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第1話
「何だ、汀(みぎわ)? その格好」
疲れた顔をして帰ってきた渚(なぎさ)兄が、驚くのも億劫そうに声を発した。
「お仕事お疲れ様、オニイチャン。お菓子くれなきゃいたずらするぞ☆」
「……」
「……」
いたたまれない沈黙を発生させたことに責任を感じ、切腹を申し出ようとしたところ、渚兄がぽつりと言った。
「ハロウィンか。……そういや、街中がやけに煌びやかだったな」
──クリスマスにしちゃ、早い気がしてたんだ。
そう言って、渚兄は頭ひとつ高いところにある俺の側頭部をクシャッと撫でた。
そのままカバンを廊下に置いて、きっちり締めていたタイを緩めながらジャケットをソファの背に放る。俺が空気を読まなかったことを後悔する頃には、キッチンにある浄水器の水をグラスに半分ほど充し、少量、喉に流し込んでため息をついた。
ほんのひと口の水を嚥下すると、憔悴しているようにさえ見える渚兄の状態に、弟である俺は脳裏に警告灯が灯るのを感じた。
「大丈夫かよ、渚兄」
「ん?」
「飯、食ってきてないんだろ? 何かつくるから、ちょっとゴロッとしてろよ」
俺は友だちに連絡を入れて待ち合わせをキャンセルし、台所へと向かった。
冷蔵庫を開けると鮭と卵とチーズがあったので、鮭のピカタをつくることにする。
仮装用のペイントを石鹸できれいに洗い流し、俺が手を動かしはじめるのを見た兄は、力の抜けた笑みを口元にだけ浮かべた。
「約束、あるんじゃないのか?」
「別に」
「友人は大事にしろよ? 汀」
「別に。俺の友だちはそれぐらいで怒ったりしねぇし。渚兄こそ、着替えてさっさと椅子にでも座ってれば」
ドタキャンしたら、きっとあとで、どこで何をしていたのか、根掘り葉掘り聞かれるだろうけれども。こんな状態の渚兄を放って、自分だけ夜の街へ出かけられるわけがない。
料理をするのに邪魔なので、側頭部に付いている巨大なネジのオブジェを取って、キッチンカウンターの上に置いた。青白いツギハギを描いた化粧をした顔で台所に立つ図は、なかなかシュールだと我ながら思うが、手早く鮭に小麦粉とチーズ入りの卵液を絡ませ、フライパンで焼いてゆく。
じゅわっという音がするのと同時に、部屋着に着替えた渚兄がキッチンカウンターの向こうの椅子に座った。
「フランケン、似合ってたぞ。汀」
「そうかよ」
「せっかく用意したのに、みんなに見せなくてよかったのか?」
「いいんだよ。来年も同じやつやるから」
そういやここのところ、渚兄は俺より早く家を出て、俺より遅く家に帰ってきていた。よく見ると、目の下にクマがある。疲れた様子の奥二重は、半分しか開いていない。かろうじて笑みを形づくる口元にも、苦いものが絡まっているように見えて、俺は前菜に、ハムとトマトを散らしたサラダを出しながら、お気楽すぎる自分を呪い、後悔した。
渚兄はサラダをつつきながら、しばらく黙っていた。心ここにあらずという顔だった。いつもなら、仕事のことなんてすぐに切り替えて俺を揶揄ったりして遊ぶのに、今はそんな余裕もないのだろう。兄が取締役会に入ってから、紛糾する議題が増えたことを風の噂で耳にしていた。
手早く味噌汁を仕上げ、冷凍保存されている一食分の白米を解凍して出す。鮭のピカタにルッコラとキウイを添え、適当にソースをかけた。
「旨そうだな。いただきます」
渚兄のこういうところが、問題だと俺は思う。どんなに疲れていても、挨拶だけはちゃんとする。人当たりが良すぎて、本音をつまびらかにする時がない。俺がフラフラしていても、文句も付けずに自分のやるべきことをやって、反抗期なんかこなかったぐらい、父の信頼も厚くて。
そんな兄の姿に、俺は息苦しさを感じていたぐらいだった。
でも、それは兄が完璧だからじゃない。一瞬たりとも歩みを止めず弛まぬ努力を続けられるからだと、ここ数ヶ月の間に、俺は悟ってしまった。
「渚兄、大変だった?」
「ん? 何が?」
「色々」
「んー、まあな」
心配をかけまいとしてか、仕事のトラブルのことは絶対に話さない。
かわりに、兄はきれいに箸を使って、魚を切り分けた。
「骨、だいたい取ったけど、残ってるかも」
「お前、料理の腕上げたな。旨いよ、これ」
「まあね」
衣食住、渚兄に頼りっきりだから、家事炊事ぐらいはちゃんとやろうと決めた。
でも褒められると嬉しい。渚兄は褒め上手だから、俺が調子に乗る時をよくわかっている。
「ひとつ貸しだからな」
俺が勇んで言うと、渚兄は味噌汁を啜り、今度はホッとするようなため息とともに笑みを浮かべた。大根と豆腐の何の変哲もない味噌汁だが、俺は渚兄の好物を知っている。渚兄が好きなもの、苦手なもの、嫌いなもの。全部ではないけれど、一緒に住んで生活をともにすることで、蓄積していくそれらの量は、他の追随を許さないはずだ。
「食ったら風呂にでも入ってくれば?」
おかわりを断った渚兄に、俺は適当に言った。
ストレスを抱えている時の渚兄を甘やかす選手権があったら、俺は優勝賞金とトロフィーを勝ち取るはずだ。
「貸しといえば、汀」
「?」
「お前に、お菓子をやらなきゃな」
「いいよ、別に。子どもじゃないんだし」
本当は、ハロウィンなんかではしゃいでいたことが恥ずかしかった。
渚兄が歯を食いしばっている時に、俺はひとりでお祭り気分で浮かれていた。今日だって、渚兄の帰宅を確認したら、友だちと朝まで遊ぶ気だった。大変だとすら零さない兄のために、何ができるかも考えず。
「俺、今日は早く寝る」
何かを頑張る決意を表明するのは、少し照れくさい。
だから、とりあえず早寝というわかりやすい形で真面目さをアピールすると、渚兄はクシャッと笑った。
「そうか」
「は、早く風呂にでも入ってくれば」
華奢な兄は少し小首を傾げて考えていたが、やがて「そうだな」と呟いた。
***
バスルームへ一度消えたかと思った渚兄が戻ってきた時、俺はキッチンでの後片付けを終えて、ソファでニュースを見ていた。
「風呂、先に上がったから」
「ん」
「汀、少し詰めろ」
「ん」
風呂上がりの渚兄は、シャンプーとボディソープの香りがして、ものすごく狂気を誘う。気づかれないようにつっけんどんに返事をして、ソファの隣りを譲ると、渚兄は深く腰掛けて、俺に笑いかけた。
「おいで、汀」
言って、自分の膝を軽く叩いた。
「お菓子はないが、とびっきり甘やかしてやるから」
そこには未だかつて一度たりとも触れたことのない、真っ白な雪原──もとい、スウェットに包まれた渚兄の膝がある。
え?
なに?
そこに?
ダイヴ?
しろって?
まさか?
膝枕?
渚兄と?
俺が?
「で、っでも俺、化粧落としてない、し……っ、服、とか、汚れたら悪いし……っ」
しどろもどろになりながらら、俺は渚兄の微笑に狼狽していた。馬鹿か、俺は。こんな機会、二度とくるかどうかわからないのに。せっかくの渚兄の好意に躊躇いをみせるなんて、万死に値する。
ぐるぐる一瞬の間にそれだけのことを考えた俺に、渚兄は最終手段を使ってきた。
「……いらないのか?」
「いるっ!」
思わず即答していた。
これではパブロフの犬だ。
「じゃ、こいよ。汀」
だけど、ああ。渚兄の膝枕。夢にまで見た膝枕。
ポンポン、と片手で軽く叩かれたその場所へそっと身を横たえると、渚兄の指先が俺の髪を梳いた。柔らかな感触が心地よすぎて、俺は下半身に余計な血がいかないよう、素数を数えるしかない。
「お前には余計な心配をかけるな」
そんなの全然、大丈夫だし、違う。
渚兄が元気になるなら、余計な心配なんかじゃない。大事なことだ。
でも、俺が心の内を全部明かしたら、渚は拒絶するんじゃないかと思った。弱音を吐かないのも、誰にも愚痴を打ち明けないのも、独りで抱え込もうとするのも、誇り高さからくるものだ。俺が早々にドロップアウトした重圧と重責に、渚は対峙することをやめなかった。プライドが、今の兄を支えている。だから俺は渚に何も聞かない。
「明日、お菓子が半額になっているかもしれないから、買いにいくか? 汀」
「んー……、うん」
俺はぬくもりに呑まれながら、小さく深呼吸して、目を閉じた。自分でも耳が赤くなっているのがわかる。自分の心臓の鼓動が、数えられないほど速くなっていた。
「それまでは、これで我慢してくれ」
「?」
ふと、その瞬間、唇に柔らかなものが触れた。
「っ……!」
びっくりして、それでも閉じていた瞼を恐るおそる開けると、穏やかな顔をした渚の顔。
「とびきり甘いお菓子じゃなくて、悪いな」
「……悪戯すんぞ」
思わず一段低い、ドスの聞いた声が出た。
「お菓子がないなら、されても仕方がないかもな? 汀」
ああ、頼む、渚兄。そんな声で俺を誘惑しないでくれ。
「それとも、おいたをする悪い子には、俺がお仕置きをしてやろうか?」
鼻をつままれて思わずフガッと息を吐くと、渚はころころと笑いながら、俺の髪をまた少し梳いた。
=終=
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