なのにどうしてわかるというのか。
見抜いたように、その嫌悪を抱いてしまう事項から守ると言ってくれるように、伝えられた。
どくどくと心臓の鼓動が速くなる。
触れ合っている、包まれている手を通して菜月にも伝わってしまったかもしれない。
それを恥ずかしいとは思ったけれど、何故か、嫌だとか困るとか。
そうは思わなかったのだ。
「……難しいと、思うが」
やっと言った。
受け入れるような返事になった。
でもここまできても、それは曖昧であった。
本当に、自分の悪いところを思い知らせられるような言い方。
なのに、菜月はその言葉で顔を上げた。
今度こそ視線が合う。
今の菜月の目。
はっきり大人のものではなかった。
それどころか、あどけなさもだいぶ含まれた色であった。
菜月も自分でわかっているのだろう。
自分はまだ大人になりかけなのだと。
常に大人の顔ができないくらいには、子供でもあるのだと。
それでも今の菜月の気持ちで伝えてくれるし、伝えたいと思ってくれている。
それが一番の誠意であった。
「やってみせますよ。今日、レースで勝てたのと同じです」
「人生はレースじゃないだろう」
まただ、と思いつつ茂は言った。
そして思った途端、ほわっと体があたたかくなった。
まるで包んでくれている菜月の手の温度が移ったように。
きっとそうだった。
菜月の手から、言葉から、視線から。
茂の心の中にまで、入ってきてくれた。
だからこれ以上は必要なかった。
菜月はもう一度、笑みを寄越してくれて、そしてそっと手を離した。
特になにも言わなかった。
オレンジ色が消えて、藍色だけの空になって、ようやく河川敷から上の道へ戻って。
駅へ向かう間も、手は繋がなかった。
まだ早いから。
いつかは菜月が手を取って、そのあと繋いで歩けるようになるのだと思う。
でも今はまだ。
だけど今はこれでいいと思ってしまう。
だって、この先は確かにあるのだから。
不安も包み込んでくれるあのあたたかな手が、横にある。
それだけではっきり感じられて、やはり言葉は要らなかった。
三度目の告白の言葉も要らなかった。
ともだちにシェアしよう!