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第35話 過去の亡霊

 「いえ、残ります。どこへも行きません」  くぐもった言葉が辛うじて出てた。声が塊のようになって喉に引っかかる。ちりちりと焼けるように胃が痛み出す。  奏太は無言でカードキーをポケットに戻した。悲しそうな顔でも嬉しそうな顔でもない、表情が読み取れない。俺の弱さはいつも奏太を傷つける。  権藤は俺の答えなど全く興味がないようだ。俺の言葉を聞いていないかのように、無言で奏太に向き直ると淡々と話し出した。  「私の心配はもういい、現役はとうに引退した。私の昔の埃を叩き出したところで誰も得はしない」  「でも、いろいろと便宜を……」  「お前は、何を気にしているのだ、株の件も、もう五年を過ぎている。とうに時効だ。それより、私の紹介という形で入った会社だ。お前が居づらくなっていないかと気になっていたよ」  「ありがとうございます、大丈夫です。権藤さんの親戚だとか帰国子女だのと変な噂はでていましたが……」  ああ、大野に聞いた噂のことだ。俺はその噂さえ確認するのが怖かった。できなかった。親戚の紹介で入ったと、大野が行っていたのはやはりこの人かと腑に落ちる。  「俺は、どうすれば奏太を……」  黙って聞いているべきなのだろう。けれどまた何も出来ずに奏太と離れるのかと思う。そもそも今の関係さえよくわからないのだから、この先のことなど想像もつかない。権藤は俺に一瞥をくれると、奏太の方に視線を戻した。  「何もお前たちにできることはない。脅されたのは事実だ。だが、ただ黙って見逃してなどいない。きちんと証拠は抑えてある。そしてお前と私との関係を証明するものは何もない。面白がって週刊誌が飛びつくようなネタかもしれないが。私には痛くも痒くもない。それより、お前は大丈夫なのか。何を言われるかわからないぞ」  「大丈夫です、別に今の会社に恩も義理もありません。退社願いを出せというならそうします」  「そんなことはしなくていい、そもそも親戚とは言っていない。知人のお子さんに便宜を図ってくれるかと聞いただけだ。実際に入社したのはお前の実力だ」  奏太の肩から力が抜けた。ふっと小さく息を吐き出すと、俺の方に向き直った。  「俺がそして俺の母親が生きているのは、全て明正さんのおかげなんだ。金銭的にも精神的にも助けてもらった。だから返せる恩があれば返したい、それだけなんだ」  「……うん」  それしか返せない自分が情けない。奏太の表情を見て心が苦しくなる。俺は奏太を責めて追い詰めるためにここに残ったんじゃない。  同じ間違いを繰り返さないために俺はここに残った。そして、これからできることを模索していると、そう伝えればいいこと。ただそれだけのこと。  なのにどうしてか言葉が喉に張り付いて何も出てこない。  「その、今でも奏太は……」  違う、こんなことが聞きたいんじゃない。権藤が鼻で笑った。その笑い声に、力の差を器の差を見せられたようで悲しくなる。  「瑞樹……俺は他の誰かと関係を持ちながらなんて…そんなに器用じゃない」  解っている、でも何だろうこのごろごろとお腹の中にのこる苦しさは。信じているだけど、俺を選んで奏太は幸せなのだろうか。 「解っている……」  現実は想像よりも重くそして冷たかった。それだけのこと……。

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