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第26話 思惑と真実 1

今朝のローマは朝から雨が降り気温が下がっていた。 11月のイタリアの気候は秋雨が通過しており、1年で最も多くの雨が降ると言われている。地中海に面している観光都市ローマの玄関口レオナルド・ダ・ヴィンチ国際空港は気温が下がっているものの観光客で混雑している。 空港内は早朝にも関わらず、離着陸に合わせて人々の動きが変化していく。彼等は国籍も年齢も肌も髪の色もバラバラで、空港の到着ロビーと出国ロビーには入国審査を待って多くの搭乗客が列をなしていた。 11月に入ったイタリアはここ数日の間秋雨からもたらす寒気の影響で、体感気温が下がっている。そのため、空港に到着した観光客の多くが暖かそうな服装に大きなスーツケースをコロコロと転がしながらロビーへ移動している。 イタリアはクリスマスに向けてのイベントシーズンに入っていた。ローマを経由して、各都市でのクリスマス音楽祭が毎年開催されている。アーティストやファンがこのシーズンにはイタリア各都市へ遠征している。そのため、この時期の飛行機の離着陸数はイタリア国内で毎年TOP3にランキングしているのだ。 空港内の男性の観光客は厚着のジャケットかモッズコート、女性はピーコートかダウンジャケットを着用しており、中には寒くて暖かいコーヒーを紙カップで飲みながら空港ロビーでスマートフォンを操作しつつ入国審査を待っている人もいる。今のところどの航空会社も飛行機の遅延は発表されておらず、定刻通りの運行を行っているとロビー内に女性の声でアナウンスが流れていた。 そんな中、金髪の厳つい風貌のエクソシスト・アンウォールは出発ロビーの椅子に座り、スマートフォンから昨日急遽ガブリエルから入った指令を読み返していた。 アンウォールと彼の数人の部下が、日本・成田空港への出立を命じられたのは昨日夜間の事。日本だと朝方の時間差だ。そこには現ローマ法皇フランシスコからの勅令が全エクソシスト達へ一斉に通達された。 【日本人カズキ・アリサカが魔界より帰還。彼の魂を救済し、神の御許へ導かれよ】 アンウォールは、何度見ても代わり映えしない通達文にスマートフォンを操作しながら嘆息した。 『神の御許へ導く』 分かりやすく言うと、この青年を殺害しろとの勅令だ。 現法皇のフランシスコは歴代法皇の中で最年長で就任している。彼は当初から番に選ばれた一希に関して殺しではなく、治療という方法を提案した。 法皇に就任するという事は表の歴史だけでなく、裏の歴史も知るという事。エクソシストの業績は全ての法皇が知っている。時代が時代だったといえばそれまでだが、今は中世期の時代ではないし、1人の人間を殺害するという事は、世界中に自分達が行ってきた所業を知らしめる事にもなりかねず、生かす方法としてフランシスコは治療という選択肢を提示した。しかし、首を縦に降らなかった人物がいる。ガブリエルだ。 彼は、淫魔王の番に選ばれた者の生命は神の御許に導くしか救う手立てはないと断言した。最後に番になった者は中世期の女性だが、時代が変わった。ならばもう番とはいえ1人の人間の生命を奪う必要は無いと言ったがガブリエルには通らなかった。彼はエクソシスト団の理事も務めている。彼の命令には強い権限があり、いかな法皇といえどそう簡単に権限を曲げる事はできないのだ。 フランシスコにとっては、一希の殺害は苦渋の決断だ。 時代が変化しても組織の中枢にいる者達が変化しない限り、これを変えるのは難しい。 アンウォールは、ガブリエルに渡されたアタッシュケースを開けて中を確認する。中には銀の銃と5つの銀の弾丸がセットされている。淫魔王及び彼の番を殺害できる唯一の武器だという。弾丸の中にはあのミイラ化した女性ソフィアの血が練り込まれている。 ケースの中身を見て、彼女と対面したアンウォールはあのミイラを思い出した。 あの中世期に実在したソフィア姫のミイラには『何か』ある。 彼は今まで築き上げてきたエクソシストのキャリアの中で、『勘』が冴えている方である。 特に危険を察知する勘は敏感な方でこれを働かせる事でこれまでの危険な任務から部下や自分の命の危機を幾度となく回避してきた。そのため、彼は部下からの信頼が厚い。総隊長に就任してからも、前線に出ては部下達の盾となり、任務上で部下から死者を出した事はない。それが部下達がさらに彼を信頼する大きな要因となっていた。 だが彼はミイラ化したソフィア姫に対面してから、いづれ来るであろうこの任務だけは、どこか憂鬱さを感じていた。 だが彼はその原因が何なのかわからない。それが彼の憂鬱さの原因でもある。 彼は、ソフィア姫と対面した時、ただのミイラではないと、どこか彼の勘が告げていた。 彼女は、今も何かを訴えている。 それが何なのか、自分では分からない。 自分を対面させたガブリエルによると、彼女は前淫魔王の番となり二人の淫魔王子の母だと言っていた。その二人のうちの一人が現淫魔王として数百年前即位し、一希を自身の番として魔界へ連れ去ったという。 その連れ去られた番がなぜ人間界へ帰還できたのかガブリエルに問うと、彼は自分にだけこっそりと耳打ちするように言った。 ーー彼自身が、淫魔王の番になる事を拒否したのですよ。 アンウォールはガブリエルから淫魔王の番に関して聞いた事がある。 淫魔王の番は確かに淫魔王自身が選ぶ。しかし、番に選ばれた人間にも拒否する権利はあり、番になる事を拒否すると、淫魔王はその意思を受け入れ、人間界へ帰還させなければならない。しかしそれは、淫魔王自身の死を意味しており、番を失った淫魔王は番以外の体液を摂取する事ができずそのまま餓死するしかない。 だから淫魔王は、番に選んだ人間を大切にする。自分に心が向くように。番自身が自分を愛してくれるように。 ところが一希は、ヴィンセントの番になる事を拒否した。だから人間界へ帰還したのだ。 その情報は、昨日帰還した退魔師速水という日本人から報告があったものだ。 ガブリエルの傘下の部下達は宗派は違えど世界中に存在している。速水の場合は、彼の曽祖父の時代から傘下に入っており、代々速水家の退魔師達はガブリエルの指示を受けて活動していた。 空港の搭乗案内がアナウンスされている。イタリア直行便で日本への航空時間は12時間を予定しており、次の案内が5時間後であるという。アナウンスを聞いた搭乗客の多くはそれぞれ個々の時間を空港の出発ロビーで過ごしている。 アナウンスを聞きながら、アンウォールは部下から搭乗の準備が整った事を聞いた。自分達エクソシストにはローマ法皇専用の搭乗機が用意されている。今回有事の任務である事からガブリエル自身が手配した。彼は、後から日本にやって来るという。 アンウォールは椅子から立ち上がると、部下と共にロビーから搭乗口へ向かう。 機内は窓際に一席ずつリクライニング型の座席が設置されており、内装も豪華。どの席も窓際に設置されており、日本食が準備された機内食、機内インターネット環境があり、専用のCAや機長、ワインやシャンパン等機内サービスも充実している。世界中に支部を持つカトリック宗派の幹部の献金で賄われたこの機体はカトリック所有の物で、主に海外の要人や法皇の他国への表敬訪問として使われる事が多い。  自分達には縁のない乗り物だと思っていたのに、人殺しでこんな快適な空の旅ができるとは皮肉なものだ。 ガブリエルが手配したという事は、何か企んでいる可能性がある。しかし、今は法皇の通達された任務を全うする方が先だ。 アンウォール達は、離陸に備え席に着く。 機内に離陸アナウンスが流れ、操縦席の機長から成田空港到着は夜の予定だという。 レオナルド・ダ・ヴィンチ国際空港から、離陸した機体はそのまま東へ進路を維持したまま日本へ向かった。 ※※※ エクソシストのアンウォール達が無事日本へ出立したと報告を受けたガブリエルは、ローマ法皇フランシスコへこれを報告した。 聞いた彼は、高齢で細かい動きが難しくなった指を震わせながら自らのこめかみに持って行く。齢85の彼は、高齢による疾患を抱えながら神よりの任を受けた法皇職を日々全うしていた。 「なぜ、こんな事が繰り返されるのです。淫魔王とて、無益になる殺戮は不要な筈」 一希が帰還した報告を受けた彼は、番になる事を拒否した一希を殺す事は否と命じた。しかし、これに側近のガブリエル、エクソシスト達は反対し、過去番にされた一人の人間の周囲で多くの人間が淫魔王に虐殺された歴史を引き合いに出し、今回も例え一希が拒否したとしてもそのような可能性があるとガブリエルは断言した。 特にガブリエルは、一希の先代の番に関して事細かに報告している。 現淫魔王は先代淫魔王の子であり先代番の子でもある。一希を生かす事は両親と同じような惨劇を生み出しかねないと法皇に強く反論した。反論の隙のない論説にフランシスコは一希殺害の勅令を出すしかなく、アンウォール達が日本へ出立した後も、その勅令に後悔するしかなかった。 気分転換にフランシスコは、執務室の窓から雨が降り続くローマの街を見下ろした。 雨は、死んだ誰かの涙が地上に降り注いでいると言われている。 この涙が先代の番なのか、それとも自死したと言われる彼女を悼んで今も先代の淫魔王が泣いているのか。 彼にはそれを調べる術がない。 なぜなら彼も法皇という立場上、会った事もない1人の青年の生命を他人の手で奪わなければならない立場だから。

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