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第1話
「あっ……」
「──え?」
「……っ」
三人は何かに気付いたかのようにそう一言ずつ声を発した後、無言のまま、入口で立ち尽くした。
独特の匂いのする温かく湿った空気が辺りを支配する中、『男湯』と書かれた暖簾が風にふわりと靡かれる。
全員同じ入口から入ろうとしていることに、何も問題はないはずだった。全員性別は同じであるし、『男湯』と書かれているのに実は混浴だったのならば問題はあるが、ある意味そんな問題になりつつある事態に、叶 は息を詰まらせた。
ここに来て、あの姿を見て、感じるこの危機感をどう説明したら分かって貰えるのか。
叶はその紫闇の目に戸惑いの色を浮かばせながら、隣にいる紫雨 を一瞥する。
紫雨の深翠と目が合ったが、どこか不機嫌そうに視線を逸らされた。表情にはあまり出ていないが、思うところはどうやら一緒だったらしいと、叶は長年の付き合いでそう判断する。
そして紫雨の隣にいる療 にも、叶は視線を送った。療もまたその紫闇の目に、戸惑いの色を浮かばせている。やがて、やれやれといった風情で、首を横に振ってため息をついた。
(療も同じことを思ったようですね)
彼は自分と半分は同種族だ。
本能的に危機感のようなものを感じ取ったのだろう。
叶、紫雨、療。
三人が気まずい雰囲気の中、『男湯』の暖簾の前で立ち尽くしていると、その空気を見事に壊す、賑やかな声が聞こえてきた。
彼らに遅れて歩いてくるのは三人だ。三人は叶達の様子に気付くこともなく、楽しそうに他愛もない話をして盛り上がっている。
叶は小さく嘆息した。
(……竜紅人 は果たして気付くでしょうか)
そう、問題は残りの二人だった。
叶は気付けとばかりに、竜紅人に視線を送りながら、ちらりと二人を見る。
ひとりは名前を香彩 という。
綺麗に手入れのされた真っ直ぐな髪は、腰の辺りで切り揃えられ、その色は春の宵に咲く春花に、朧月のほのかに霞む、蒼滄な月色を溶かし込んだ様な、淡い藤色をしていた。
いつも高く結っている髪は下ろされていて、用意されていたのだろう、紺の生地に薄桃《はくとう》の花が描かれた浴衣の背に胸に、さらりと落ちている。
紅の帯は左腰骨辺りで無防備に結ばれている。帯の巻き方を敢えてそうしているのか、うまく長さ調節が出来なかったのか、結んで落ちている部分の片方がとても長く、腰の曲線に沿って伸びていた。
浴衣から見える手や足首そして身体全体の線を見ても、かなりの華奢だということが分かる。
大人でなければ子供でもない伸びやかで危なげな肢体、透明感のある白い肌と瑞々しい藤色の髪、大きくぱっちりと開かれた森色の瞳。笑うその姿はとても可愛らしいが、時々何かを思い憂う表情に、目を奪われる者もいるだろう。
もうひとりは宵闇のような漆黒の髪をしていた。
猫を思わせる様な、滑らかな体くばりと、独特の流れるような動きが、体の中に確かに存る筈の関節や筋肉といった、体の器官の存在を忘れさせてしまう。ただ歩くだけで、周囲の人間に酩酊感を与えるのは、並みならぬ美貌の持ち主だからだろうか。
紺の生地に濃桃の花が描かれた浴衣に、下ろされた漆黒の艶やかな髪が、身体の動きに合わせてさらりと揺れる。
叶はいつの間にか誘われるかのようにそれを見つめていた。
(……咲蘭 )
不意に視線が合う。
咲蘭はにこりと叶に向かって笑んだ。
厳しく氷のように冷たい美貌の内に、情に熱い華やかさのようなものが存在し、笑むことによってまるで大輪の華が咲いたような、艶やかさと儚さが顕れる。
その微笑は毒だ、と叶は心内で思った。
今ここでどうすることも出来ないというのに、向けられるその笑みは体にとって毒でしかないのだ。
叶も笑みで返した後、咲蘭はその視線を香彩に向けている。
ふたりは楽しそうに話をしていた。そんな中に竜紅人が混ざる。
「竜紅人、僕の髪の毛洗ってくれる?」
「はぁ!? んなもん、おっさんに頼めおっさんに」
「私が洗いましょうか? 香彩の髪は細いですから、雑な竜紅人が洗ったら絡まってしまうかもしれませんし」
「雑って何だよ。昔は俺が洗ってたんだぞ。つーか自分で洗えよ自分で!」
「確かに竜紅人、ちょっと痛いからお願いしようかな?」
「はぁ!?」
「ええ、喜んで。香油も持ってきているので一緒に使いましょう」
「わーい、ありがとうございます咲蘭様。竜紅人拗ねないでよ。背中流してあげるから」
「いらんわー!」
ああ駄目だ、叶はそう思った。
竜紅人は決して意識して自己防衛しているのではなく、素直にそう言ってるだけだと気付いて、叶は無言で紫雨を見やった。
紫雨も何も言わず叶を見ている。
そして大きく溜息をついたのは紫雨だった。
「──……貸し切りの温泉場をふたつ、頼んでおいた。あのふたりを放り込めば問題ないだろう?」
その言葉に、隣にいた療が詰めていた息を大きく吐き出して、よかったぁぁと胸をなでおろした。
「療は洒落にはならないですからね」
叶の言葉に療はこくりと頷く。
それは療の、力のある者や気に入った者の肉体を喰らいたいという『鬼』としての本能が関係している。
裸体なんか見た日には、その本能がどうなるのか全く計り知れない。
「叶様は、大丈夫なんですか?」
療が不安そうな声で聞いてくる。
叶もまた『鬼』だ。
「……相手の心が追い付いていないのに、無理強いするわけにはいきませんしね」
「……?」
療が首をかしげる。
「子供の前だぞ、叶」
叶の発言に、ぴしゃりと紫雨が言い放つ。
あははと空笑いをする叶に、紫雨が再び大きな溜息をついた。
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