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第1話

「今日の潤也(じゅんや)の運勢は小吉ってところか」  湯沢(ゆざわ)(たかし)はカウンター越しに僕の顔を覗き込むなり、今日も同じ台詞を口にした。確か前回の運勢も『小吉』だった気がする。 「まぁ、そんなところかな」  僕は曖昧な苦笑で答える。ドリップされたコーヒーのいい香りが漂ってくる。残業帰りに隆のいれてくれる特製ブレンドで一息つき、会社での愚痴を少しだけこぼして帰るのが金曜の夜の秘かな僕の楽しみだ。 「小吉上等! 多くを期待せず日々健康で何事もなく暮らして行けるのが人生一番だぞ」  そう言って豪快に笑う男らしい風貌を見上げた。中学生時代そのままのやんちゃなガキ大将的イメージは、十数年を経た今でもまったく変わっていない。器だけはすくすくと育ち今では185センチ、80キロにもなる立派な体は幾分いかつい容貌とともにちょっとした迫力があるが、似合わないエプロンを着けコーヒーを入れる姿もそこそこ様になってきた。  いや、そこそこどころではなくかなり様になっている。この喫茶店『湯沢堂』を開業して3年、元田舎の暴れん坊少年はもう一端のマスターだ。  店主の野放図な雰囲気にそぐわない洒落たアンティーク調の内装と、静かに流れるクラシックのBGMが居心地のいい空気を作っている店内は、カウンターが5席にテーブルは4卓だけのこじんまりした空間だが、それなりに常連客もいるらしい。  昼はランチの客で賑っても、夜9時半を過ぎたこの時間になるとさすがに僕以外の客はいない。もちろん僕としては、それを狙って来ているわけなのだけれど。 「そういう隆の運勢は?」  うっかり見惚れてしまっていたのに気付かれなかっただろうか。僕は彼からさりげなく視線をそらし、聞き返した。 「俺か? 俺は毎日が大吉だよ。今日は買い物の途中でひったくり野郎を捕まえてな。たまたま自治会長のおっさんにその現場を見られてて、無理矢理防犯部に入れられちまった」 「へぇ、すごいじゃないか。でもそれって、はたしてついてるの?」 「ついてるってことにしとくんだよ。人生すべて前向きでないとな」  親指を立て、クシャッと目尻に皺を寄せて笑う。僕は漂ってくるコーヒーの香りにすら酔ったようになる。  隆は昔から変わらない。正義感が強く自信に満ち、常に前向きだ。悲観的で臆病な僕とは正反対。ついでに言えば見かけも、線が細く優男と言っていい女顔の僕とは真逆をだ。何もかもが自分とは違うから、僕はこの幼なじみにどうしようもなく惹かれてしまうのだろうか。  そう、僕は湯沢隆に恋をしている。十数年前、いじめられ周囲から孤立していた僕に、彼がその大きな手を差し伸べてくれたときから、もうずっと。  僕達は何もかもが正反対だったから、お互いに持っていない部分を認め合って成長してきた。僕は彼に勉強を教え、彼から体を鍛えることを学んだ。時には他人の気持ちを推し量る繊細さが必要であると教え、些細な悩みは豪快に笑い飛ばせばなくなると学んだ。13歳のときから27歳の今に至るまで、二人はよき親友であり続けたと思う。  僕にとって彼の存在が、単なる親友の域を越え始めたのは一体いつだろう。きっと隆に初めて彼女ができた、17歳の年だったかもしれない。そのGFとの交際を照れながら打ち明ける彼の顔を見て、絶望にも似た衝撃を受けたことを痛みとともに覚えている。  それまで一緒に登下校していた道を、隆は彼女と歩き始めた。肩を寄せ合う二人の背中を見ながら、僕は気付いたのだ。  本当は自分もあんなふうに、彼と腕を組んで歩きたかったのだと。  最初は自分のその気持ちに戸惑って、無理に女の子とつき合ってみようとしたこともあった。周りに目を向けてみると、こんな僕にも好意を寄せてくれる子はいた。しかしどんな子とつき合っても、相手を隆と同じように好きになることはできなかった。  親友に恋をするのはつらい。胸の奥にいつもくすぶる熱い想いを押し隠して、友人の仮面を被り続けなければならない。我慢できなくなって本当の気持ちを告白すれば、きっとそこで友情も終わってしまう。離れたくなければ隠し通すしかない。  隆が親友であることは誇りでもあるし、その友情は失いたくない。それでも想い続ける時間が長過ぎて、ときどきどうしても耐えられなくなってしまう。すべてを壊す覚悟で、本心をぶちまけてしまいたくなる。 もしかしたら隆は笑って流してくれるかもしれない。それでも2人の関係は、以前と同じようにはいかなくなるだろう。 「カッコよかったぜぇ、俺がひったくり野郎の首根っことっ捕まえたとこ! おまえにも見せてやりたかったよ」 「自分で言うな。そういうのは理恵さんに見てもらえよ」  ここ半年隆と同棲している恋人の女性の名を出すと、ごつい見かけに反して実は照れ屋の顔がほんのりと赤くなる。 「あいつはあれだよ、危ないことはやめてとか、まぁ口うるさいから駄目だ」  そんなことを言いながら、あわてて視線をさまよわせる。まったく、わかりやすい男だ。 「うまくいってるんだろ?」 「えー、あー、まぁな」  すっかり照れて頭を掻く幸せそうな顔を見上げながら、心の奥が徐々に冷えていくのを感じる。  自虐にもほどがある。諦めるためにわざわざそんなことを聞いて、結局諦め切れず深く傷付いている。僕は本当に馬鹿だ。 「それより、おまえはどうなんだよ」  照れ隠しにいれたてのコーヒーを僕の前にぞんざいに置きながら、隆がぶっきらぼうに尋ねてきた。 「俺よりずっとモテやがるくせにいまだに独り身かよ。ホントは誰かいるんじゃないのか?」 「いないったら。いればおまえにはちゃんと報告するよ」  苦笑する。それしかできない。口をつけたコーヒーは今日はやけに苦味が強い。  隆はわずかに眉を寄せ、 「おまえ、ちょっと理想が高すぎるんじゃないのか? この歳になってくると多少は妥協も大事だぞ」 「隆らしくない言葉だね。でも別に理想なんか全然ないよ。縁がないだけで」 「んなわけねぇだろ。おまえ昔っから女の子にコクられまくってたじゃねぇか。おまえ宛てのラブレターを預かるたびに、モテない俺がどんなみじめな思いをしてたことか。選り好みしてるとしか思えないね、俺は」  曖昧に笑ってごまかした。  実はずっと好きな人がいる。それはおまえなんだと言ったら、この友人はどんな顔をするだろう。想像することすら怖い。僕はやはり臆病だ。 「なぁ、よかったら俺が見繕ってやろうか。理恵の友達に声かけて……」  話がありがたくない方向に向かいそうになったところで、タイミングよくドアベルが鳴った。閉店まであと15分しかないこの時間に客とは……二人だけの貴重な時間を邪魔された気がして、内心少しがっかりする。 「いらっしゃい!」  優雅で落ち着いた雰囲気の店にそぐわない、マスターの威勢のいい声が飛ぶ。 「こんばんは。まだいいかな?」 「もちろんですよ! どうぞ!」  入ってきた男性の低めの美声に、僕はさりげなく振り向き目を見張った。同じ会社の人だ。確かにここは、会社から徒歩10分の距離だ。見知った顔に出くわすことも多いが、その人とここで会うのは初めてだった。  そして彼も僕を見て形のいい眉を上げる。苦み走った端麗な顔が微笑を形作る。 「須藤(すどう)君?」 「佐伯(さえき)係長……こんばんは」 「あれ、2人とも知り合いだったんですか? そっか、同じ会社だもんな」  隆の能天気な声に居心地の悪さを救われる。  言葉を交わすのは初めてだが、僕は彼みたいな人がちょっと苦手だった。  佐伯晃一(こういち)さんはまだ30歳の若さで花形部署、開発企画課第1係の係長という出世頭。仕事の能力だけでなく人格的にも優れていて、上司からも部下からも人望が厚いと聞く。その上均整の取れた八頭身に、男らしく整った華のある美貌。欠点があるとするなら、怜悧な感じの切れ長の瞳が少し酷薄に見えるところくらいだろうか。とにかく非の打ち所がない。  たいした取り柄のない平均点人間の僕は、彼のようにパーフェクトで見るからに自信に溢れた人の前に出ると、どうにも萎縮してしまうのだ。それにしても総務課の隅の席にいつもおとなしく座っている目立たない僕の名を、彼が知っていたのは意外だった。 「隣、いいかな」 「あ、どうぞ」  断るわけにもいかず、僕はあわてて頷いた。隣に掛けた彼の体からはほのかにいい香りがした。こういう人は身だしなみにも常に気を遣っているのだろう。洒落たストライプのスーツも、僕のものより見るからに上質だ。 「佐伯さん、コーヒーでいいですか?」  聞いてくる隆に頷いて、彼は僕の方に体を向けた。間近でみつめられてなんとなく居心地が悪くなる。 「よくここに来るのかい?」 「ええ。あの……たまに」 「須藤と俺は中坊んときからのマブダチなんですよ」  人見知りで言葉の足りない僕に代わって隆が答えた。佐伯さんが目を見開いて僕と隆を交互に見比べる。 「へぇ、それは驚いたな。マスターは俺と同じか、少し上くらいかと思ってたよ」 「ちょっ、そりゃないっしょ、佐伯さーん」 「いやいや、落ち着いてるって意味でさ」  笑い合う2人に僕は置いていかれる。なんだか一人だけ妙に緊張し硬くなって、その場から浮いている気がしてしまう。 「じゃあ何? 君達の会社と店が近いのは偶然?」 「や、俺が都内で店出したいって言ってたら、こいつが紹介してくれたんですよ。会社の近くにいい物件があるからって。それで田舎からわざわざ出て来たわけ」  佐伯さんの前にコーヒーを置きながらなんでもペラペラしゃべってしまう隆を、ちょっと恨めしげに見上げた。もちろんそんな経緯を話したところで、実は僕が隆に近くにいてほしかったから呼び寄せたのだという真実には、さすがの佐伯さんも気付かないだろうが。 「ふぅん。それじゃ俺も須藤君に感謝しなきゃな」 「え、どうしてですか?」  真っ直ぐみつめてくるまなざしを避けて、俯きがちに聞き返す。 「おかげでいつもうまいランチにありつける」 「毎度ありがとうございます」隆が笑いながら敬礼し「潤也、佐伯さんは昼の常連さんなんだ。おまえはどっちかっつぅと今の時間だから、これまで会わなかっただろうけど」と補足した。 「ああ、そうだったのか」 「マスターのしょうが焼きは最高だよ。須藤君も今度食べに来るといい」  佐伯さんみたいなファッショナブルな人でもお昼にしょうが焼きなんか食べるんだ、とちょっと意外に思う。 「須藤君が来るのはこの時間が多いの? それじゃこれからは残業帰りにもちょっと寄ってみようかな」 「え? あの……どうして?」  思わず聞き返した僕に、佐伯さんは「どうしても」という答えとともに、どこか意味深な微笑を向けてくる。なぜか胸が騒ぐ。 「ああ、それともお邪魔かな? 幼馴染同士の積もる話に俺が入っちゃ」  鼓動が一つ高鳴って冷や汗が出る。  確かに隆と2人でいられるこのひとときは、僕にとってかけがえのない時間だ。今日初めて話したばかりの佐伯さんにそんなことを見抜かれるわけがないのに、なんだか見透かされたようで落ち着かなくなる。 「まさか、10年来のつき合いじゃ今さら積もる話も何もないっすよ。昼も夜もぜひ寄ってください」  隆がほがらかに笑い飛ばし、その後話題は仕事のことに移った。  僕達の会社はビールを中心とした飲料全般を製造しているメーカーだ。来月発売予定の新製品のコーヒーのことで、2人の話は盛り上がる。「新作のインスタントコーヒーは今いれてもらったこのブレンドに負けない」と佐伯さんが言い切ると、隆は笑って「そんなはずないから今度試供品を持ってきてみろ」と受ける。口の立つ彼らに会話の応酬をまかせて、僕はどっちつかずに曖昧に笑って両方に相槌を打つ役に徹する。  骨董の柱時計が10時を打った。閉店の時間だ。佐伯さんがそれを見上げた。 「おっと、こんな時間か。悪かったねマスター、終わり間際に」 「とんでもない。いつでも歓迎ですよ」  佐伯さんは腰を上げながら僕を振り向き、 「須藤君はどうする?」 「あ、僕も帰ります」  スツールを降り、バッグの中財布を捜す手を止められた。 「今日は俺が払うよ」  そう言って、佐伯さんは僕が断る間もなくすみやかに会計を済ませてしまう。 「ありがとうございました~! 潤也、腹出して寝るなよ!」  店を出しなの隆の最後の一言がツボに入ったらしく、佐伯さんに爆笑された。恥ずかしくて頬が熱くなる。いつものくだらない冗談は二人だけのときにやってほしいものだ。  少し歩くとほてった頬が冷えて来た。四月もそろそろ終わりだが、まだ夜は肌寒い。 「あの……すみません、ご馳走になってしまって」 「たかがコーヒー1杯だ。次はメシをおごるよ」  気さくに微笑む彼は会社で時折垣間見る厳しい面差しも消え、第一印象のとっつきづらい感じが薄れる気がした。  

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