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第2話

夜に目覚める裏町を抜け20分ほど歩くと、アンダーグラウンドの世界と隔絶された普通の庶民が普通に暮らす住宅街に行き当たる。寝静まった町は森閑と闇に包まれ、まともな世界の住人の眠りを妨げる清を拒絶しているかに見える。  風が強くなった。吹き付ける冷風がかすめ、打たれた頬が微かな痛みに疼く。  数十メートル先に、ポツンと一つだけ点っている明りが見えた。灯台の光に導かれる迷った舟のように、清はそれを目指して歩く。そこは自分のうちではなかったけれど、今の清にはそこしか帰る所がないのだ。  今にも朽ち果てそうな錆び付いた階段が、女の悲鳴みたいな嫌な軋みを上げる。夜中だというのに遠慮なく音を立て、清は明りのついている2階の部屋へと向かう。どうせこの築40年のボロアパートに残っているのは、アル中で耳の遠いじいさんが一人だけだ。  化粧版の剥げかけた、ついているだけマシといった有様の扉には鍵がかかっていない。建付けの悪いそれを蹴飛ばして開けると、待ちかねたような明るい声に迎えられる。 「ねこちゃん、おかえり!」  入ってすぐ脇のガス台の前に立った、パジャマ姿の長身の男が邪気のない笑顔を向けてきた。男がかきまぜている鍋からは、食欲をそそるいい香りが漂ってくる。 「おなかすいただろ。シチュー食べる? そろそろ帰って来るかなと思ってあたためてたんだ」 「いらねーよ。こんな時間に食ったら太るもん」  清は靴を脱ぎ散らかし、男を無視して部屋に上がり込む。 「それじゃ明日のお昼に食べてね」  男は『痩せ過ぎなんだからもっと食え』とか、そういう口うるさいことを言わない。清が食べようが食べまいが、ほしくなったときいつでも食べられるよう、さりげなく用意しておくだけだ。  清は持っていた24時間営業のスーパーの袋を、そっとテーブルに置く。置きながら、別に久々に金が入ったからお土産とかそういうんじゃない、食いたかったから買ってきただけだ、と心の中で言い訳をする。  そのままその袋は見ないようにして、コートを脱ぎ部屋の隅に放り投げると、すっかり茶ばんだ畳の上に横向きで寝転がった。疲れていた。  腕の中に顔を伏せたふりで、余ったシチューを鍋からタッパに移している男を盗み見る。  長身でがっしりした体の上に、爽やかな和風の顔が乗っている。いつも微笑を湛えているような穏やかな一重の目元。すっと細く通った鼻筋とにこやかな薄い唇。  キリッと表情を引き締めれば禁欲的な修行僧みたいに見えそうなのに、その顔はいつも笑っている。実際清は、この男の笑い顔以外の顔をほとんど見たことがない。  男は名を月峰(つきみね)(とおる)という。どうして小柄で中性的な自分が『金子清』で、図体のでかい唐変木のこの男が『月峰透』なのだろう。納得がいかない。名前を交換しろと思ってしまう。  ついでに言えば、『清く正しい子に』という願いをこめてつけられた自分の名前が、清は大嫌いだ。 「ねこちゃん、お風呂入る?」  シチューを入れたタッパーを冷蔵庫にしまった男は、いつものニコニコ顔で清に聞いてきた。  名前で呼ぶと嫌がるし、気まぐれで暴れん坊なところが子猫みたいだからと、男は清のことを苗字の一部を取ってそんなふうに呼ぶ。最初は気色悪かったがもうすっかり慣れた。というか、諦めた。 「やだ。かったりぃ」  脚を投げ出したダレた格好のまま答えた清に、男はいつものように苦笑した。 「じゃあ布団敷こうね。ちょっと脚、そっちにどけてくれる?」 「やだ」  その返事も男は笑って流し、投げ出された両脚を大事そうに両手で持ってよいしょとそっと脇にどけた。今のすれっからしの清をこんなお姫様みたいに馬鹿丁寧に扱ってくれるのは、世界中でこの馬鹿だけだ。  月峰がテーブルを部屋の隅に寄せようとして、上に乗っているスーパーの袋をみつけた。中を覗き込み嬉しそうな声を上げる。 「あ、苺だ! おいしそうだなぁ。ねこちゃん買ってきてくれたの?」  返事をせず、『俺は眠いんだ』という意思表示に片腕で顔を隠した。それでも男の本当に嬉しそうな顔だけはしっかり視界の隅に納めて、どうしてか、なんとなく満足する。 「明日帰ってきたら一緒に食べようね。コンデンスミルク買っとこう。ねこちゃん、ありがとう」  うるせぇよ、と心の中で返して、ますます深く腕に顔を埋めた。背中で男が押入れを開け、布団を敷き始める気配がする。  ――こいつはどうして、俺と暮らしてるんだろう。  それは常に、清の最大の疑問だった。  2人の関係を一言で言い表すのは難しい。友人でも家族でも恋人でもない。有り体に言えば月峰は清の、元・愛人の身内、ということになる。  半年前、身も心も捧げ尽した男に、与えられていた高級マンションを追い出された清は、男の腹違いの弟である月峰のボロアパートに放り込まれた。言わば『下げ渡された』形だ。  すべて男の言うままに命令を聞いてきた清には拒否権はなかったが、月峰の方にはあったはずだ。いくら本家の兄貴の命令だとは言っても、妾腹である月峰がそんな無茶振りまで聞かなければならない理由はない。いきなり人一人、それもボロ布みたいになった使い古しのストリートボーイを引き取れと言われたら、普通は拒否するだろう。  ところが月峰はそうしなかった。  男に放り出された当時はそれこそ廃人みたいになって殻に閉じこもるか、気分次第でわめき散らし暴れるかどちらかだった清の面倒を、月峰は常に平常心を崩さないニコニコ顔で見続けた。古いが小綺麗だったアパートの部屋は、清が一暴れするたびにふすまに穴が開いたり、畳に味噌汁の染みができたりと大変なことになったが、月峰はまったく気にしないようだった。  どこからどう考えても、月峰にとって清と同居するメリットはなかった。究極のボランティア精神でないなら何かとてつもない裏があるのではと、最初は清も訝った。  ところが、裏を探るまでもなかった。その理由は非常に単純だった。  月峰は明らかに、清に好意を持っているのだ。面と向かって好きだと言われたことはなかったが、時折注がれる切ない眼差しでわかってしまう。  そして彼が清をここに置いている理由は、おそらくそれだけで十分なのだった。  清潔なシーツに皺一つないように2組の布団を整える男を盗み見ながら、こいつは馬鹿だと思う。お人よしを通り越して、本物の馬鹿だ。こんな馬鹿なヤツ、見たことない。 「はい、準備完了。そこで寝ると冷えちゃうから、ちゃんと布団に入ってね」  月峰はどんなことにせよ、清に強制はしない。うるさく言うと清がキレて暴れ出すからではなく、どうやらそれが彼のポリシーであるのか自由気ままにさせている。本当に猫と飼い主の関係のようだ。  蛍光灯を消す前に、月峰が清の方に手を伸ばしてきた。清は両腕の中に顔を埋めて『触るなよ』という拒絶の姿勢を取るが、大きな手が下りてきてフワフワと髪を撫でていく。 「おやすみ」  綿菓子みたいに優しい声とともに、明りが消される気配がする。  月峰はなぜだかいつも、清に特別嫌なことがあった夜にだけ、そうやって髪を撫でてから布団に入る。半年も一緒に暮らしているからといって気配でわかるというものでもないだろう。この一見鈍感そうな男には、他人の心を汲み取るセンサーみたいなものが内蔵されているのだろうか。  とりあえず、エロオヤジに打たれた頬が赤くなっていることに気付かれなくてよかったと、清は安堵する。厄介な客に殴られることなんかざらだったが、それに気付くなり月峰の笑顔はかき曇り、すぐ冷やさなきゃ、だのなんだのと大騒ぎになるからうざいのだ。  そう、気付かれたくないのは構われるのがうっとおしいからで、心配をかけたくないからでは当然ない。断じてない。  消灯し暗くなると、なんだか急に室温が下がってきた気がした。  清はかったるそうに上体を起こし音をさせないように立ち上がると、台所の隅に置かれたクリアケースを開ける。そこには洋服など、数少ない清の私物が詰め込んである。  一番上に乗っかっていたクッキーの缶を開け、今日の稼ぎから苺代を引いた6500円を入れた。この半年で少しずつだがタンス貯金して来た金は、数えたことはないがもう結構な額になっているはずだ。  目標の額に達したときのことを想像し、清は少しだけ頬を緩めた。今の清はその日を思い浮べるのだけが楽しみで、それがあるから嫌な仕事もなんとか続けていられるのだ。  クリアケースを閉じ、居間兼寝室を振り向いた。きっちりと50センチの間を空けて、2組の布団が敷かれている。もう寝入ってしまったのか、こちらに背を向けた月峰は動かない。  清はにじり寄っていくとアクセサリーの類をはずし、シャツと豹柄パンツを脱いで放り出し下着一枚になる。自分のために敷かれた布団を無視し、足元の方から月峰の布団に潜り込んでいく。気配に気付き目覚めたのか、月峰は清のために少し場所を空けてくれる。  こうして清が猫みたいに布団に入り込んでくるのはしょっちゅうなので、月峰も動じない。ただこのときばかりは彼の笑顔も、とても困ったような曖昧なものに変わる。  清がその両腕に納まるように胸の方からピョコンと顔を出すと、月峰は困惑した微笑でやれやれと頭を振った。 「寒いんだよ」  小声で言い訳を口にする。いや、寒いのは本当だ。ただ、寒いのは体ではない。 「よしよし」  あやすように言って、月峰は壊れ物に触れるみたいにそっと両腕を清の背に回してくる。体は少し温まる。でも、心はまだ寒い。  生ぬるい触れ方に業を煮やして、自分からギュッと抱き付き体を密着させた。 「ね、ねこちゃん……」  男が困り切った声を出す。その股間のものは実に素直に反応を示し始めている。今の清に抱き付かれてこんなに硬くしてくれるのは、世界中でこの馬鹿だけかもしれない。面白がってわざと腰を押し付けるようにしてやると、背に回された男の手にわずかに力がこもり、額にかすめるように唇が押し当てられる。  こんなに勃起していても、どんなにけしかけてやっても、月峰はいつだってこれ以上は進もうとしない。清としては宿代代わりに一度くらい抱かれてやってもいいと思っているのに、愚直なくらい律儀に手を出してこない。  そして清もどういうわけか、そのまま勢いでしてしまいたいと思わないのだ。何度も額に触れてくる遠慮がちな男の唇を感じながら、心地よく目を閉じるだけだ。 「バーカ……」  男に向かってつぶやいて、その心音を聞きながら眠りにつく。そうしていると今日あった嫌なことが少しずつ過去のことになり、次第に遠くなってくれるのだ。

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