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anecdote.8

 大弥のオムツを替えて、ミルクもあげて、お気に入りの音の鳴るおもちゃを振ってみせても今日は全く機嫌を直してくれない。  横にさせると余計泣き止まなくなるので真柴は大弥を胸に抱いて窓の外を見せてみたり、暗い場所に移動してみたり、例の如く、水族館のイワシ泳ぎを続けている。 「マジでαってムカつくな、あの呪文どういう仕組みになってんの?」  簡単に寝かしつける呪文を唱える男の顔を思い出すと、それにそっくりなある人のことを思い出した。  空手の師範をやっている義理の母親は自分と同じ雄のΩだ。二人のαを育ててきた経験もあるし、何か秘策を持っているかもしれないと真柴は縋るように電話した。  忙しいから電話には出て貰えないかもと思った相手は意外とすんなり繋がった。 「真柴ちゃん、どうしたのー?」 「こんにちは、今大丈夫ですか?」 「全然大丈夫だよー。はは〜、大ちゃんすごい泣いてるー」    義理の母は孫の騒音レベルの泣き声すら微笑ましいらしくにこやかな声で答えた。 「そうなんです、この子一回泣くとなかなか泣き止まなくて。毎晩夜泣きもすごいし、なんかコツとかありますか?」 「うちの子も二人ともよく泣いたよ、あっでもキイチはね結構簡単に泣き止んだ」 「えっ、本当ですか?」 「うん、おっぱい吸わせたらすぐに泣き止む」 「──────」  真柴は育児疲れで耳がおかしくなったのかと一瞬思考が停止した。少し沈黙を挟んでもう一度聴き間違えかと義母に尋ねるが、残念ながら同じ回答だった。 「お……っぱい、え……と、僕にはありませんけど……」 「でも妊娠後期から産後しばらくは張って痛くない? すごく膨らむほどじゃないけど、Aくらいにはなるでしょ」  ここでのAはカップ数を言っているのだろうが、真柴はもうこの電話を掛けた自分を深く呪っている最中だったので、相槌もうまく打てずに謎の目眩にずっと襲われていた。 「真柴ちゃんっ、新生児の育児に羞恥心は無用だよ! 己の睡眠時間を確保したくば赤子に服従するしかない!」  外国人の義母がどこで覚えたのか謎の日本語を発揮する。  最後には明るく「じゃーねーっ、またなんかあったらいつでも気にせず電話してねっ」と義母は絶望している真柴に別れを告げた。 「あの陽気な喋り方がキイチと同じっ!」と、真柴は若干それに内心イラッとした。  大きく肩でため息をついて、未だ真っ赤な顔で辛そうに泣き続ける我が子を眺める。 「確かに、自分の羞恥よりこの子の泣いてる顔を見てる方がずっと俺には堪える……。お義母さんも同じだったんだろうにぁ……」  栗花落家は両親とも働きに出ていて、昼過ぎにパートを終えた母が帰宅するまで家には真柴一人だ。  誰もいない広いリビングで観念した真柴はソファに座りシャツの裾を捲し上げた。  大弥の顔をそっと胸に近付けると、誰が教えたわけでもないのに大弥はすぐに真柴の乳首を咥えた。慣れない初めての感触に、くすぐったくて恥ずかしくて顔が火照る。  物理的に口が塞がったので、もちろん大弥はすぐに泣くのをやめた。キイチに似た薄い色素の大きな瞳をまん丸に開いて、大弥は熱心に強い力で吸い続けた。 「も〜、俺の呪文(ラリホー)っておっばいだったのー?」  真柴は可愛い我が子を胸に抱きながら、誰もいない部屋の真ん中で嘆いた。  そして悔しいけれど、完全に的を射た回答をくれた義母に感謝するしかなかった──。

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