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貴方を独りにしないから

 会場は早々閉まってしまった。まだ十八時だというのに。  それでもその頃、既に子供たちの姿はなかった。  やはり子供の帰宅は早いもの。  それに合わせて会場も運営されていたのだから、「もう閉めますよ」と追い出すようにされて、一番最後に会場を出た。  菜月は「すみません」と急いで用具を片付けて、元通りバッグに詰めて、そして茂に追いついてくる。  会場を出ても、なんとなく駅のほうへは向かわなかった。河川敷を歩いていく。  夏の折だが、河辺だ。水の上を通ってくる風は僅かではあるが涼しくあった。 「小学校に実習で行ったんだっけな」  茂はぽつりと言った。  七年前。  まだ茂が大学生だった頃の話。  学校の教育実習、ではないが、研究を兼ねて小学校を訪ねた。  そのとき扱ったのが、工学部で、かつ小学生の興味を惹きそうなものということで、ミニ四駆だったのだ。  そのとき受け持った小学校やクラス。  やはり申し訳ないことに茂は詳細に思い出せなかったが、菜月がいたのだという。 「茂さんは、俺のことを救ってくれたんです」  菜月も小さな声で言う。  だがそれは茂にとっては思い当たらないことであった。  自分は授業をしたに過ぎない。  いや、大学生の実習だったのだから、授業というより半分遊びのようなものであったし。  それで救われた、なんてたいそうなことを言われようとは。  菜月は茂を見上げ、ふっと笑う。  まるでそこに、その頃の茂がいるかのような顔で笑う。 「あの頃の俺は、今と全然違ったと思います。友達の輪にもなかなか入れないくらい、引っ込み思案で。暗かったでしょうね」 「そうだったのか。意外だな」 「あ、失礼ですね」  茂の返しには膨れられたけれど。  でもこれはもう、いつものやり取りで、いつもの二人だった。 「俺、あの授業でミニ四駆に初めて触れました。それで夢中になっちゃったんです」  菜月は視線を外して、前を見る。ゆっくり河川敷を散歩のように歩く形で。 「ミニ四駆を好きになって、得られたのは『好きなこと』だけじゃありませんでした。俺、意外と才能あったみたいで、クラスの中でも速いほうになれました。それで尊敬……っていうと図々しいですけど。みんな、俺を仲間に入れてくれるようになりました。それどころか『教えてくれよ』なんて言ってもらえるようになって……。そのときから俺は変われたんです。今みたいな、明るい自分に」  懐かしそうな声で、話してくれる。  茂はただそれを聞いた。 「それは茂さんのくれたものなんですよ。『自信』です」  そこまで話し終えて、菜月は再び茂を見た。  今度はにこっと、はっきり明るい笑みであった。 「……そりゃ、良かった。覚えてなくて、悪かったよ」 「いえ、たくさんいた生徒の一人でしたからね」  そこまで話したところで、河川敷が途切れた。  近くに階段があったので、のぼって駅への道に戻るところだったけれど、菜月は河のほうへ寄っていった。  石を拾い上げる。  どうするのかと思えば、ひょいっと河へ投げた。  驚いたことに、石はピッピッと綺麗に水の上を跳ねていく。  水切り。  こんな綺麗なもの、茂は初めて見た。 「えへへ、小学生の頃、友達同士、ここでレースをするようになって、今日みたいに追い出されても、まだ帰るのが惜しいときとか。こうして遊びました。上手い友達に教えてもらったんですよ」  もうひとつ石を投げてから、菜月はもう一度、こちらを見た。  話は再開されるようだったので、茂は聞く体勢になる。 「茂さんはひとになにか教えるだけじゃない。大切なものをくれるんです。それは明るい性格だったり、知識だったり、モノだったりするかもしれません」  菜月の顔は穏やかだった。  なにかしら、彼の中で決めたことがある。  表情がそう言っていた。  次のことは数秒、間があった。  けれど菜月は口を開く。硬いけれど、はっきりした口調で言った。 「杏子さんにもそうです。咲耶ちゃんという存在を与えられたのは茂さんじゃないですか? たとえ壊れてしまったとしても、なにもなかったってこと、ないんじゃないですか?」  きっとこれが本題だった。  ミニ四駆コースに連れてきて、一緒に走ったこと。  これを話したかったからだろう。  茂はこの話題に胸が冷える思いを味わった。  今はまだ考えたくなかったし、どうしたらいいかもわかっていなかったことだ。あまり話したい話題ではない。  でも菜月のほうはなにか心に決めたらしい。  伝えたいと思ってくれるらしい。  茂の目を見つめる瞳は、まるで言い聞かせるようなものだった。 「咲耶ちゃんにもそうです。今、一緒に暮らせないのはわかります。それで咲耶ちゃんが寂しくなるのもわかります」  茂にとって大切な存在、ふたつ。  意味は違っても、そして今はその『大切』が変わってしまっても、確かに『大切』とくくれるカテゴリなのだ。  菜月にとっては胸に痛いだろうに。  恋人……いや、一旦は終わりを切り出されたのだから、今、そうあるかは微妙である。  が、菜月はきっと、終わりにしたつもりはないのだ。  そう伝わってきた。  だからこそ、こうして話をしてくれるのだろう。  思ったこと、伝えてくれるのだろう。 「でも、茂さんは立派なお父さんです。参観日のときに見て、思いました。ちゃんと『お父さん』だから、咲耶ちゃんはあんなに嬉しそうだったんだって」  菜月の言った言葉は優しかった。  けれどただの慰めではない。  菜月が本当にそう感じたから言ってくれている。  そのくらい、もうわからないはずがない。 「……そう、だろうか」  でもすぐに「そう言ってくれるならそうなんだな!」なんて言えるものか。  感じた嬉しさのまま、そんなふうに素直に受け入れられる青い時期、茂はとっくに過ぎてしまっている。  曖昧な返しに、菜月はちょっと首をかしげる。肯定するようであった。 「そうです。茂さんは、誰かに色々与えてくれるひとなんですよ」  今度は「そうだろうか」も言えなかった。  多分、「そうなんだ」と思っていいところなのだろうから。  だいぶ歩いて、水切りまでして、夏の折とはいえ、流石に暗くなっていた。  もう会場だったところはすっかり撤収されて、ひとはいなくなっただろう。  菜月がちらっと上のほうを見た。  そこには普通の道路がある。  歩いているひとはいなかった。  ただ、薄暗くなった藍色の夕方だけ。  その視線の意味。  茂は自分の手で知った。  菜月が一歩踏み出し、茂の手を取ったのだから。  それはまるで、二度目の告白をしてくれたときのものと同じように感じられた。  実際、そうだったのだろう。  片手で荷物の入ったバッグを地面に置いて、その手も持ち上げた。  茂の手を両手で包む。  菜月の手はまだ茂より小さいけれど、そうすればしっかり包み込めるのだ。  少し汗ばんだ、大人と子供、中間の手に包まれて、茂は悟ってしまう。  まるで誓いのように茂の手を包み、菜月は目を伏せて続けた。  茂の顔は見てくれないけれど、それはこちらを見たくないから、ではなかっただろう。  自分に言い聞かせる。そんな口調と伏せた顔であった。 「だからもう、茂さんも独りでいちゃいけません」  ぎゅ、と菜月の手に力がこもる。そのままの姿勢で言われた。 「俺はまだ高校生ですが、大人になったら必ず茂さんを支えられるような男になります。なにも隠さなくてもいいくらい、貴方を守れるようになってみせます」  どきりと茂の胸が高鳴った。  隠さなくてもいいくらい。  それはずっと、茂が恐れ、嫌だと思っていたことだ。  この子にそこまでは話していない。  なのにどうしてわかるというのか。  見抜いたように、その嫌悪を抱いてしまう事項から守ると言ってくれるように、伝えられた。  どくどくと心臓の鼓動が速くなる。  触れ合っている、包まれている手を通して菜月にも伝わってしまったかもしれない。  それを恥ずかしいとは思ったけれど、何故か、嫌だとか困るとか。  そうは思わなかったのだ。 「……難しいと、思うが」  やっと言った。  受け入れるような返事になった。  でもここまできても、それは曖昧であった。  本当に、自分の悪いところを思い知らせられるような言い方。  なのに、菜月はその言葉で顔を上げた。  今度こそ視線が合う。  今の菜月の目。  はっきり大人のものではなかった。  それどころか、あどけなさもだいぶ含まれた色であった。  菜月も自分でわかっているのだろう。  自分はまだ大人になりかけなのだと。  常に大人の顔ができないくらいには、子供でもあるのだと。  それでも今の菜月の気持ちで伝えてくれるし、伝えたいと思ってくれている。  それが一番の誠意であった。 「やってみせますよ。今日、レースで勝てたのと同じです」 「人生はレースじゃないだろう」  まただ、と思いつつ茂は言った。  そして思った途端、ほわっと体があたたかくなった。  まるで包んでくれている菜月の手の温度が移ったように。  きっとそうだった。  菜月の手から、言葉から、視線から。  茂の心の中にまで、入ってきてくれた。  だからこれ以上は必要なかった。  菜月はもう一度、笑みを寄越してくれて、そしてそっと手を離した。  特になにも言わなかった。  オレンジ色が消えて、藍色だけの空になって、ようやく河川敷から上の道へ戻って。  駅へ向かう間も、手は繋がなかった。  まだ早いから。  いつかは菜月が手を取って、そのあと繋いで歩けるようになるのだと思う。  でも今はまだ。  だけど今はこれでいいと思ってしまう。  だって、この先は確かにあるのだから。  不安も包み込んでくれるあのあたたかな手が、横にある。  それだけではっきり感じられて、やはり言葉は要らなかった。  三度目の告白の言葉も要らなかった。

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