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第2話
渚(なぎさ)にいいようにされているけれど、そんな俺にだって人権はある。
「たっだいま〜、渚ぁ」
去年、渚の不調でお披露目できなかった仮装のフランケン姿で、俺が玄関で靴を脱ぎ散らかして帰ってくると、渚はため息とともにネクタイを解いたところだった。
「兄を付けろ、兄を」
「おっ菓子くれなきゃイタズラするぞっ☆」
「……お前、去年も同じこと言ってなかったか?」
「んー?」
俺は軽くアルコールが入っていたこともあり、渚にだらりと抱きついた。渚は俺の絡まる腕など一顧だにせず、ジャケットをカウチに放る。その時になって、微かな柑橘の匂いにおれは気づいた。浮かれていた気分が一気に萎む。
「……飲んできたのか、渚」
「ん? ああ……付き合いだよ」
「秘書の人とも付き合いで飲むんだ? 普段お世話してるからもてなせってか」
俺がドスのきいた声で言うと、渚は「何を拗ねてるんだ?」と不思議そうな表情をした。
だけど俺は知っている。あの人には注意が必要だと。
「芹沢さんだっけ? ずいぶんお出来になる秘書様なんだな。兄貴が持てなすぐらいだし」
「芹沢と飲んだってよくわかったな? 汀(みぎわ)」
「わかるさ」
わかるに決まってる。俺の嗅覚なめんな。
何よりムカつくのは、きっと芹沢がそれを知っていることだ。人のものにマーキングでもされたみたいで苛つく。「ブラコン拗らせてますね」って、俺に面と向かって苦笑した時から、俺は兄貴の秘書役にちゃっかりおさまった渚の同期を嫌いになった。
渚だって、きっとそれを知っている癖に、芹沢を切ろうとしない。
「何であんな図体がでかい番犬みたいな粗野な男を秘書なんかに使ってるんだか」
「便利だろ。番犬にもなるし」
「番犬だったら俺が」
「お前は狂犬のきらいがあるから駄目だ」
「使えないってのかよ」
フランケンで俺が凄んだら、きっと物凄く迫力がある。けど、兄の渚は俺のことなど歯牙にもかけず、バスルームへと向かった。
「先に使うぞ?」
「渚っ……!」
「何だ? 異議なら認めないぞ。あいつは俺のいい同僚だし、仕事もできるし、気配りもできる。数少ない友人でもあるんだ。俺がお前の友人関係に口出ししたこと、ないだろ?」
おまけに番犬にもなるって言うんだろう。だがそれが仇となることに、どうしてこの馬鹿兄は気づかないんだろうか。
「おまけに番犬だろ。完璧かよ」
「わかってるんならもう出てけ。話は終わりだ」
「渚」
「なに……っ」
付いていったバスルームでシャツを脱ぎ出した華奢な肩。おれはそれを思いっきり掴んで振り向かせる。アーモンド型の目が、大きく見開かれるのが視界にチラリと映り、俺はそこに向かって突進した。それこそ、兄貴の逃れる隙のないように。
「汀……っ」
ぎゅ、と抱きしめると、渚の背中が軋んだ。
「おい……っ」
「俺にアピールするのが悪い」
「何……?」
声が心臓の辺りで震える。体温が熱い。
これは俺のものだという衝動が、刹那、噴き出た。
「俺に向かって牽制すんのが悪い。俺を挑発するのが悪い。我慢してないとでも思ってるのかよ。あんたどうしてあんな秘書なんかと……っ」
ぼろぼろとその瞬間、涙が零れた。人は感極まると泣くんだろうけれど、先を越されて置いてかれた時とか、悔しい時とかも同じ反応をするのが不思議だ。どうしてもっと、角が生えるとか尻尾が生えるとか、そういう感じに身体反応が明確じゃないんだろう。俺が我慢しているのを知りながら、俺の目の前から獲物を掠め取るような真似をするから芹沢が悪い。
「お、い、よせ……っ!」
渚は苦しげに俺の肩に爪を立てた。
全然痛くない。
「み、ぎわ……っ」
「文句なら、秘書に言えよ……っ」
「ん——!」
唇を奪ってやる。噛み付くみたいに息継ぎして、もう一回。さらに一回。また一回。そして、もっと一回。一回、一回に意味がある。渚を欲しいという意味が込められている。泣きながらくちづけしてくる俺に、渚は次第に本気で抵抗し出した。ざまあみろだ。
「……っめ、ろっ……! みぎ、わっ……! お、前……っ!」
「なんで駄目なんだ!」
俺は渚のくちづけを拒む指先が、その唇が、フランケンの青灰色に染まってゆくのを抵抗しながら見ていた。渚の長い、きれいな指が、桃色の爪が、俺の肌の色になる。
まるで、背徳の色だ。
「っ……!」
何度かくちづけたあとで、さすがに抵抗を返すだけでは危機感を覚えたらしき渚が手を上げた。今までも、女を寝とった時とか、そういう反応をすることがあったけれど、いつものそれとは明らかに違う、躊躇の色を宿した折檻に、俺は知らず識らずのうちに唇を曲げていた。
「わ、らうなっ、お前……っ、していいことと悪いことの区別もつかないのか!」
「つくさ。でも今のは渚が悪いんだからな。俺に首輪を付けとく気なら、もっと千切れないような工夫をすべきだ。言ったよな? おれは、あんたを攻略対象だと思ってるって」
「お前にあるのは選択肢だけだって言ったろ……!」
「だから、選択している。これから狂犬に近づく時は、ちゃんとリードを秘書の人にでも持っててもらった方がいいんじゃねぇの?」
「……っ」
俺が腕を離すと、渚の背中が壁に当たった。
燃えるような目で睨まれる。
「……っ出ていけ」
絞り出すような声が漏れる。渚が怯えた色を込めるなんて、初めてのことで俺は何だか少し浮かれた。破壊衝動ってやつだ。アルコールのせいもあるだろう。でも、明日からのことなんて知るもんか。俺は何度も言ったはずだ。欲しいと言ったし、意思表示してきた。俺が欲しいものは、渚兄だけだと言ってきたつもりだ。
「……出ていけっ! 出ていけ!」
震える渚が哀れになって、俺は少しやり過ぎたかと思い直した。
しかし、今頃になって掌を返したって、誰も喜ばないし、きっと俺自身も納得しない。
スーパーヒーロー、憧れの人、比較対象、嫉妬と羨望の的。
——俺にとっての、ただひとつの明星。
「言われなくとも出てくさ。でも、あいつが遠慮しないなら、俺も遠慮しない」
「あいつ……? 芹沢のことか?」
わけがわからないという顔で、渚が動揺するのが、水面に水滴が垂れるみたいで心地よい。俺の一挙手一投足に、感情を揺らされる渚を、俺は初めて目の当たりにした。胸のすく想いだった。
「あんたは俺の、獲物だ。渚」
「兄を付けろ、馬鹿弟……!」
バスルームを出てゆく俺の背中に、渚が怒りの声とともにタオルを投げた。それは俺を、どこまでも甘い衝動に浸すだけだった。屈服させられるかもしれない、その確信が、渚を怯えさせ、俺を突き動かしていた。
「お前にやるお菓子はない……っ、この大馬鹿弟!」
渚の声は甘い。汗も、涙も、痛覚も、そして、きっと血も甘いだろう。
ずっと攻略対象だった渚兄は、その夜を境に、俺の獲物になった——。
=終=
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