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1年

 今の会社に就職して14年目、結婚してこの街に移り住んで4年目の春。いつも通り5時に起床、5時52分の始発に間に合うように家を出る。代わり映えのない日々ではあるが、季節の移ろい、緩やかに変化する街並み、そして人々の営みを見てきた。  始発電車を待つ駅のホームに立つ人はまばらで、大体が顔馴染みである。後れ毛を1本も出さず、きっちりと結い上げたスーツ姿の若い女性、大きなあくびをしながら電車を待つ大柄の男性、階段から離れたところで本を読む眼鏡をかけたスーツ姿の男性。私服姿の年齢様々な男女も、きっとこれから仕事場へ向かうのだろう。向かいのホームには、髪を脱色し、季節外れのサンダルを履いた男性の姿も見える。彼の生活を予想するのは困難である。  移ろいが顕著なのは学生で、様々な制服を着た高校生が大きなスポーツバッグや楽器が入っているであろう大きな鞄を持って電車を待っていた。卒業して見なくなった顔もあれば、まだ新品同様の制服を身に纏った新しい顔もある。学生の顔ぶれがガラリと変わることで1年のひと区切りを実感する。  5月。多少人の入れ替わりがあるものの、早朝の柔らかい日差しに包まれるホームの顔ぶれに大きな変化はない。自分と学生は一旦置いておき、みんなこんな早い時間からどこまで勤めに行っているのだろうと思う。恐らくこれから朝練をすると思われる学生の中には参考書などの教材を開いている者の姿も認められ、関心させられるばかりだ。  速度を落としながら、電車がホームに入る。いつも同じ車両、同じドアから乗り込むため、空席の目立つ車内の人々もほぼ顔馴染みとなっている。開いたドアの反対側のドアに近い席に座り、目を閉じようとした時だ。階段を勢いよく駆け降りる男子高校生に目が付いた。同じ車両に、閉まるドアギリギリで滑り込んできた。制服からこの春の新入生だとわかる。閉じかけていたドアが再度開き、すぐに閉まった。 「ッ、ハァ、ハァ、ハァ」  ドアの前で膝に手をつき、肩で呼吸をしていた。電車が動き出し、駆け込み乗車の注意喚起を促すアナウンスが流れる。駆け込み乗車など別に珍しいものではない。特に嫌な目を向けるわけでもなく皆素知らぬ顔だ。だが、なんとなく彼から目を離せなかった。  ゆっくりと上体を起こした彼は、口を押さえて壁に寄りかかった。息は荒く、目は虚ろで酷く顔色が悪い。  明らかに様子がおかしい。周囲に目をやるが、みんな彼の様子に気付いていないようである。席を立って声を掛けようとしたときだ。口を押えていた指の隙間から吐瀉物が漏れて、音もなく静かに床や制服を汚した。かける言葉を見失い、一瞬その場で立ち尽くす。彼もまた、何が起こったかわからないみたいに目を丸くしていた。 「大丈夫?」 「……はい」  力なく返事をする彼の顔からは血の気が引いて蒼褪めている。彼がその場にしゃがみ込み、腕に頭を乗せて大きくため息を吐いた。どうしていいかわからず、とりあえず彼の正面にしゃがむ。 「次の駅で降りるか」 「……はい」  ようやく周りにも異変に気付いた者が現れ、遠巻きに視線を感じるようになった。車内アナウンスが次の停車駅を告げる。ひと駅がこんなに遠く感じたのは、後にも先にもこれが初めてだ。  電車が次の駅のホームに入ると、彼の腕を取り電車から引き摺り下ろした。 「すみませ……」 「いいから」  通過駅で、降りたことがない駅だ。電車に乗る人、降りた人の視線を浴びながら首を巡らせてベンチを探す。ぐったりしている彼の腕を引っ張って行き、一番近いベンチに座らせた。上着を脱ぐことは疎か、口元の吐瀉物を拭うことすらせず呆然としている。  1番線と2番線のホームがあるのみの小さな駅である。電車が行って完全に姿が見えなくなると、辺りは急に静かになった。人影はまばらで、小さいホームではあるがなんだかだだっ広く感じる。意識が一瞬身体を離れ、客観的に自分の姿を見たとき、一体何をやっているのだろうと思った。しかし、乗り掛かった舟だ。具合の悪そうな少年を目の前にして放っておくことはできなかった。  近くの自動販売機に足を向け、水を買って戻ってきた。ほら、と声を掛けて差し出すと、俯いていた顔がこちらを見上げ、ありがとうございます、と左手を伸ばした。だらりと垂れた右手は吐瀉物で汚れていた。彼がペットボトルを受け取る前に手を引っ込めた。 「先に手洗った方がいいか。口も漱ぎたいだろ。歩ける?」  無理矢理彼を立たせ、重いスポーツバッグを奪い取って彼の前を歩いた。小さな駅ではあったが、幸い共用トイレは存在していた。ただ、そこに辿り着くまでに階段を上らねばならず、彼にはさぞ辛かったであろう。  強制的にではあるが荷物を預かってしまった手前、トイレの前で彼が出てくるのを待った。もう吐き気はない、吐いたらスッキリしたと言っていた彼を待つ間、上り下り合わせて2本の電車を見送った。だいぶ余裕を持って家を出ているので遅刻の心配はないだろうが、それでも時間が気になって何度も腕時計に目をやった。  痺れを切らし、ドアをノックした。 「おーい、大丈夫か?」  しばらくしてからドアが開き、蒼白い顔を覗かせた。 「どうしよう、気持ち悪い……」  すぐさま彼の肩を抱いて洗面台の前に連れて行った。だが、彼は吐くわけではなく洗面台に左手をかけ、ぶら下がるようにしてその場にへたり込んでしまう。床は水浸しになっており、水浸しでなくともトイレの床など綺麗なわけがないのだから制服が汚れる、と焦ったが彼はそれどころではないようだった。さっき吐き気はないと言ってたじゃないか、と言いかけて口を閉じた。彼を責めたところで、追い詰めるだけで状況が変わることはない。 「いつから具合悪いの?」 「昨日帰るまでは全然平気で、帰ってから食欲湧かなくておかしいなって思ったんですけど……。そういえば、昨日ずっと寒気してたかも」 「熱は計った?」 「体温計持ってないです」  絞り出すように声を発する少年の背中をずっとさすり続けた。そうするといくらかいいようで、腕に頭を預けてうっとりと目を閉じていた。蒼白かった顔はほんのりと赤みをさしており、今度は熱が上がってきているのだろう。彼の横顔を見ながら色気のある子だなと思った。熱で弱っているせいでそう見えるのかもしれない。そう考えるだけでセクハラに当たるだろうか。ふと、今自分が身を置いている状況がだいぶまずいことに気付いた。具合の悪そうな男子高生をトイレに連れ込み、身体を触っているのだ。  手を離し、わずかに後ずさって彼と距離をとった。気持ちよさそうに目を閉じていた彼が、訝しむように相馬を見上げた。 「口漱いだ? もうちょっと水飲んだら?」  洗面台にあったペットボトルが目につき、とっさに水を勧めた。彼がトイレに入る直前に渡しておいたもので、中身は少しだけ減っていた。彼が洗面台に引っ掛けていた手に力を込め、やっとというように立ち上がった。蓋を開けてペットボトルを渡すと、2回口を漱いで1口だけ飲み下した。 「動けそうなら外の風に当たりに行こう」  わずかに中身が減ったペットボトルを受け取り、蓋を閉めながら提案する。はい、と彼が袖で口元を拭いながら答えた。 「それ……上着脱いだら?」  指摘すると、彼はすぐにジャケットを脱ぎ始めた。もちろん他意はないのだが、いくら熱で判断力が低下しているとはいえ、何も知らない男の言いなりになっているのはどうかと思う。  彼を伴ってトイレを出ると、改札へ向かった。彼が階段の前で足を止め、あの、と口を開く。 「ホームこっちじゃないですか?」 「一回外に出よう。構内はうるさいから」  戸惑っている彼を置いて足を進める。彼の荷物は全て自分が持っているのだ。彼には付いて行くほか選択肢がなく、渋々といった様子で後に従った。  通過駅に過ぎなかった小さな駅の外は、ロータリーと交番があるのみの静かな場所だった。駅から少し離れたところにベンチを見つけ、彼を伴って移動する。ようやく荷物を下ろせてほっと一息吐いた。自分の鞄もノートパソコンが入っていて重かったが、恐らく辞書や教科書が詰まっている彼のスポーツバッグが重くて重くて肩がちぎれるかと思った。  客待ちのタクシーが一台、子供の送迎の車が一台。彼と肩を並べて、通勤中の学生やサラリーマンの姿を見送った。高い建物などはなく、鳥の鳴き声が聞こえるのどかなところだった。隣に座る彼が嘔吐さえしていなければ一生この駅に降りることなどなかっただろう。しんどそうに前屈みになっている彼が小さく震えていることに気付いた。陽気は温かいが、風は少し冷たかった。春コートを脱ぎ、彼の肩に掛けた。 「えっ、大丈夫です! 汚れちゃいますよ」 「別に気にしなくていいよ。安物だし、なんなら貰ってくれても構わないし」  そんなの悪いです、じゃあ今度会った時に返してくれたらいいよ。押し問答を繰り返し、今度会った時に返すという形で落ち着いた。何年か前に買ったセール品で、安物なのは本当だったし、そろそろ買い換えたいと思っていたのでそちらで処分してもらった方がありがたかった。本音を言えば、水で洗い流したとはいえ彼の右袖には吐瀉物が入り込んでおり少なくとも臭いは残っていたため、返却されても袖を通すことはないだろう。 「今何時ですか?」  彼に聞かれて、腕時計に目を落とす。 「7時3分」 「あーもう……朝練間に合わないな」  がっくり肩を落とす彼を見て、目を丸くする。 「授業は間に合うけど、制服こんなだし……」  やはり彼は、無理を押して学校へ行こうとしていた。今思えば、階段の前で足を止めた時も戻りの電車が入るホームではなかった。口を開きかけた時だ。 「あ、そういえば時間大丈夫ですか。仕事行くところですよね?」  スーツにネクタイ、通勤鞄。平日の早朝にそのような装いの大人を見れば会社員と相場が決まっており、実際その通りだった。いつも早めに出てるから大丈夫だと告げると、それでも彼は申し訳なさそうな顔をしている。 「今日はこのまま帰った方がいいよ。連絡したらご家族は迎えに来てくれそう?」  今度こそ、言いかけたことを言えた。すると、衝撃的な答えが返ってきた。 「うち、親いないんで……」 「え」 「あっ」  すぐに誤解に気付いた彼が、今ひとり暮らししてるので家には誰もいません、親は離れたところに住んでます、と慌てて付け足した。彼が声のトーンを落としたまま喋るから、てっきり聞いてはいけないことを聞いてしまったかと内心焦った。 「実家どこなの?」 「長野です」 「へー。この歳でひとり暮らしなんて偉いね」  相馬がひとり暮らしをしていたのは、大学に通っていた4年間だけである。親の監視を離れて自由に遊びまわれるひとり暮らしに憧れて県外の大学へ進学したが、コンビニ弁当ばかりの毎日に辟易し、帰っても誰もいない真っ暗な部屋で寂寞感に打ちひしがれ、ゴミを捨て損なう日々を繰り返して虫が這い出し、洗濯しなければ着るものがない日々に半年ほどで根を上げた。それでも4年間はなんとかやり過ごせたが、就活は自宅から通える範囲に絞った。現在は実家を出て、妻とふたり暮らしをしている。  自分が大学に出てから味わった苦労を、彼は高校から経験している。見知らぬ土地にひとりで越してきて約1か月。気を張り続けて、きっと疲れが出てきてしまったのだろう。 「もう大丈夫そうなので……。ありがとうございました」  彼が立ちあがり、相馬に向かって頭を下げた。まだ顔色が悪く、とても大丈夫そうには見えなかった。彼が荷物を持って立ち去るよりも早く、タクシーに近づきずっと暇そうにしていた運転手に声を掛けた。そして、手招きして彼を呼ぶ。不審そうにしていた彼を半ば無理矢理後部座席に乗せ、自分は開いた窓から運転手に札を握らせた。 「〇〇駅の方へ行ってください」 「え?」  返事をしたのは、運転手ではなく後部座席に座る彼である。 「後ろの子に住所聞いて、家まで送ってあげてください。おつりはこの子に」 「えっ、ええ?」  運転手から混乱している彼に視点を転じた。 「行けそうだったら病院行きな。お大事にね」  彼らが何か言う前に駅へ足を向ける。相馬が駅構内に入るまでタクシーは動かなかった。物陰に入って少し様子を見ていると、ようやく車が動き出した。タクシーの中で運転手と彼が揉めているのが手に取るように想像できた。ウインカーが出た方角を見ると、来た道を戻る様子である。そこまで見届けると、再び足を動かして改札を目指した。少々強引ではあったが、こうでもしないと彼は登校しようとしただろう。腕時計に目を落とす。始業にギリギリ間に合うかどうか、怪しい時間だった。 「あの」  翌週月曜日。ホームで通勤電車を待っていると、横から声を掛けられた。声のした方に顔を向け、ああ、と声を漏らすと顔を強張らせていた相手は表情を緩めた。 「調子はどう? もう良くなった?」  声を掛けて来たのは、先日介抱した男子高校生だった。 「はい、その節はありがとうございました。あの、これ、クリーニングしてあるので。本当にありがとうございました」  そんなわざわざいいのに、と本音を言いながら何でもない顔をして大きめの紙袋を受け取った。汚した制服の代わりに貸した、型落ちした春コートが入っていた。本当に、わざわざクリーニングなんかしてくれなくてもよかったのに。捨てるに忍びなくなってしまった。さらに本音を言えば、荷物になるから返さないでほしかった。もちろん、声にも表情にも出さない。 「それから、これ」  彼がバッグから茶封筒を取り出し、両手を添えて相馬に差し出す。聞かずとも中身の検討はついている。タクシー運転手に握らせたのと同額が入っているのだろう。自分が学生時代貧乏していたことを思い出して一瞬ためらったが、ありがたく受け取ることにした。他人に借りを作ったままにしておくのは気持ち悪いだろう。  人に物を貸す時は基本的に返って来ないものとしている。だから、返って来なくて困るものは人には貸さない。今回の場合は、貸したのではなくあげたつもりだった。返って来ない前提ではあったが、手痛い出費だったので助かった、というのが本音だった。  これで彼との縁は切れたと思っていた。電車が入ってきて、同じ車両に乗り込んだ。空いてる席に腰を下ろすと、彼が隣に座った。訝しんで視線を向けると、目が合った彼がぎこちない作り笑いをした。懐かれたな、と直感した。 「あの日、時間大丈夫でしたか? 会社間に合いました?」  恐らく、会話のタイミングを見計らっていたのだろう。 「ギリギリ間に合ったよ」 「よかったー。俺のせいで遅刻してたらどうしようって思いました」  無邪気に笑う彼は、決して悪い子ではないと思う。だが、これきりで親しくなるつもりはなかった。ところが彼はそうは思っていないようで、相馬が切ろうとしている縁をなんとか繋ぎとめようとしているかのように話しかけてきた。 「名前、聞いてもいいですか?」  名前くらいなら、と名乗ると、聞いてもいないのに彼が自己紹介を始めた。  三条すぐる、長野県出身、要領のいい次男坊。××高校1年生、サッカー部、15歳。××高校はサッカー推薦で入学した、云々。  昔と制服が変わっていて気付かなかったが、彼は後輩にあたるらしい。××高校は相馬の母校だった。無下にできず、相槌を打つ際にポロっとそのことを零すと、異様に彼が食いついてきて彼が電車を降りるまで高校の話をした。  通勤電車は、相馬にとって大事な睡眠時間だった。嵐が過ぎ去り、やれやれと目を閉じた。  次の日も彼はまた話しかけてきた。見知らぬ土地で一人でも多く知人を作っておきたいようだった。彼が相馬の話を聞きたがったので、最初に相馬が高校に通っていた頃は学ランだったことを伝えた。ちなみに、今の××高校の男子の制服はブレザーで青のストライプのネクタイである。女子の制服はあまり昔と違わないように見えたが、靴下の長さが変わり、リボンが単色ではなくストライプになっていた。  ××高校周辺が地元で一時期県外に出てひとり暮らしを経験し、また地元に戻ってきた話をした。今では笑い話になっている家事がてんでダメだった、という話をしてその歳でひとり暮らしなんて偉いね、と少し前に誰かに言ったのと同じ言葉で締めようとした。 「今も実家から通ってるんですか?」 「いや。妻とふたりで住んでるよ」 「え、でも指輪してないですよね?」  彼のこの一言には、得体の知れない気持ち悪さがあった。 「家にはちゃんとあるよ。指輪してるとなんか違和感があって落ち着かなくて。結構多いよ、結婚してるけど指輪はしてない人」  そうですか、と彼は暗い表情で答え、母校のある駅で降りて行った。急に元気がなくなったようだが、何か気に障るようなことを言っただろうか。  それから、彼とはホームで会った時に挨拶を交わす程度で極端に口数が少なくなった。最初に声を掛けてくるのは彼の方だし、相変わらず隣に座ってくるから少なくとも嫌われたわけではないと思う。ところが、翌週からは彼が姿を見せることがなくなった。最初は寝坊したのだろうと思っていたが、5日連続となると、ひとり暮らしだしまた風邪でも引いたのではないかと心配になる。  その心配は杞憂だったらしい。さらにその翌週、久しぶりに彼がホームに顔を出した。しばらく顔を見なかったけどどうしてたのかと聞くと、朝起きれなかったのだと答えた。朝練は大丈夫だったのかと聞くと、次の電車でギリギリ間に合わせていたと言った。 「確かに、朝この時間はキツイもんね。風邪引いてたとかじゃないならよかった」  上辺だけの言葉に、心配かけてすみません、と彼が答えた。  話しかければ返してくれるが、やはり彼から話を振ってくることはなくなった。いつの頃からか、彼の表情が暗くなったように思う。親しくなるつもりはなかったはずなのに、気付けば彼のことを気に掛けていた。  どうせ隣に座っても話しかけてくることはないのだ。電車に乗り座席を確保すると、以前のように仮眠をとることにした。彼と親しくなったところで、睡眠さえ確保できれば他のことはどうでもいいはずだった。彼が降りるまでは、隣が気になってよく眠れなかった。  彼の隣で何度狸寝入りをしただろうか。ある日、目を閉じていたら右肩が徐々に重くなっていった。何事かと思って薄く目を開けると、彼の頭が右肩に乗っていた。 「三条くん?」 「わ!? すみません!!」  ためらいがちに声をかけると彼が大袈裟に声を上げて飛び退いた。電車を降りるまで、真っ赤な顔を俯かせていて可哀想なことをしたと思った。  その日はいつもより早めに帰宅できた。真っ暗な玄関を入ると、明かりのついていない廊下をドアの隙間から漏れたリビングの明かりが照らしていた。微かにテレビの音も聞こえてくる。いつもならとっくに寝ている妻がまだ起きているのだ。リビングを素通りして自分の部屋へ向かい、スーツをハンガーにかけると、ワイシャツと下着姿で風呂場へ向かった。久しぶりに早く帰れたのだから、酒を片手にリビングでテレビでも見ようと思っていたのだが、先客がいたのでは仕方がない。今日は早めに寝るとしよう。  始発で一緒になる彼には言う必要がなかったので言わなかったが、妻との仲は冷え切っている。始発で出勤するのも、終電で帰宅するのも、妻と顔を合わせるのを避けるためであった。  妻のことが嫌いなわけではない。同じ会社で働いていた5歳年下の妻に一目惚れをし、粘りに粘って結婚まで漕ぎ着けた。その気持ちは今でも変わらないつもりである。ただ、結婚生活の在り方に大きな食い違いがあった。妻はすぐにでも子供が欲しいようであったが、相馬は子供はまだ早いと考えていた。しかし、産むのは自分だ、体力のある若いうちに子育てを済ませたいと言われれば、妻の気持ちを尊重せざるを得ない。何度か挑戦してみたものの、なかなか子宝に恵まれなかった。妻はますますムキになり、もともと消極的だった相馬は内心諦めムードになっていた。そのうちに、妻は自分のことが好きなのか、ただ子供が欲しいだけではないのかわからなくなってしまった。いつしか勃たなくなり、その頃から妻の相馬への興味は完全に失せた様子であった。  風呂から上がり廊下に出ると、相変わらずリビングの明かりが付いていた。音を立てないようにリビングへ入り、冷蔵庫からビールを出して再び暗い廊下に戻る。その間、妻はリアルタイムで放送されているドラマに夢中で一度もテレビから目を離さなかった。  真っ直ぐに部屋に戻る途中、ふと足が妻の部屋に向いた。ダブルサイズのベッド、ドレッサー、クローゼットに収まりきらない服が増設されたポールに隙間なく掛けられている。よく片付いているが、狭い部屋に大きな物が詰め込まれていることと色味に統一性がないことから、ごちゃごちゃしているという印象を受ける。  ドレッサーの椅子を引き、片っ端から引き出しを開けた。同じような化粧品やらアクセサリーがこの部屋と同じように整理されて詰め込まれていた。  目当ての物は、一番下の引き出しの隅の方に入っていた。 「キャッ……!」  悲鳴がした方へ顔を向けると、部屋の入口で妻が顔を蒼くさせて立っていた。ドラマが終わったらしい。結婚当初、この部屋はふたりの寝室で相馬の部屋は書斎となっていた。妻の反応はまるで物の怪でも見たかのようで、今にも腰を抜かしてへたり込んでしまうのではないかと思った。 「そんなところで何してるの?」 「探し物」  訝し気に相馬を見下ろしながら恐る恐る部屋に入ってきた妻に、やっと探し出した箱を見せた。 「指輪?」 「そう」  ケースに入っていた結婚指輪を取り出し、指に嵌めた。劣化して色はくすんでしまっていたが、サイズの方は問題なく左手の薬指に収まった。 「私が散々付けてほしいって言った時は付けてくれなかったくせに、今頃になって一体どういう風の吹き回し?」  相馬の耳には妻の嫌味は届かない。面白くなさそうに言う妻の左手の薬指に指輪はない。  やはり、慣れないもので違和感が拭えない。家を出る時に指輪を付けてから何度も左手の薬指を触ってしまう。 「おはようございます」  ぼんやり指輪を弄りながら電車を待っていると、駅に到着したばかりの彼が声を掛けて来た。おはよう、と挨拶を返しながら腕時計に目をやると、電車到着の3分前。息を切らせているところを見るとギリギリで家を出て慌ててここまで来たに違いない。額に浮かぶ汗を見て、今日も暑いね、と話題を振った。気付けば、途中までとはいえ彼と通勤を共にするようになってひと月が経っていた。出会ったばかりの彼はブレザーを着用していたが、いつの頃からかワイシャツとネクタイのみになっていた。  学生服とおとなの衣替えでは、持つ意味合いが大きく違ってくる。相馬の学生時代では確か衣替えの時期が決まっていて、暑いから、寒いから、と勝手に上着の着脱ができなかった。この不自由さは学生時代特有のものであり、高校を卒業すると同時に制服を着る機会がなくなることから、衣替えのたびに時間の経過を思わずにはいられなかった。彼と話をしていると、自分に子供がいたらこうだったのだろうか、と思うことがある。自分に彼くらいの子供がいたら、衣替えのたびに子供の成長に思いを馳せていたのだろうか。  彼が姿を見せてからすぐに電車がホームへ入ってきた。空いている車内に乗り込み、空いている席に腰を下ろした。  いつも通りに目を閉じると、あ、と彼が声を上げたのを聞いてすぐに目を開けた。 「指輪……」  彼が小さく呟いたのを聞いて、自分の手元に目を落とした。また癖で指輪を触っていた。 「昨日見つけたからなんとなく」 「なんで……」  会話が噛み合っていない気がして、彼の顔を覗き込んだ。眉間に皺を寄せて、今にも泣き出しそうな目をして唇を嚙んでいた。なんで、はこちらの台詞だった。面食らって何も言えないでいると、ボロっと目から大粒の涙が零れ、ついには嗚咽を漏らし始めた。 「う゛うぅー」 「ちょっ! ……ちょっと、こっちおいで」  動いている電車の中に逃げ場はない。彼の手首を捕まえて、とりあえずドア付近の角に引っ張ってきた。 「一体どうしたのさ?」  聞いてみたところで、グズグズ泣くばかりで何も言わなかった。人目も気になることだし、このままでは埒が明かないので次の停車駅で降りることにした。  人気のないロータリー、寂れた交番。降りた駅前は、相変わらず何もないところであった。具合の悪い彼を介抱して来たきりであったが、再びこの駅で降りることになるとは思わなかった。駅前には自販機ひとつない。先にホームで買っておくべきだった。 「はー」  ほぼひと月前と同じベンチに座り、隣に座っている彼が空を見上げて大きな溜息を吐いた。充血した目は赤く、目尻に涙を滲ませているが、いくらかスッキリしたような顔をしていた。空は青く、これからどんどん暑くなっていきそうな陽気だった。 「大丈夫? 落ち着いた?」 「はい……。取り乱してすみませんでした」 「何があったのか教えてくれる?」  彼の真っ赤な目が、今度はじっと地面を見つめている。そして、時間を置いてからポツリと呟くように言った。 「諦めようと思ってたんですけど、それ見たら堪らなくなっちゃって」  涙声で聞き取りずらかったことは否めないが、彼の言葉はちゃんと届いている。だが、肝心の意味が理解できなかった。 「それって?」 「結婚指輪」  指摘されて、また自分が無意識に指輪を触っていることに気付いた。しかし、彼の話に何故指輪が絡むのか理解ができない。 「結婚してるってわかってたけど、それでも好きでいる分には勝手だろって思ってて、それでいいって思ってたのに、やっぱりそれだけじゃ嫌だったって話」 「えっ……と、何のこと?」 「相馬さんの事が好きなんだよ!!」  だんだんと彼の感情が昂っていき、終いには爆発した。置かれた状況を認識できず、どちらかと言うとおとなしい子が豹変した姿を目の当たりにしてただただ驚いていると、止まらぬ勢いで彼が言葉を紡ぐ。 「俺のこと気持ち悪いって思ってるんでしょ!? でもしょうがないじゃん!! 昔から男しか好きになれないんだから!!」 「ちょ、ちょっと落ち着いて!」  肩に手を置くと、手負いの獣のような目でこちらを睨み付けた。吊り上がった真っ赤な目を見ると、彼は本当に傷を負っているのではないかと思わされる。身体に、ではなく、心に。彼が今までどんな経験や苦労をしてここにいるのかはわからないし、彼が話さない限り聞くこともないだろう。 「まず、君のことは気持ち悪いなんて思ってない。それから、結婚してるから好きだと言われても困るっていうか、どうにもしてやれない。それはわかってもらえるね?」  彼が静かに頷いた。そして、項垂れたきり顔を上げなかった。すっかり気落ちしている彼を見て、結婚していてよかったと思う。そうでなければ、上手い断り方が見つからなかった。  彼が目を虚ろにさせて学校へ行くと言うので、一緒にホームへ戻った。まるで抜け殻のようで心配ではあったが、失恋で学校を休むというのは世間には通らないだろう。来た電車に乗り、学校に近い駅で降りて行った。始発で会社へ向かうのは、ひとつは妻と顔を合わせるのを避けるため、もうひとつは満員電車を避けるためであった。始発の2本後の車内には、空いている座席はもちろんなく、通路は人で塞がっていた。仕方なくつり革を掴み、流れてゆく車窓の景色をぼんやりと眺めていた。  まだいない自分の子と姿を重ねたばかりの彼に恋慕の情を寄せられても困る。知らぬ間に溜息が漏れていた。傷つけてしまっただろうか。移ろう景色は、次の瞬間には何が見えていたか覚えていない。何度も打ち消そうとしても、気が付くと嫌でも彼のことばかりを考えてしまっていた。こういう時は、考えないようにするよりも向き合った方が後に引きずらない。自分が今、何を考えているのかひとつひとつ頭の中で整理していくことにした。  まず、事実として通勤電車で親しくなった男子高生に告白された。その時に自分が何を思ったか。まず驚いた。いや、もしかしたら彼の好意にはとっくに気が付いていたのかもしれない。だが、確証はなかったし男同士だし親子ほど歳が離れているのだから、もしそうだったとしても告白されるとは思っていなかった。それから、やはり彼の豹変ぶりに驚いた。それから、同性から好意を寄せられるなんて思っていなかった。現実にいるとは思っていなかった、とまでは言わないが、遠い世界の、テレビの中だけの話だと思っていた。それから、彼に泣かれて困った。どうにもできずに断ったことも含めて、自分が悪いことをしてしまったようで気が重い。応えてあげられなかったことで彼が可哀想だと思った。だが、これはどうしようもないことだろう。彼を振ったことで、少なからず自分もダメージを受けていたことに気付く。最初は懐かれて面倒臭いと思っていたはずなのに、いつの間にか彼と同じでないにしても彼に対して好意を抱いていたらしい。きっと、明日からは向こうから声を掛けてくることはないだろう。だからと言って、自分から声を掛けるような野暮な真似を自分がするとは思えない。挨拶を交わして世間話をする程度ではあったが、彼との関わりがなくなってしまうのは少し寂しいような気がした。そういえば、思い立って結婚指輪を引っ張り出してきたのも、彼とそんな話をしたからだったような気がする。  彼の好意になんとなく気付いていて、自分は彼を試そうとしていたのだろうか、それとも無意識に排除しようとして、魔よけ代わりにしようとしたのだろうか。  事実として、相馬は結婚している。結婚指輪を所持していて、付けるも外すも相馬の自由だ。そして、結婚指輪を身に付けることで悪いことなど何もあるはずがない。頭ではそうわかっていながらも、自分がひどく悪い人間のような気がしてならなかった。  その日の夜、結婚指輪を外した。 「おはようございます」  翌朝、いつものように始発電車を待っていた。聴き慣れた声に、一気に眠気が飛んだ。 「おはよう。もう話しかけてこないと思った」 「気持ち悪くないって言ってくれたじゃないですか。だから、挨拶くらいしようかと思って。それより、指輪外したんですね」 「ああ。やっぱり慣れなくて。それから、会社の人間にすごくからかわれたから」  昨日のことが嘘のように、何事もなかったかのように会話を交わし、来た電車に乗り込んだ。空いている席に並んで座る。 「奥さんって、どんな人ですか?」  いつもならば、電車が来た時点で会話が打ち切られる。席に座ると、相馬は目を閉じて仮眠をとるから彼が何をしているのかは知らない。 「まぁ、可愛いよ。料理もすごく上手だし」  周りの迷惑にならないように声を潜めて返事をし、最近は作ってくれないけど、と心の中で付け足した。その後も彼からの質問は止まず、彼が電車を降りるまで話し込むこととなった。 「じゃあ、俺はここで。いってきます」 「いってらっしゃい」  彼を含む多くの学生が降りた電車が再び走り出す。いつもは、完全に眠っていていつの間にか隣の人間が入れ替わっていたり、薄っすら意識がある時でも人が動く気配で彼が降りることを認識する程度なので挨拶を交わすことが新鮮に感じた。いってらっしゃい、いってきますなんて、何年ぶりだろうか。 「おはようございます」  翌朝も彼の方から声を掛けて来た。どこまで乗るんですか、から始まり、何の仕事をしているんですか、と聞かれた。今更のような気もするが、思えば聞かれることに答えるばかりで自分の話をしてこなかった。裏を返せば、彼は今まで深く踏み込んで来なかった。名刺を渡すと、彼が目を輝かせた。 「え、これ貰っていいんですか?」 「別に構わないよ。むしろ、こんなの欲しいの?」  高校生の彼に言わせると、名刺は酒、煙草に並んで大人な物のようだった。確かに、高校生で自分の名刺を持っている人間は稀だろうし、名刺交換などしたこともないのだろう。名刺1枚でこんなに喜ばれるのは、すごく新鮮だった。 「この番号に掛けてもいいですか?」  目を輝かせながら、名刺に記載されている電話番号を指して彼が言う。 「別にいいけど、会社の携帯だよ?」 「あ……じゃあ、やめときます」  無邪気な彼をからかうと、すぐにシュンとしてしまった。その代わりこっちに掛けて、とプライベートの携帯をポケットから出し、彼に連絡先を教えた。彼のアドレスを聞く前に彼の降りる駅に到着してしまい、慌ただしく別れた。人知れず苦笑する。まさか、同じ電車に乗るだけの顔見知りの高校生と、しかも自らアドレス交換をすることになるとは思わなかった。人生、何が起こるかわからない。朝は朝練や授業があって連絡する暇がなかったのだろう。昼頃、彼からメールが入っていた。  アドレス交換をしたからと言って、お互いに頻繁に連絡を取り合うという状況にはならなかった。朝、顔を見て話すので事足りていた。 「週末はいつも何してるんですか?」  電車到着ギリギリに顔を見せた彼と電車に乗り込み、空いている席に座る。  週末は大体昼前まで寝て、起きてからジムへ行き、その足で温泉へ行って夕飯まで食べてから帰宅する。寝るまでの時間は持ち帰った仕事をするか借りて来たDVDを見て過ごしている。世の中の中年男性は、きっとみんなこんなもんだろう。格好付けても仕方ないので、ありのままを話した。 「三条くんは何してんの?」 「俺は一日中ずっと部活してますよ。朝はいつもより遅いのでギリギリまで寝て、部活が終わってからは友達とメシ行ったり宿題したり」 「へぇ、学生は大変だね」  素っ気ない返事をしながら、自分の高校時代を反芻した。相馬が通っていた頃はかなり部活動が盛んで、ほとんどの部活は土日のどちらかは活動が行われていた。彼の話を聞く限り、今もさほど変わらないのだろう。相馬は吹奏楽部に所属しており、土曜日の午後半日を部活動に費やしていた。その他の時間は寝たり、漫画を読んでいたり、テスト前には勉強をして過ごしていた。親と同居だったため、家事は一切していない。  平日は学校、休日は部活。よく、ひとり暮らしなどできると思う。家事はどうしているのだろう、隙間時間に洗濯機など回しているのだろうか。 「相馬さん」 「ん、何?」  いつの間にかぼんやりしてしまったらしい。彼に顔を向けると、いつも会っているから分からなかったが、黒く日に焼けていることに気付いた。 「今週の日曜日、試合あるんですけど見に来ませんか?」  とは言っても、俺は出ないんですけどね、と彼は慌てて付け足した。  もうそんな時期か。サッカー強豪校である母校は、地区予選は当たり前のように決勝戦まで進み、インターハイへ行ったり行けなかったりしている。そういえば、この間彼が準決勝を勝ち進んだ、と言っていた気がする。次の試合は、地区予選の決勝戦ということになる。  彼が所属しているから、彼がよく話すから聞いているだけで、別にサッカーに興味があるわけではない。取引先とも、出身校の話になるとよく高校サッカーが話題に上るが、サッカー強豪校出身だからと言ってみんながみんなサッカーに興味があると思うのはやめてほしい。特に用事があるわけではないが、行けたら行く、と曖昧な返事をしておいた。  誘われた後何度か通勤電車で話をする機会があったが、再度誘われることもなかったので曖昧に回答をしたまま決勝戦の日を迎えた。  当日まで行く気はなかったし、誘われたことすら忘れていた。その日は早くに目が覚めて、急に思い立って身支度を始めた。試合が行われる会場を調べている時、ふと彼に連絡を入れようかと思ったが、どうせ会場で会えるだろうと思ってやめた。  夏がすぐそこまで来ていた。照りつける日差しは眩しく、容赦ない。まだ風が強く、湿気を含んでいないだけ過ごしやすい。山中にあるサッカー場はJリーグでも使用されている立派なもので、応援席に足を踏み入れた途端その広さに圧倒された。母校と、それから対戦相手の両校の生徒はほぼ全員が応援に駆り出されているようだった。さすが強豪校なだけあってOBの姿も想像していたよりも多い。それでも空席が目立ち、客席はガラガラという印象を受けた。緑と引かれた白線が眩しいフィールドには数台テレビカメラが入っていた。  彼が着ている制服と同じ集団の近く、OBに交じって空いている席に腰を下ろした。まだ試合は始まっていないのに、両校楽器を吹き鳴らし応援団の合図に従って応援合戦を繰り広げている。  早速途中のコンビニで買ったお茶を開けた。本当ならビールでも飲みたいところだが、車で来てしまったために諦めざるを得なかった。応援を聞いていると、嫌でも昔を思い出す。制服は変わってしまったが、掛け声は昔と変わらない。昔と変わったことは、強制されて応援に来ているのではないということと、座ってのんびり鑑賞できることだ。  放送が入り、ピタリと応援が止んだ。選手が入場し、数分のウォーミングアップの後に試合が開始する。彼が言っていた通り、彼は試合には出ていなかった。1年でレギュラーになれる世界ではないのは素人ながらに分かっているつもりだ。客席の最前列に固まっているユニホームを来た集団が、レギュラーになれなかった1年2年なのだと思う。試合をよそに、応援に白熱するユニホームの集団を観察する。少々時間はかかったが、遠くに彼の姿を確認した。  同級生と交じって応援に興じる彼の姿は、「普通」の高校生だった。仲間に囲まれて仲間を応援する彼は、とても楽しそうで生き生きして見えた。当然ながら、歳の離れた、父親でも親戚でもない相馬と話す時と全然表情が違う。自分の話をするときはともかく、相馬との共通の話題を探そうとしたり面白い話をしようとしている彼の様子に無理を感じることがあった。そんな彼の健気さや距離感を気に入っていたのだが、やはり少なからず苦痛を感じていたりするのだろうか。  応援の一環で肩を組むシーンが見受けられ、思わずドキリとする。同性愛者だと聞かされていたから、変に意識したりもしくは不快に思ったりしていないだろうかと下世話なことを考えた。彼の口ぶりからすると、自分以外の誰にもマイノリティについて話していないのだと思う。彼の様子を見ている限り、邪推したようなことは感じていなさそうだ。  試合は、1-3という残念な結果に終わった。閉会式が終わると、OBはパラパラと席を立ち始め、生徒は重い空気の中帰り支度を始める。客席の一番前を陣取っていたサッカー部は、この後ミーティングでもするのだろうかすぐさま固まって移動を開始した。当然声を掛ける暇などなく、一体何のために来たのだろうと虚しさだけが残った。  特に興味があったわけでも、好きなわけでもないのに一体何のためにサッカーを見に行ったのか。もしも勝っていたならば、心持ちは全然違っていたかもしれない。気が向いたからと言えばそれまでだ。彼に声を掛けて、あわよくばその後ご飯でも、と考えていた。いくら誘われたからといってもそれは社交辞令で、自然に考えれば偶然登校時間が重なるオジサンからご飯に誘われるなど気持ち悪いだけではだろうか。冷静に考えると、声を掛けなくてよかったのかもしれない。 「おはようございます」  翌朝、電車を待っていると彼に声を掛けられた。おはよう、と挨拶を返して時間通りに到着した電車に乗り込んだ。ほぼ定位置となっている席に腰を降ろすと、早速彼が昨日の試合を話題に振った。 「昨日、サッカーの決勝戦があったんですけど」 「うん、知ってる。残念だったね」 「えっ! もしかして見に来てくれたんですか?」  目を丸くした彼が身を乗り出した。 「いや。夕方のニュースでもやってたし、朝刊にも載ってたし」  何故とっさに嘘を吐いたのかは自分でもわからない。実際に目で見た試合よりも、帰りに寄った温泉の食事処で見たニュース映像が真っ先に浮かんだ。 「昨日の試合で、前半ちょっとだけですけど同級生が出たんですよ」  彼が気にする様子なく話を続けた。へーすごいね、と話を合わせると、そうなんですよ、と食い気味に目を輝かせながら言った。 「一年のうちから試合に出させてもらえるなんて滅多にないことなんです。そいつ、同じクラスなんですけど成績も良くて」  心なしか頬を紅潮させて話す彼を見て、もしかしたら彼はその同級生を好きなのかも知れないと思った。 「もう彼女いるんですけど、それでもラブレターもらったり告白されたりしているらしいです」  そうなんだ、という素っ気ない返事でも彼は満足そうだった。 「けど、君はゲイなんだから女子にモテるのは別に羨ましくないでしょ」  無自覚ではあったが、悪意のこもった一言だった。彼が表情を凍り付かせた。 「あー……まぁ、でも、試合に出てたのは羨ましいんで」  先程のテンションの高さが嘘のように、歯切れ悪そうに言った。ごめん、と呟くように言うと、いえ、と小声で返事が返ってきた。  それから会話はなく、彼の降りる駅になって車内で別れた。会社に着くまでの間、ずっと自己嫌悪に陥っていたのは言うまでもない。  言ってはいけないことだったのはなんとなくわかる。傷つけるつもりはなかった、というのは言い訳で、彼の話が面白くなかったのだ。元々サッカーに興味がないのに、少ししか出場しなかった知らない人間の話をされたところで面白いはずがない。  本当にそれだけか? 正直、いつも彼の話を面白いと思って聞いているわけではない。感覚的にはラジオを聞き流しているようなものだ。要するに、内容はどうでも良くて彼が話す空気感を気に入っているのだ。昨日話かけられなくて、同級生と仲のいいところを見せつけられて拗ねているだけではないか? 自分がしたのは、ただの八つ当たりだったのではないか。  翌日、何事もなかったかのように彼から話しかけてきたが、なんとなく気まずい雰囲気が漂っていたのは言うまでもない。

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