22 / 23

anecdote.9

「どうしたの、胸痛いの?」  真柴がさっきから無意識に胸をさする仕草に気付いたキイチが心配そうに顔を覗く。 ──しまった、と思いながら真柴は「ちょっと痒かっただけ」と笑って誤魔化した。  本当は少し痛い。慣れないことをしたのとあの数時間後に大弥はまた泣いて、胸を吸わせたらあっさりと泣き止んだのだ。  こんな簡単なことなら早く教えて貰っておけばと思う反面、一人の時でないとこれは出来ないと葛藤する。 ──きっとこの羞恥心もあと一週間もすれば忘れてしまうのだろうと真柴はすでに母としての悟りを開きつつあった。  突然背後から胸を触られて反射的にその手を払った。 「なんだよっ急にっ!」 「なんでそんなに怒んの〜」  大学生とは思えない甘えた声で夫は駄々をこねた。 「急に触ったら普通は怒る!」 「なんでぇ、真柴は俺の番でしょ〜!」 「持ち物みたいに俺を扱うなら明日から三食抜きにするし、夜はリビングで寝てもらうからな!」 「急にうちの母ちゃんみたいな事言うなよ〜、今日の真柴怖いよ」    真柴はその言葉に正鵠を射かれ、心臓が思い切り跳ねた。今その人の話をして欲しくなかった〜と、真柴は心の中だけで喚いた。  今日あった色んな出来事や発見が、頭の中で渋滞を起こしていると言うのに空気を全く読まない夫は偉くご機嫌で、真柴の身体を簡単に持ち上げては人のことを子供みたいにくるくる回した。 「も〜っ、なに!」  いい加減その能天気さに今日は腹が立つ。  真柴がヒステリックに怒ってもキイチは基本的に気にしない。こう見えて育児疲れの真柴の扱いに慣れているのだ。 「前期の成績、学部で首席取ったよ」 「──────はぁあ〜?!」  自分とは全くレベルの違う世界の話をいきなり切り出されて真柴はまたも思考が停止しかけた。 「何それ、褒めてもくれないのかよ」  少し拗ねた夫に真柴は心から申し訳なく思った。 「ごめん、びっくりして。すごいね、本当におめでとう。凄すぎて言葉出てこなかった……キイチの脳味噌どうなってんの、謎過ぎるよ。下半身についてたんじゃなかったの?」  まだ一年生で、一週間講義がビッシリ埋まっている上、夜中のバイトをこなし続けた夫にどうしてそんな神技を成し遂げることが出来るのか、真柴には全く理解出来なかった。  そんな年頃の夫が望むご褒美は、高級ブランドでも高級車でもない、目の前のΩ(自分)なのだ──。  真柴にはそれが一番不思議でならない。  真柴は諦めたように微笑んで、可愛い男の前髪をすいて額にキスして口付ける。 「俺、二人目が欲しいな……真柴」 「えっ、ええ〜」  真柴は思わず悲痛な声を上げる。    流石にそれは大弥が誕生日を迎えるまでは勘弁してください、とお願いしてどうにか承諾を得た。  お風呂上がりのキイチからは真柴と同じシャンプーの香りがした。大きな図体のくせして、耳を舐められるのが本当は弱いだとか、真柴だけが知る夫の秘密。  意地悪くそこばかり責めるとキイチが拗ね始めた。  向かい合って座っていた真柴の身体を組み敷いて、同じように耳朶に噛み付いて反撃をするが、真柴はくすぐったいと笑うだけだった。  首筋から鎖骨まで舌を這わせて真柴の香りを感じると、それだけでキイチは胸が熱くなる。  胸の尖りに唇が触れたかけた瞬間「いぁっ!」と真柴が変な声を出した。思わずキイチが顔をあげると非常に気まずそうな顔の真柴と目が合った。 「──やっぱり痛いの?」 「え……と、あー、うー、ちょっと……」 「病院行った?」  本気で心配そうにキイチが言うものだから真柴の良心がズキズキと痛んだ。 「そんな大袈裟なアレじゃないから」 「ダメだよ、大弥のことも大事だけど、真柴も自分のこと大事にしてよ。我慢しちゃだめだよ、うちの母ちゃんとか全然使ってくれていいからさ」  もう、お願いだから今はその人の話をしないでくださいと真柴は脳内で土下座した。 「違うんだって、これは本当に……」  ごにょごにょと最近の真柴にしては珍しく歯切れが悪い。キイチの心配そうに揺れる瞳がもう辛くて見ていられない。 「大弥が……強く、す……吸うから……痛く、て……」  こどもを持つ母とは思えないくらい、うぶな声色で真柴は真っ赤になってそれを白状した。  少し妙な間があって、恐る恐るキイチの顔を覗くとなんの感情もないロボットみたいになっていて、真柴は慌てて夫の肩を揺らしながら何度も名前を呼んだ。 「ナニソレ……」と、ロボットは棒読みで小さく口にする。 「えっ、なに、なに?」  キイチから音としてようやく認識できるレベルでのその声に、真柴は極力夫の顔の近くに耳を寄せた。 「何それ! めっちゃ興奮するじゃん!!!」 「わああっ、すげぇっ、やっぱコイツ馬鹿だぁ!!!」  これ以上ないくらいの頭の悪い発言と共に正面から強く抱き締められて、真柴はもう抵抗する気にもならなくて、脱力したまま口から魂が出そうになっていた。  痛いと言っているのに夫は嫉妬半ば、何度も真柴の腫れかけた胸の尖りを指で嬲っては甘噛んで、抵抗できないように真柴の太腿の間を割って、何度もその内側を撫でては器用に動く長い指を真柴の感じる場所まで進めていく。 「もっ、痛い……っ、やめてってば、キイチ……ッ、だめなのっ、本当にっ!」 「だって、大弥だけズルいよ、俺も舐めたい……」 「アホかっ、大弥はまだ歯がないんだから凶暴なお前と一緒にするなっ」 「──じゃあ、別のとこならいいの?」 「──へっ?」  真柴からの返事など待つこともせず、キイチは胸から臍まで舌を這わせて、太腿の内側を舐めて跡が残るまできつく吸った。 「こら、キイチ……っ」 「怒んないで、やだ──」 ──何がヤダだ。ひ弱な年下ぶって、そのくせやることなすこと無茶苦茶なくせに、αの牙が隠れきっていない自覚だってちゃんとあるくせに、そうやっていつもいつも──。 「見えるところにしたら三食抜きっ」 「うん、大好き。真柴」  付き合って間もないカップルでもあるまいに、キイチからはずっと同じ熱量を感じて、悔しいけれど幸せで。真柴はいつだって泣きたくなる。  キイチに出会うまではこんなもの、何一つ信じていなかった──、恋とか愛とか、αからの誠実で一途な想いとか、そんなものは全てフィクションで──。  Ωで生まれた以上、大人になったら更に苦しいことの連続なんだと勝手に未来を悲観して、社会にしがみつくことでどうにか自分の存在価値を守ろうとしていた。 「ありがとう、キイチ……俺も大好きだよ」 ──意地っ張りでなかなか素直に愛してるとも言わないひねくれたΩだけど──いつだってキイチは優しく待っていてくれる。  真柴が言わない分、自分が代わりにたくさん言ってあげようとするのがキイチの強さで優しさだ──。 ──あの夜、あの雨の夜──俺を見つけてくれてありがとう。  素直になれない自分のことをいつも待っていてくれてありがとう。   ──俺に大弥(宝物)をくれてありがとう。

ともだちにシェアしよう!