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1年

 7月下旬の月曜日。彼が姿を見せないまま、始発電車が出発した。  車内は元々空席が目立つくらいには空いているが、今日は一段と空いているような気がした。最初は彼が風邪でも引いたか、寝坊でもしたのかと思っていたが、思えばホームで電車を待つ時から違和感があった。車内を見渡してみると、制服姿が少ないことに気付く。そういえば、今日から夏休みなのだと彼が言っていた。 「へぇ、いいね。どこか行くの?」  夏休みだと聞かされた時に彼にそう訊ねると、彼はお盆休みの時に実家へ帰るのだと答えた。 「お盆以外は毎日部活です。宿題もいっぱい出てて……。読書感想文って、高校になってもあるんですね」  炎天下でサッカー、帰宅したら宿題。彼の場合、ひとり暮らしなので食事も洗濯も自分でやらなければならない。帰省にしてもせいぜい5日くらいで、往復の時間を考えたらのんびりはしていられないだろう。夏休みが明けたらテストがある。そう考えると、毎日出社してでも涼しい社屋で労働する方がよほどマシに思えた。  彼のいない通勤電車では、乗った直後から仮眠をとれたので快適だった、というのが本音だ。窮屈な座席の、いつも彼が座る右側が少し広く感じた。  久しぶりに会う彼は、一目でわかるほど黒く焼けていた。  お久しぶりですと言う彼に、まだ俺の顔見たくなかったろ、と意地悪を言うと困ったように笑った。 「これ、実家に帰った時のお土産です」  夏休み明け登校初日の電車には、しばらく見なかった制服姿が目立つ。ほぼ定位置と化している座席に腰を下ろすと、早速彼が大きな鞄を開いた。 「別に気を使わなくていいのに」 「部活のみんなの分は別で用意してますから」  半ば無理矢理渡された長野土産を膝の上で抱えた。 「どうだった、お盆休みは?」  相馬の通勤鞄にはノートPCと最低限の筆記用具が入っており、折り畳み傘が入る以外の余分なスペースはない。鞄に入れるのは諦めて、手に抱えることにした。 「普通に墓参りして、スイカ食べて、ケーキ食べて、クワガタ採りに行ったり地元の友達とサッカーしました」 「クワガタ?」  怪訝な顔をすると、うちからちょっと自転車漕ぐと山があるんですよ、と彼が補足した。 「小5の弟がいるんですけど、弟に付き合わされました」  何でもないことのように彼は言うが、都会というほどのところでもないが田舎というには建物が立ちすぎているところに暮らしてきた相馬にとっては、小学校で蝉を採るのがせいぜいで、山でカブトムシやクワガタを捕まえるなどゲームや小説の中の話だと思っていた。 「ケーキっていうのは?」 「俺の誕生日が8月8日なので。もう過ぎちゃってたけどケーキ買ってもらいました」  土産を受け取ってしまったが、自分の方こそ何かをあげるべきだったのではないか。知らなかったとはいえ、妙な心地悪さを覚える。 「相馬さんは、何して過ごしてたんですか?」 「俺も墓参りは行ったよ。ただ、実家が近いから墓参りして、昼飯食っただけで帰ってきた」 「そういえば、うちの高校の近くでしたっけ」  彼が不在の期間中は通勤時間を睡眠に充てていた相馬にとっては、久しぶりに会う彼の話を煩わしくも心地よく感じていた。 「部活が休みなのにわざわざサッカーするなんて、よっぽど好きなんだね」 「人数集まってやる遊びって、サッカーしかなくて。後輩も遊びに来てて、すっげー楽しかったです」  彼が降りる駅に電車が止まり、彼と別れた。電車が動き出すと、やれやれと目を閉じる。  彼が充実した休みを過ごせていたようでよかった。40に近づいてくると、学生が眩しくてしかたない。  実家にはひとりで帰った。一言の挨拶もなしに妻は自分の実家へ帰ったらしい。忽然と妻の姿と、キャリーケースが消えていた。確かにしばらく会話らしい会話はしていなかったが、別に止めはしない。一言くらい何か言ってくれたらと無性に腹が立ったし、虚しくもあった。妻はうちに戻ってきていて、今頃ベッドの中で眠っていることだろう。  ちなみに、貰った菓子は目敏く見つかってひとつを残して部下の餌食となった。  後日、彼の誕生日プレゼントに万年筆を贈った。高校生で万年筆を使う子はあまりいないだろうが、名刺を喜ぶくらいだ、大人っぽいアイテムの方が彼は喜ぶだろうと思った。誕生日プレゼントなど予測していなかったであろう彼は、目を丸くした後、目を輝かせていた。期待以上の反応を貰えて何よりだった。 「相馬さん、俺、彼氏できたかも」  通勤電車の中、彼にとっては通学電車の中でそんな告白をされたのは秋も深まった頃だった。  あれから彼のワイシャツが長袖になり、出会った時と同じようにブレザーを着用していた。男子は特に、今後の成長を見込んで大きめに制服を作るものである。出会ったばかりの頃は制服に着られていた感じであったが、背も伸びた今、なかなか様になっている。相馬も秋コートと革手袋を装備し、そろそろマフラーを出そうかと思っていた。 「は?」 「あっ、俺もびっくりしてて。まだ現実味がないんだけど」  相馬の間の抜けた声に、彼が被せて言った。びっくりしているという割には、彼の態度はどこか落ち着いているように見える。 「2年の先輩。サッカー部の」  歯切れ悪く言う彼を前にして、言葉が出なかった。  電車が高校の最寄り駅に停まり、じゃあまた明日、と彼が急ぎ足で降りて行った。彼から衝撃的な告白を受けたのはひとつ前の停車駅だった。タイミングを見計らっていたのは明白だった。  君が好きなのは俺だろう?  一瞬空っぽになって真っ白になった感情が、腹の底から沸々と湧いてくるどす黒い感情で満たされようとしていた。  電車が動き出してはっとする。俺は今、何を考えた?  深く溜息をつき、頭を抱えた。傲慢な考えだ。確かに1度告白をされたが、すぐにその場で振っている。自分は既婚者で、自分とは親子ほどの歳の差があって、同性愛者と異性愛者である。たまたま弱っているところに居合わせて手を差し伸べてくれた大人を好きになって失恋して、半年が経とうとしている今、見込みのない相手をいつまでも好きでいるなんて思う方が間違っている。仮に彼がまだ自分を好きだったとして、応えることなどあり得ない。差別とかそういう問題ではなく、自分にとっては性別の壁は厚く、高いものでそう易々と乗り越えられるものではないし、大人が子供と恋仲になるなど、想像するだけで気持ちが悪い。  そこまで分かっているのに、彼が自分を好きでないことを許せなく思うのはエゴ以外の何物でもない。こんな自分に本気で嫌気が差す。彼が思わせぶりな態度をとるのが悪いのだ。20も年下の子を捕まえて、責任転嫁をしようとする自分が恥ずかしい。  電車に揺られながら当然眠れるはずもなく、しばらく自己嫌悪に陥った。そして、降りる駅のひとつ前でふと結論を導き出した。自分は彼を自分の子供のように思っていたのではないか。きっと、娘から彼氏を紹介された父親はこんな心情に違いない。突然降ってきたこの考えは、ストンと腑に落ちた。これで仕事中モヤモヤと悩むこともなさそうだ。始発電車は人の乗り降りを繰り返し、相馬が降りる頃にはスカスカだった車内はほぼ満員になっている。降車駅でドアが開くと、人の波をかき分けて電車を降りた。  父性に近い感情を自覚すると、今度は野暮な感情が湧いてくる。三条くんの彼氏とは、どのような人物なのだろうか。 「おはようございます」  翌朝、ホームで電車を待っていると彼から声を掛けて来た。電車が着く2分前。相変わらずギリギリである。 「おはよう」  挨拶を返し、並んで電車を待った。すぐに電車到着のアナウンスが入り、電車がホームに入ってきた。いつも通り、並んで定位置に座る。  いつもすぐに口を開く彼が、バッグを開いて本を取り出した。英語教材であった。回答が朱書きになっており、赤いシートを重ねると回答が見えなくなるものだった。教材に見覚えはなかったが、同じようなものを使って勉強してたっけ、と懐かしい気持ちになる。  相馬が手元を覗き込んでいることに気付いた彼は、教材から視線を外して相馬に向けた。 「テストが近いんですよ。うちの部活厳しくて、1つでも赤点取ったら放課後、罰走と部室の掃除と勉強で、80点以上取るまでボールに触るの禁止になるんです」 「へー。でも、赤点取らなきゃ問題ないんでしょ?」 「そうなんですけど……」  歯切れ悪く答える彼を見ていると、だんだんと心配になってきた。曰く、帰宅後はすぐに寝てしまって全然勉強ができていないとのこと。入学してから成績は下がる一方らしい。朝5時台の電車に乗って昼間は勉強とスポーツをしているのだから、夜眠くなるのは仕方のないことだと思う。 「英語が全然ついていけてなくて。相馬さん、英語得意ですか?」  得意ではないけど勉強しておいた方がいいよ、とは伝えておいた。相馬も英語は苦手で、学生時代は海外に行く予定はないのだから勉強しなくてもよいだろうと思っていたが、日本で暮らす今、英語で苦労することがある。日本に暮らしていても取引先が海外の場合、必然的に英語を使用することになる。翻訳機能もあるが、機械に頼るにも限界がある。  彼は渋い顔をして、嫌々といった様子で教材に向き合った。気持ちはすごくよくわかるので、苦笑しながら邪魔をしないように様子を見守ることにした。  彼が降りる駅に着く頃には夢の中にいた。それはどうやら彼も同じだったらしく、ぼんやりと何を言っているかはわからない車内アナウンスが聞こえた後、慌ただしく動く彼の気配で目が覚めた。相馬が起きた時には電車は母校の最寄り駅に停車しており、相馬が起きたことに気付いた彼は、いってきます、と声を掛けて慌ただしく降りて行った。彼の後ろ姿に小さく手を上げて応え、その手を口元に持ってきて大きなあくびをした。  それから、しばらく彼は隣で勉学に励んでいた。だいたい英語ばかりだったが、日替わりで古典だったり歴史の教科書と睨めっこしていた。その間、よく眠れたことは言うまでもない。 「今日テストなんですよー」  最近は比較的静かだった彼が、甘ったれたような声で言った。ヤケになっているところを見ると自信がないことは伝わってくるが、今更ジタバタしても仕方ない。腹を括るのみである。 「そうか。頑張って」  勉強する彼の邪魔をしないように、睡眠を確保する為に下を向いて目を閉じようとした。視界の片隅に彼の大きなバッグが映る。 「今日も部活あるの?」 「あ、はい。グランド走ってストレッチするだけですけど」  今日のテストは、数学と歴史と古典らしい。歴史の問題集から目を離して彼が答えた。 「テスト終わってから1時間くらい。各自メニューこなしたら解散していいことになってます」  さすが強豪校。テスト期間にまで部活があるなんて関心する。 「朝練もあるの?」 「いや、さすがに朝練はないですよ」  平然と言う彼に違和感を覚えた。そして、すぐにその違和感の正体に気付いた。 「朝練ないならもっとゆっくり来ればいいのに」  この時間に乗っているのが当たり前になっているので気付かなかったが、今乗っている電車は始発電車なのだ。テストがないなら、もっと遅い時間の電車でも十分間に合うはずであった。 「えっと、もうこの時間で習慣づいちゃってるって言うか、朝早く学校行って勉強した方が効率いいんです」  そんなもんか、と思う。 「まぁ、一回生活リズム崩すと元に戻すの大変だもんね」  ずいぶんと長いこと、テスト前の貴重な時間を邪魔してしまった。勉強を続けるよう促し、自身は目を閉じた。  並んで電車を待っていると、はぁ、と彼が小さく溜息を吐いた。時折強く冷たい風が吹き、身震いするような寒い日だった。 「テストが終わったばっかりだっていうのにどうしたの。酷い点でも取った?」  半分冗談で言うと、彼が相馬に目を向けた。生気のない暗い目をしており、思わず口を噤む。  喧しい構内アナウンスが入り、電車がホームに入ってきて風を起こした。電車に乗り込む彼の足取りが重いように感じられた。 「テストは、だいたい平均か平均よりちょっと低いくらいでした」  ほぼ定位置と化している開いている席に座り、神妙に彼が口を開いた。 「よかったじゃん」  本来ならばよいと言っていいのか微妙な成績ではあるが、赤点を取ると実質部活停止と聞かされていたので、赤点は回避できてよかった、という意味で言った。彼は3日間に渡ったテストがようやく終わったばかりであった。 「相馬さんは、どうして奥さんと結婚したんですか?」 「ん?」  突拍子もない質問がいきなり飛んできてたじろぐ。一瞬また告白をされたらどうしようかと身構えた。 「そりゃ、好きだったからだよ」 「好きってどういう感情ですか?」  動揺を悟られないように返すと、矢継ぎ早にさらに難しい質問が飛んできた。少なくとも、また告白されるということはなさそうだ。思うに、彼氏とうまくいっていないのだろう。 「それは人それぞれだと思うけど。彼氏のこと、好きじゃないの?」  息を吐きだしてから答えると、彼が目を丸くする。どうやらビンゴだったらしい。 「朝からする話じゃないんですけど、昨日先輩とそういう雰囲気になって、それで、その……うまくできなかったんです」  こんな話聞かせてごめんなさい、と、長い沈黙の後彼が小声で言った。  彼氏ができたと聞かされてから2週間くらいだろうか。いくらなんでも早すぎないかと思ったが、他人の事情など知らないし、口を出すのは野暮というものだろう。まだ子供だと思っていたが、やることはやっていたのだと思うと裏切られたような気持ちになるが、思えば高校生といえば性への興味が出てくる年齢であった。 「緊張していただけなんじゃないの? それに、初めからうまくいくものでもないし」  関心がないのを装ってそれらしいことを言う。言葉とは裏腹に、真面目な彼に限ってこんなに早く大人になろうとするとは思わなかったと下衆なことばかりを考えてしまう。 「先輩もそう言ってくれたんですけど、それだけじゃない気がするんです」  蒼白い顔色を見て、自分の浅はかさを恥じた。彼がどこか思いつめているのがわかった。 「先輩のどこが好きなの?」 「優しいところ……ですかね? まぁ、基本調子のいい人なので分け隔てなく皆に優しいですよ」  彼の言い方にトゲがあるように感じて小さく首をひねる。 「本当に調子のいい人で、のらりくらり躱してよく部活をサボるんですよ。元々サボり癖のある人だったんですけど、3年の先輩がいなくなってから余計に酷くなって。後輩が選抜メンバーに選ばれてて自分は選ばれなかったのにどうして平気でいられるんだろうとか思ったら無性に腹が立って」 「あーそっか。冬にも大会あるんだっけ」 「はい。そろそろ県予選が始まりますよ」  三条くんはどうだったの、と聞こうと思ったが、やめた。もし選手に選ばれていたならば、真っ先に報告してくるはずだ。  同期に抜かれたことに焦りや不安があって、それを先輩にぶつけているだけなのではなかろうか。  口を開きかけたところで、彼の停車駅到着を告げる車内アナウンスが流れた。彼が身支度を整え、降りる準備を始めた。 「今日は話聞いてくれてありがとうございました。じゃあ、いってきます」 「ああ、うん。いってらっしゃい」  話をしたことで少しは肩の力が抜けたのか、それとも無理をしていたのか。彼は最後に笑顔を見せてから重そうな荷物を担いで電車を降りて行った。  テストに部活に恋愛。学生は悩みが尽きない。それに引き換え、自分は健康診断の結果さえ気にしていればいいのだから気楽なものである。  翌朝もホームで彼に会った。毎朝通勤、通学を共にしているのだから、会ったという表現は白々しく感じられるが、約束をしているわけではないのだから会ったという表現が適切だろう。  どこか彼に元気がないように感じられた。聞くと、昨日は帰宅してすぐに眠ってしまったのだそうだ。起きた頃には午前1時を過ぎていて、慌てて風呂に入り、宿題をやって就寝したのは午前3時だと言う。電車の中で、彼は大きいスポーツバッグを抱えて爆睡していた。電車が揺れるたびに前のめりになっていて、いつ椅子から転げ落ちるかヒヤヒヤした。  それから1週間経つがやはり彼の元気がないように見える。たまに眠そうにうとうとしていたり、居眠りしていたり、小テストがある時は教材を開いていることもあるが、たまに会話を避けるためにわざとそれらの行動をとっているように感じられることもあった。元々共通の話題が少ないのだ。特に話すことがない日もあるだろうし、言いにくいこともあるかもしれない。そう思って今まで気にしてこなかったのだが、今回は相談されたこともあって、気になるというよりも心配になっていた。  今日は英単語の小テストがあると言って、英語の問題集のようなものを開いていた。 「三条くん」  声を掛けると、瞼が半分降りていた彼がハッと目を開けて相馬を見た。 「今度メシ行かない?」 「いつですか?」  食い気味に返事をする彼を見て、おや? と思った。ここ1週間、会話を避けられていると思っていたので返事に迷いが見られるものと思っていた。 「いつも部活は何時に終わる?」 「8時です。片付けとか着替えとか入れると8時半とかになっちゃいますけど」 「あーじゃあ、9時にいつも乗る駅待ち合わせでどうかな」 「大丈夫です!! 楽しみにしてます」  思っていた反応と違って首を傾げる。誘ってみたものの、断られるものと思っており具体的に何も考えていなかった。しかも、思っていたよりも早く物事が決まってしまい今日早速行くことになったようだ。眠気はどこへやら、彼は早くも飲食店のメニューを見ているかのような、生き生きとした目で英語の問題集を見ている。ひょっとしたら、彼に元気がないと思ったのは気のせいだったのだろうか。  恒例となっている残業が確定している部下との食事を断り、彼との待ち合わせギリギリまで残業をして駅に向かった。終電まで残らなかったのは久々なので周囲からは珍しがられた。  待ち合わせの場所へ着くと、彼は既にホームのベンチに座っていた。電車を降りると、すぐにスマホをいじっていた彼と目が合った。 「ごめん、待った?」 「大丈夫ですよ。俺も今来たところなので」  イヤホンを耳から外しながら彼が言う。なんでもないことのように言うが、1本前の電車に乗ってきていたとしても少なくとも10分以上前から待っていたことになる。昼は日差しがあれば穏やかな天気であるが、夜は急激に冷え込む。マフラーは巻いていたが、彼の鼻は寒さのために真っ赤になっていた。それにしても、今朝も会っているはずなのに、夜にも会うのはなんだか新鮮な気分だった。 「とりあえず行こうか。何か食べたいものはある?」  連れ立って改札をくぐる。彼がなんでもいいというので、とりあえず飲食店が多く立ち並ぶ通りへ足を向けた。  ひとつ先のロータリーと交番しかない駅ほどではないが、近所もそこそこ田舎なので飲食店の数も限られている。居酒屋が最も多く、次いでファミレス、それから旅行者向けのちょっとした高級料理店といった具合だ。  彼が制服姿なのでまず居酒屋には入れてもらえないだろう。ファミレスは時間が時間なので、援助交際に見られないこともないと思って避けたかった。援交を心配するなら、そもそも外食などするべきではない。だからと言って彼の下宿先に押し掛けることは絶対にできないし、ウチにも妻がいるから呼ぶことはできない。カラオケのような密室も論外である。  補導は何時からが対象になるのだろうか。歳の離れた友人を持つ難しさに頭を悩ませていると、賑やかな通りから少し外れたところに個人でやっていると思われる年季の入ったラーメン屋を見つけた。 「ラーメンでもいい?」 「あ、はい。ラーメン好きです」  赤い暖簾をくぐると、厨房に立っている店主がらっしゃいませ、と声を張り上げた。店主の声に気付いた奥さんと思われる年配の女性に案内され、カウンターの前に座った。 「今日英語のテストだったんでしょ? どうだった」 「10点満点中7点でした。ヤマが当たりました」  座るなり、すぐにお冷が出てきた。カウンターが5席、4人掛けのテーブル席が1つの手狭な店ではあったが、意外と繫盛しており、隣の客が出て行ったかと思えば、すぐに別の客が隣に座った。厨房に男性2人と、フロアは年配の女性が1人で回しておりなかなか忙しそうだった。客層は全て男性で、相馬のような会社帰りのサラリーマンが大半で、飲みの締めにやってきたような酔っ払いの中年男性も多かった。  立てかけてあったメニューをふたりで覗き込む。透明なハードタイプのクリアファイルに、手書きで料理名と金額のみが記されている紙が挟まれているごくシンプルなメニューだ。 「俺は塩かな。三条くんはどうする?」 「豚骨と、半チャーハンにしようかな」 「餃子付けたら三条くんも食べる?」 「あ、はい」 「じゃあ餃子も頼もう。トッピングはどうする?」 「うーん……なしでいいです」 「了解」  すみません、とテーブルを片付けていた店員に声を掛けた。テーブルはそのままに、すぐに店員が早足で寄ってきて注文を手早くオーダー票に書きつけた。女性が厨房にオーダーを伝える声を聞きながら、店に設置されているテレビに目を向ける。外観通り中も年季が入っており、テレビだけが新しいようだった。初めて入る店であったが、昔ながらの雰囲気が心地いい。 「俺、ここ来るの初めてです。相馬さんはこの辺のお店詳しいんですか?」 「いや。俺もここ入ったの初めてだよ。大体会社の近くの、どっか適当なところに入るからこの辺は全然わからない」  雑談をしていると、すぐにラーメン2丁と餃子、半チャーハンが運ばれてきた。よく見かける器に、飾り気のない盛り付け。値段は比較的安く、味は昔どこかで食べたような、懐かしい味がした。 「ん、美味しいです! チャーシュー柔らかい」 「よかったね」  彼の食べっぷりは、実に気持ちが良かった。ラーメン1人前、半チャーハン、半分こした餃子3個をペロリと平らげた。これでもまだいけるというのだから、部活帰りの高校生の胃袋は恐ろしい。  お世辞にも店内は綺麗とは言い難いし、巷で言うところの「映え」とは程遠い。適当に入った店ではあったが、常連のためにあるような店で、中年男性やマニアには受けがよさそうではあったが、若い子の口に合うかはわからなかった。喜んでくれたようで何よりだ。 「奢ってもらってすみません」 「いいよ、別に。俺から誘ったんだし」 「ごちそうさまでした」 「ん」  会計を済ませ、店を出た。彼が自転車を取りに行くと言うので、来た道を引き返す。駐輪場は人気も街灯も少なく暗いので、付いていくことにした。 「こっちもよく星が見えますね」 「地元長野だっけ。そっちには全然敵わないっしょ」  カシオペア座が見えますよ、と彼が足を止めて夜空の一点を指さした。相馬も一緒に空を見上げるが、どこにあるのかわからなかった。 「最近彼氏とどう?」  会話が途切れたのを見計らって、相馬が口を開く。なかなか切り出すことができず、ようやく聞いた頃には駐輪場の手前まで来てしまっていた。 「全然連絡取ってないですよ」  素っ気なく彼が返事をする。拒絶のようなものを感じたのは、暗がりで彼の顔が見えなかったせいか、それとも芯から冷え込むような寒さのせいか。この話をするために誘ったのに、二の句が継げなかった。  時刻は午後9時を過ぎていた。自転車がまばらに置かれている駐輪場で、彼が早々に自分の自転車を見つけて鍵を差し込んだ。ガチャン、と開錠した音が乾いた空気に大きく響く。 「恋愛って、思ったより楽しくないですね」  かごに荷物を押し込み、スタンドを上げた。 「どうして先輩と付き合おうと思ったの?」  彼が話を振ってくれたのをいいことに、ここぞとばかりに切り込んだ。 「彼氏が欲しかったから、ですかね」  乾いた空気の中でカラカラと音を立てて回る車輪の音を聞きながら、前を歩く彼についていく。黙っていると、彼が分かりやすく補足した。己の好奇心を見透かされたのかと思った。 「先輩の方から声を掛けてくれたんです。俺、男しか好きになれないから、この機会を逃したら一生彼氏なんてできないだろうなって思って。だから、彼氏さえできれば相手は誰だってよかったんです。……軽蔑しますか?」 「いいや。告白されたからとりあえず付き合うって、普通のことだよ。それでお互いのことを深く知って、好きだと思ったら一緒にいればいいし、合わないと思ったら別れればいいし」  これは経験則だった。彼は付き合うことに重きを置いているようだったが、付き合うことはそんなに仰々しいものではない、というのが相馬の持論であった。 「先輩のこと、全く知らないってわけじゃないんです。すごく遊んでることで有名な人で、二股とか当たり前でいつも違う女子連れ歩いてるって噂の人で。俺とのことも、ただ男とセックスしてみたかったって言ってました」 「は!? なんっだよ、それ」  思わず声を荒げると、淡々と話をしていた彼が足を止めて相馬を振り返った。街灯に映し出された彼の顔は、驚きで目を見開いていた。 「あ、別にいいんです! 俺も同じ目的だったので」 「え、そうなの?」 「本当に、そんなに悪い人じゃないんですよ。一回ヤったら捨てられるかと思ってたけど、うまくできなくても見捨てられなかったし。噂とは違っていて、二股とかはしてないみたいです。ただ、ちょっと好きになれないところがあるだけで」  まるで自分に言い聞かせているようだった。もう別れちゃえば、と投げやりで言ったら、そうですね、と彼が軽く答えた。ちょうど分かれ道に差し掛かり、じゃあまた明日、と軽い挨拶をして別れた。足元が凍り付いたみたいに動かず、ぼんやりと自転車で走り去る彼の後ろ姿を見送った。 「昨日は変なこと言ってすみませんでした」  これが、翌朝の彼の開口一番の言葉だった。 「あの、また一緒にご飯行ってくれませんか?」  あまりに彼が必死だったので、思わず噴き出す。彼は、笑われたことに対してムッとした表情を見せた。 「ああ、いいよ。また行こう」  彼の表情がふっと緩んだ。元気になったようでなによりだ。  アナウンスが入り、ホームに電車が入ってきた。乗り込み、いつもの席に腰を下ろすとドアが閉まるより早く彼が声を潜めて言った。 「ゲイバーって知ってますか?」 「は?」  不意に大きい声が出て、彼が慌てた様子で周りを見回した。乗り合わせた乗客は、何事もなかったかのような素知らぬ反応だった。ごめん、と彼に小さく謝る。いつも彼は、突拍子もないことを言い出したり、いきなり泣き出してぎょっとさせられたりする。  男性専用の居酒屋みたいなものなんですけど、と居酒屋すら行ったことなさそうな彼が説明を始めようとする。知ってるよ、と一言で遮った。彼がゲイだと知った頃だったか、興味本位で同性愛について調べたことがあった。インターネットから得た知識があるだけで、もちろん行ったことはない。 「そういうところがあるのは知ってたんですけど、なんだか怖くて。けど、大人になったら行ってみようかと思います」 「ああ、うん、いいんじゃない?」  適当に重みのない相槌を打つ。実は浮ついた話や恋愛相談の類は苦手であった。ただし、自分から首を突っ込む場合は例外なのでタチが悪い。 「なので、大学は東京に決めようと思います」  彼のこの一言で離れていた興味が引き戻された。ゲイバーと言えば新宿二丁目だから、東京の大学に行こうという安直な理由らしい。彼が時々斜め上のことを言ってくるから、ついつい構ってしまうのだとこの時気付いた。どうしていきなり進路の話が出てきたのかと訊ねると、ちょうど学校で進路調査の紙が配られたのだそうだ。冬休み前に三者面談が控えているらしい。  いいんじゃない? とまた適当に返事をした。きっと、彼のように上京したいというだけで進路を決める者も大勢いるだろうし、将来やりたいことがないからとりあえず選択肢を広げるために進学する者も大勢いる。将来なりたいものも決まらないうちから、大卒の方が給料がいいと打算的な考えを持って進学した者を大勢知っているが、その逆に夢や希望を持って、将来を見据えて進路を決めた人は少なくとも相馬の周りには少なかった。  先輩と別れたという報告を聞いたのは、その翌日だった。部活が終わった後に彼から別れを切り出したらしい。少しくらい引きずることもあるかと思いきや、彼の話ぶりはあっさりとしたものだった。悩んでいた時は思いつめていたように見えたが、彼氏さえできれば相手は誰だってよかった、という言葉通りだったようで、なんだか彼の将来が心配になってしまった。

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