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第1話

 夜空の星が綺麗だなんて思えるのは、精神的に余裕のある人間だけだ。  重く垂れ込めた群青の空を見上げながら、金子(かねこ)(きよし)は思う。  この路地に立ってもう6年になるが、そもそも星など見たことがない。光化学スモッグだか煩悩雲だか知らないが、そういう毒素の強い汚いものがここら一帯の空を覆いつくしていて、ありがたい星の光なんか到底届かないのに決まっている。  曰くありげな細い路地を、さっきから何人もの男達が通り過ぎていく。品定めする目を一瞬清に向けるが、そのまま何も見なかったかのように視線を戻し過ぎて行ってしまう。 7時から立ち始めてもう4時間、どうやら今夜もまたお茶を引きそうだ。  この1週間、まだ1人も客を取っていない。初冬の風は空っぽの懐に容赦なく吹きつける。今夜もひどく寒い。  清は豹柄パンツのポケットから携帯を取り出す。着信もメールもないことを確認し、わずかな期待を乾いた胸から虚しく追い払う。  ミラー機能に切り替えた画面に自分の顔を映す。  くすんで張りのない疲れた肌。青白い左頬に縦に残る目立つ傷跡。なまじはっきりと整いすぎた目鼻立ちが、血色の悪い顔に浮き上がってひどく冷たく見える。上がり気味の大きな目はやけにきつい印象で、愛想なくこちらを睨み付けている。  少しでも目立つようにと羽織っている銀糸を散らしたピンクのフェイクファーのコートも、まともな人の目には下品に映るのだろうか。ほとんど金髪に近い茶髪は美容院に行く金をけちっているので切り目がガタガタだが、その長めの前髪が痛々しい頬の傷を隠すのにかろうじて役立っている。  手で奉仕するときいちいちはずすのが面倒なので指輪はつけていないが、両耳に3つずつ開けた穴にはピアスが光り、首には何重ものゴールドのチェーンが巻き付いている。  まるっきりコテコテの安売りボーイの見本。これじゃ避けたくもなるって、と我ながらうんざりしながら清は画面を消した。  そんな清でも、25歳までは面白いほど客がついた。上町横丁に舞い降りた天使とか言われて、清を買いたいという男達で狭い路地に列ができたこともあった。その界隈の路上で体を売っている子の誰よりも清は綺麗だったし、客あしらいもうまかった。  遥か昔の幻影を懐かしむように一瞬目を閉じ、再び開けると、錆び付いた現実がそこにあった。  12月初旬の冬の寒風に震えながら、見かけはゴージャスだがちっとも温かくない偽毛皮のコートの襟をわざと開いて両手に息を吹きかけている清は、枯れかけた花同然にみじめだった。  人通りも減りそろそろ上がろうかと諦めかけた頃、一人の男が清の前に足を止めた。頭髪の少し寂しくなった50がらみの小太りの中年男だが、スーツは上物に見えた。売れっ子だった頃は当然門前払いしていたタイプの脂ぎったオヤジだが、今は客を選んではいられない。 「ダンナさん、安くしとくけどどう?」  全開の営業スマイルで話しかける。この路地を訪れる男は全員その気があり、目的は獲物の物色なので、前置きはいらない。  男は結構飲んでいるのか、赤くなった顔に下卑たニヤニヤ笑いを浮かべる。 「もう帰らねぇと、終電なくなっちまうんだよな」  言うわりには立ち去ろうとしない。 「時間ないの? 10分あればイかせてあげるよ」  そこで、とすぐ横の袋小路になった脇道を親指で示す。 「や、ダメダメ。女房に怒られっから」  男は不躾な視線で清の顔から体までジロジロと品定めした挙句、見切りをつけたのか立ち去りかける。清はあわててその腕を両手で掴んだ。 「2万円でナマでしてあげる。口の中に出していいからさ」  久しぶりの客だ。どうしても逃したくない。  追いすがられれば男も悪い気はしないようで、いやらしい笑いをさらに深くすると脂っぽい手で清の肩を抱き寄せた。 「おまえそんなに俺のをしゃぶりたいのか? やらしいヤツだなぁ。ん?」 「うん、欲しい。ちょーだい」  ねだるような上目遣いで見上げるとエロ親父はすっかりご機嫌になり、自分から脇道のデッドエンドへ入っていく。 「ほれ、早くしろ」  頭を押さえ付けられ、しゃがませられた。そういうことを屈辱的だと感じる正常な神経なんてとっくの大昔に手放していたし、時間制限があることを差し置いても手早く済ましてしまいたかった。  清はジッパーを下ろすとまだ元気のない男のものを取り出した。蒸れた体臭に息を止め、控えめに先端を舐めながら萎えた幹を擦ってやる。  テクニックに自信はあったが、酔っているせいか男のくたびれた短小のそれはなかなか覚醒してくれない。あっという間に時間が経っていく気がして清はあわて始める。 「何やってんだ、もっとしっかり咥えろ」  頭がグイッと腰の方に引き寄せられ、先端が喉に当たりむせそうになる。喉がえづく不快感に涙がこみ上げたが、金のことを思って我慢した。  清は地べたにひざまづき、片手を萎えた男のものに添え上下させながら、舌を使って先端を熱心に愛撫する。やっとそれが硬度を持ち始めたときには、舌も唇も疲れ切って感覚がほとんどなくなっていた。  男が喉の奥で呻きを上げ全身を震わせると、清の口一杯に生臭いものが吐き出された。思った以上の量に思わず咳き込みそうになるが、客の前で吐き出すわけにもいかず無理矢理飲み下す。 「けっ、モタモタしやがって」  頭上で声が聞こえた。男は用が済んだものをしまいこみジッパーを上げると、支払いを待っている清を無視してそのまま袋小路を後にしようとした。 「おい金!」  腕を掴んだ手は振り払われた。 「あんなに時間かけやがって、払えるか」  さすがに後ろめたいのか、男は清の顔を見ないようにしてそそくさと大通りに出ていく。 「ふざけんなよ!」  飛び出して行き、胴体にタックルをかけた。 「金払え! 2万円!」  右頬に衝撃をくらって体が後方に吹き飛んだ。体重が倍もありそうな男に力任せに張り飛ばされては、軽量の清はひとたまりもなかった。頬が痛みでジンジンし目の前に火花が散って、滲んだ涙に視界が霞んだ。  しかし痛みよりも怒りが勝った。カッと頭に血が昇り潤む目をこすりながら、大通りを足早に去って行く男に食らいついていく。 「出し逃げしやがって、このエロオヤジ! 2万円払え!」 「な、何だこいつ……っ」  がむしゃらに背中に飛び付く清を男は焦って振り払おうとしたが、何事かと周囲に集まって来た野次馬の前では、さっきのように乱暴に張り倒すこともできないようだ。 「は、放せっ、チクショー……ほら!」  懐から出した札入れから掴み出された紙幣を、顔に叩き付けられる。路上にハラハラと千円札が散らばる。清は男を解放すると地べたに這いつくばり、風に飛ばされていきそうになる紙幣をあわてて拾い集める。 「ったく、とんでもねぇ淫売だ!」  吐き捨てバツ悪そうに駆け去って行く男の後ろ姿はもう見ない。  最低のケチオヤジは千円札しか落としていかなかった。全部で7枚。それでも取り損なうよりはましだ。  拾った札をしっかりとポケットにしまって、まだ周囲を遠巻きにしている野次馬に「何見てんだよ」と凄みを効かし、散らしてから立ち上がる。  殴られ熱を持った頬にそっと手を当て、痛みを堪えながら何気なく空を見上げた。やっぱり、星なんかどこにも見えなかった。

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