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6 迂闊※

 どうやって寮まで帰ってきたのか、覚えていない。気づけば、狭いシャワー室で震えていた。お湯は温かいのに、寒くて寒くて仕方なかった。俺は無心で体を洗い流した。少しでも物を考えると何もできなくなる。けれど、尻から溢れ出た粘液が太腿を伝うその感触が、この身に起きたことを否が応でも思い出させる。    牧野……あいつは、どうしてあんなことをしたのだろう。俺が憎かったのか。だからって、どうしてこんな……    そこまで考えて、吐き気が込み上げた。咄嗟に口元を押さえ、深呼吸をしてやり過ごす。悪心は収まったが、代わりに涙がぼろぼろ零れた。熱いシャワーで流してみても、後から後から溢れて止め処ない。暗く冷たい海の底へと沈んでいく心地がした。        年末年始は部活は休み、バイトも休みで暇だった。暇潰しに大学のトレーニングジムへ行ってみたが、ここも休みだった。時間があるのは良いことなのか悪いことなのかわからない。殺風景な部屋でつまらないことばかり考えてしまう。古びた蛍光灯が、ヂヂ、と音を立てる。やはり筋トレをしよう。狭い部屋だが腕立て伏せをするくらいのスペースはある。    いい具合に体が温まり気が紛れてきたところで、突然ドアをノックされた。誰かと会う約束はしていないはずだが、と思いつつドアを開けると、金髪のあいつが立っていた。   「まきの……っ!」    反射的にドアを閉めようとするが、牧野の方が素早かった。ドアと壁の隙間に体を挟み込んで、無理やり部屋へ侵入してきた。後ろ手にドアを閉め、鍵を掛ける。情けないことに体が完全に強張ってしまった俺は、一歩後退ることしかできなかった。   「お前……何しに……」    俺が口を開くのと牧野が深く頭を下げるのと、ほとんど同時だった。俺は呆気に取られて立ち尽くす。   「この間は本当にごめん! 許されないことをしたと思う!」    謝るくらいなら始めからするな、という言葉はぐっと呑み込む。   「伊吹ちゃんを傷付けたかったわけじゃないんだ。本当、信じてもらえないかもしれないけど……」    こういう時、どんな顔をすればいいのかわからない。今までの人生で学んでこなかった。   「そこ座れ」 「……は? え?」 「そこに座れと言ったんだ」    そこってどこよ、と言いながら、牧野はベッドに腰掛けた。そこ以外に座れる場所がない。学習机には俺が座るからだ。   「ココアしかないけどいいか」 「えっ……う、うん」    電気ケトルでお湯を沸かしてインスタントのココアを淹れた。マグカップは牧野に渡し、俺は汁物用のお椀で飲む。   「い、伊吹ちゃん、それ……」 「文句あるか」 「いや、だって……」 「コップは一個しか持ってない」 「だからってそんな……」 「うるさい。いいから黙って飲め」 「はい……」    格安の学生寮だ。個室なのは有難いが、如何せん狭い。食器を置くスペースも惜しいから、最低限しか揃えていない。収納スペースがないので、ベッドの下に角材を積んで持ち上げて、床との隙間に収納ケースを置いている始末だ。さらには部屋の中央に突っ張り棒を通して洗濯物を干したりしている。   「……久しぶりに来たけど、狭いね」    そりゃあ、十階のマンションに住んでいる者からしたらそうだろう。   「台所は、ないんだっけ? 小っちゃい水道しかないけど……」 「……ベッドと机以外共用だ。玄関も……」    そこではたと気づく。共用玄関は普通鍵を掛けるはずだが。   「そういえばお前、どうやってここまで入ってきたんだ?」 「どうって、普通に開いてたから」 「ああ……たまにいるんだ、そういう物ぐさが……」    俺は脱力して、お椀のココアを飲み干した。とりあえず、こいつがピッキングなんかやって侵入してきたのでなくてよかった。   「伊吹ちゃん……なんか、普通だね」    マグカップを両手に持ち、牧野はしみじみ呟く。まだ半分ほど中身が残っている。   「ココアなんか淹れてくれて、一個しかないマグカップ譲ってくれるし……」 「……お前が寒そうだったから……」 「普通におしゃべりもしてくれるし……」 「……普通じゃいけないのか」 「何ていうか……もっと怒ってるかと……」    そりゃあ怒っている。怒っていた。それ以上にショックだった。友達だと思っていたやつに、あんなこと――今思い出しても胸が悪くなるような仕打ちをされるなんて。泣いたし怒ったし、裏切られたと思った。数日経って落ち着いただけだ。   「まぁ……寒い中わざわざ謝りに来てくれたからな」 「謝られたら許すのかい」 「いや……でもお前、友達だし……。少し、見直したというか……お前でもきちんと謝れるのかと」    スイーツバイキングのごとく女を摘まみ食いしているお前が、誠心誠意謝罪をするということができるなんて、正直思っていなかった。   「伊吹ちゃんは、そこら辺の女の子とは違うよ」 「そうだ。俺は女と違う。体は丈夫だし、その……色々面倒なことになる心配もない。……それに、あの時はお互い酔っていただろ。お前がやめろと言うのに、聞かないでたくさん飲んでしまったから……」    だから、あれはきっと事故みたいなものだ。酒の席ではああいうことが起こりうるものなのだ。俺がもっと自制心を持って酒を控え、他のやつらが帰る時に一緒に帰っていれば、あんなことにはならなかったはずだ。全ては魔が差しただけだ。   「だから、もう……あの時のことは、もういいんだ。お前ももう、気にしなくていいし……全部水に流して、元通りに――」    マグカップを机に置く硬い音が響いた。次の瞬間、俺はベッドに倒れて天井を見上げていた。両手首に鈍い痛みが走る。明るい金髪が頬を撫でる。   「は……? ま、きの……?」 「何もわかってない。伊吹ちゃん、何にもわかってないよ」 「お、お前が許してくれと言うから、許すと言っただけだ……!」 「違うよ。オレは許してくれなんて言っていない」 「はぁ……? じゃあ一体、何をしに来たんだ……」    凄まじい力で押さえ込まれた手首が痛む。痣になるかもしれない。俺は寝技は弱いのだ。   「と、とにかく手を放せ。お前、おかしいぞ。酒も入っていないのに、血迷ったのか」 「血迷ってなんかいないさ。この前のだって、酒のせいじゃないんだ。伊吹ちゃん、オレは明確に自分の意志で、君をレイプしたんだぜ。嫌がる君を強引に犯したんだ。オレ自身の意志でだ。酒のせいなんかじゃないし、魔が差したわけでもない」    あまりにも生々しく直接的な言い方に背筋が凍る。あの晩の記憶が蘇る。恐怖を振り払いたくて、蹴りを繰り出そうとした。が、俺の動きは自分で思ったよりもずっと(のろ)く、牧野に簡単に捕らえられてしまう。足の上へ馬乗りに跨られるともう身動きが取れない。ただでさえ身が竦んでしまって動けないというのに。   「今日ここへ来たのはね。もちろん謝りたかったのもあるんだが、それよりもこの前の続きをしたかったからなんだ」 「つ、づき……?」 「意識のある君と、見つめ合ってエッチしたいんだ。この前はできなかったからね。いいだろう?」 「……いいわけ、ないだろ。俺はもう、あんなことはしたくない」 「またオレを拒むのかい」 「拒んで当然だ! こんなの犯罪だぞ。大っ嫌いだ、お前なんか……」    ぐぐ、とさらに強い力で手首を握りしめられる。今までのが全力じゃなかったなんて。血流が止まり、指先が痺れていく。   「君に拒否権があると思ってるの? ねぇ」 「い、痛い、牧野……」 「同じ男ならわかるだろう? 伊吹ちゃんだって、先輩にこういうことをしたかったんだろう?」 「は……?」 「先輩を犯したかった? それとも犯されたかった? どっちでもいいけど、今オレがしようとしていることも、それと同じことなんだよ」 「お前なんかと一緒にするな! 俺は――」    そんな不純な動機で叡仁先輩を好きなわけではない。俺が先輩を思うように、先輩も俺だけを思ってくれたら嬉しいなと、ただそれだけのことだ。  しかしそれを口にする前に、頬を打たれた。一切加減のない、強烈な拳骨。口の中が切れた。じわりと鉄の味が広がる。   「他の男の話なんて、やめてくれよ」    元はといえばお前が先に言い出したんだろ、と言いたいところだが、打たれた衝撃でいまだに脳が揺れているような感じがして気持ち悪く、言葉が出なかった。  そうこうしている間に親指を結束バンドで締められ、さらにロープでベッドフレームに繋がれた。部屋着のスウェットを下着ごとずり下ろされ、寒さに全身が総毛立つ。   「オレはね、伊吹ちゃんに忘れてほしくないんだ。オレがしたことを、死ぬまで覚えていてほしいんだ。許すとか、水に流すとか、簡単に言ってほしくないんだよ」 「どうして……そんなに俺が憎いのか……?」    牧野は一呼吸置いて、じっと俺を見つめた。   「……憎いよ」    露わになった性器に舌を這わす。嫌だ。そんなところ、舐められたくない。   「君が憎いよ。君も、オレが憎いだろう? 君がそうしたいなら、大学や警察に言い付ければいい。オレはどんな罰でも受けるから」    前を舐めながら、尻の穴を撫でられる。嫌だ。そこは本当に嫌だ。気色が悪い。ぞっとする。どうしてそんなところを触るのか理解できない。触られたくない。    警察に行きたいなら行けばいいと牧野は言ったが、そんなことは到底できるわけがない。できるわけがないと知ってそう言ったのなら尚悪質だ。  俺は強い男だ。強さに憧れて生きてきた。それなのに、男に体を暴かれて、女のように泣かされて、その上手前で解決できずに他人に助けを乞うなんて、そんな屈辱的なことはとてもじゃないができない。俺にこれ以上恥の上塗りをしろと言うのか、こいつは。    牧野がズボンの前を寛げる。そそり立つアレが、また俺の中を蹂躙するのか。見ていられなくなって、目を逸らした。

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