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第3話

★  清の仕事は毎日が夜勤なので、起床時間は早くても9時過ぎだ。バスで20分の場所にある工場で旋盤工をしている月峰は、8時には出かけてしまうので、起きるときにはすでにいない。テーブルに用意された朝食兼昼食を食べ、『出勤』まではダラダラとテレビを観たりスマホの無料ゲームをして過ごすのが清の日常だった。  その朝珍しく外出する気になったのは、たまたまその日が昔、男にマンションの部屋を与えてもらった記念日に当たっていたからだった。2人で甘い日々を過ごした思い出の部屋に、もう一度戻ってみたくなったのだ。 『マンション引越記念日』なんて、そんなつまらないことを覚えているほど、清は自分を見放した男のことをまだ忘れられなかった。どうしようもなく未練があった。  五代(ごだい)友貴(ともたか)と知り合ったのは2年前、清は25歳で路上の売り専ボーイとしては少々とうが立ち始めていたが、まだまだ人気絶好調の頃だった。たまたまお相手を物色しにきた五代の目に止まった清は専属に、つまり愛人になれと強引に迫られたのだ。  都会的で洗練された雰囲気を持つ、南欧風の彫りの深い顔立ちの美男である五代に、清は一目で夢中になった。高校中退ドロップアウト組の清にとって、有名私大卒業後起業し成功した青年実業家の五代の存在はあまりにも眩しすぎた。  厳格な田舎の旧家である清の実家は、厳しく頑固な父親が絶対的な権限を握っていた。学校の成績はどんなにがんばっても中の下で、はては高校のときつき合っていた男の先輩と神社でキスしているところを見られ村中の噂になってしまった清は、金子家の恥晒しと勘当を言い渡された。烈火のごとく怒り狂って自分を叩き出した父親の影を常に背負ってきた清は、そのイメージを傲岸不遜なところが似通った五代に無意識のうちに重ねていたのかもしれない。  売春から足を洗いマンションに囲われた清を、五代は思い切り甘やかし可愛がってくれた。五代に優しくされると、自分もセレブの仲間入りしたかのような誇らしさを覚えた。もう他のヤツとはつき合わない、一生おまえだけでいいと甘い言葉を囁きながら、五代は毎晩腰が立たなくなるほど清を抱いてくれた。その道のプロである清も翻弄されるほど、セックスのテクも絶妙だった。  とろけそうな蜜月の中で、清は五代との関係に盲目的に溺れ、事業の資金繰りが厳しいとか新しい時計が欲しいとか言われるたびに、そこそこあった貯金から数十万単位の金を融通するのをためらわなかった。口座の残高は見る見る減っていったが、恋人である五代がそれを望むのなら応えるのは当然と思っていた。  そのままハイペースで貢ぎ続け、つき合って1年で預金残高が百万を切った頃から、仕事が多忙であることを理由に五代の足が遠のき始めた。泊まりにくるのは3日に1回になり、やがて週1回になっていった。  ちょうどその頃紹介されたのが、腹違いの弟だという月峰透だ。外食の約束をしたレストランへめかし込んで赴くと、五代の代理で月峰がいるということが多くなった。  町工場で旋盤工見習いをしているという月峰は、五代と本当に血が繋がっているのかと疑われるほど顔も性格も似たところがなかった。しかも天然で空気が読めないのか、三つ星レストランに仕事帰りの作業着姿で現れて清を唖然とさせたりした。ダサくて地味で気のきかない月峰は清の好みではなかったし、清に嫌がられまいと一生懸命に気遣う様子も返ってうざかった。  会える日が減っても、清は五代の気持を疑ったことはなかった。会社が忙しいと言われればそれを信じ、わがままの一つも言わないでひたすら待った。久しぶりに帰って来てくれた五代が香水の匂いとキスマークのおまけ付きでも、浮気は男の甲斐性と割り切って笑顔で出迎えた。自分同様、五代の愛も当然変わらないはずだと心から信じていた。  預金残高が十万を切ったとき、清はやむなく再び路上に立った。ひと頃よりは容色も衰えブランクもあったが、それでも昔の馴染みで買ってくれる客はいた。  稼いだ金はすべて請われるままに、五代の会社の資金へと消えて行った。それでも嬉しかった。自分は五代の力になれているのだと、誇りを持って夜の仕事に臨むことができた。  毎晩限界以上の客を取り心身ともに疲れ果て、五代の来訪が月に一度もなくなっても、愛してるよ、もう少し我慢してくれ、と電話で囁かれればすべてを許せた。ふとした瞬間に胸に不安が兆すときがあっても、甘い言葉一つで呆気なく消えてくれた。  だから半年前、マンションに五代の会社の社員だという柄の悪い男達が押しかけてきて、部屋を社の事務所にするから出ていけと追い立てられたときには驚いた。五代に買ってもらったブランドの服もバッグも持っていくことは許されなかった。  そして、無理矢理乗せられた車で送り届けられたのが、月峰のボロアパートだ。  どういうことか事情を聞きたくて、五代を会社に訪ねていった。不満だったのではなく、何か理由があるのならそれを説明してほしかっただけだった。いきなりの清の訪問に、五代は怒り狂った。つべこべ言わず言うことを聞いてろと怒鳴られ、初めて殴られた。そのとき五代のしていた金の指輪が商売ものの顔に消えない傷を付けたが、彼の想いを疑った自分が悪いのだからそのくらい当然だと諦めた。  もしかしたら五代は、清がまた売春を再開したことを知ってしまったのかもしれない。急に冷たくなった理由はそれしか考えられない。それなら怒りはまだ清を大切に想ってくれていることの裏返しだろうし、ちゃんと説明して謝れば関係は修復できるはずだった。五代だって、あの甘い蜜月をそう簡単に忘れられるわけがないに違いない。  電車を乗り継いで、マンションのある閑静な高級住宅街に入る。仕事用の派手な服しか持っていない清は、上品な豪邸の並ぶその界隈で凄まじいほど浮き上がっていた。『ざあます』とか言いそうなお上品なマダム達が、ピンクのフェイクファーと脚にピッタリ張り付いたレザーパンツの出で立ちを目を白黒させながら露骨に振り返るが、清は気にならない。  目指すマンションは緑に囲まれた景色のいい高台にあった。オートロックシステムのエントランスは、タイミングよく帰ってきたそのマンションの住人の後ろにさりげなく隠れ、連れみたいな顔をしてもぐり込むことでクリアできた。  住人が眉を寄せそそくさと清から離れていってから、エレベーターで部屋のある5階を目指す。部屋の中に入ってまた五代に迷惑をかけるわけにはいかないので、ドアの外からそっと窺うだけでいいと思った。  二人で甘い時を過ごした505号室は、エレベーターホールを抜けて一番突き当たりの部屋だ。落ち着いたワイン色の絨毯が敷き詰められた廊下は森閑として、靴音さえ飲み込んでいく。  ドアが正面に見えるところまで来て足を止めた。もう自分のテリトリーではない場所を、食い入るようにじっと見つめる。  どうせこれ以上入れないのだからもう満足して帰らなくてはと、頭ではそう思うのだが、足が動いてくれない。  朝出ていく五代を、あのドアのところで『いってらっしゃい』と見送った。仕事を終えて帰ってきたのを『お帰りなさい』と迎え入れた。挨拶の前と後には、いつでもとろけるようなキスが待っていた。そんな過去の思い出がホログラムみたいに目の前に浮かび、胸を疼かせる。  進むことも戻ることもできずただボーッと突っ立っていると、視線の先の扉がいきなり開いた。あまりにも突然だったので隠れる間もなく、部屋から出てきた若い男とまともに目が合ってしまった。  清が驚きに目を見開いたのは、その男が可憐な顔立ちのかなりの美形だったからではない。彼が身に付けている服とバッグが、以前清が買い与えられたものとすっかり同じだったからだ。正確にはその部屋から持ち出すことを許されなかった自分の所有だったはずのブランド品を、見知らぬ他人が持っているのだ。 「何?」  派手なイタリアブランドが妙に似合わないまだ十代にも見える男は、清をジロジロ眺めて露骨に眉をひそめそう聞いてきた。 「その部屋って会社の事務所じゃねーの?」 「はぁ?」  清の唐突な質問に男は眉根を寄せたが、何かに思い当たったのかパンと手を打ち、 「あー、わかった! あんた前、五代さんの世話になってたヤツでしょ。なんかストーカーみたいにしょっちゅう電話きてかなわないって、彼言ってたよ」 『世話になってた』わけじゃなくてれっきとした恋人だと言い返そうとしたが、五代が自分のことをストーカー呼ばわりしていると聞いたショックで強気の言葉が出ない。 「うわぁ、こんなとこまで来るなんてキモーい! やっぱストーカーだったんじゃん!」 「おまえ……あの人の何だよ」 「恋人だけど? 彼と一緒にそこに住んでるの」  男は自慢げに言い放ち一歩進み出て、呆然としている清の顔を楽しそうに覗き込む。 「なーんだ。どんなヤツかと思ってたらケバい年寄りじゃん。もういい加減諦めなよね。あんまりしつこいのって見苦しいよ」  清はどちらかというと、考える前に体が動く方だ。とっさに手が出て、突き飛ばされた生意気な小僧はドスンという音とともにその場に尻をついた。いきなりのことに、突かれた当人も座り込んだままポカンとしている。 「な、何すんだよ!」 「俺のお古着ていい気になってんじゃねーよ、バーカ」 「なんだってぇ?」  小僧は腰をさすりながら立ち上がり、まともに清にガンを飛ばしてくる。その荒くれ者具合を見ると、どうしてどうして相手も清といい勝負でお上品とは言い難いようだ。 「五代さんがおまえみたいな小便臭い小僧のこと本気で考えてるわけねーだろ? 遊ばれてんだよ!」 「はぁ? 捨てられた分際で何寝ぼけたこと言ってんの? そっちこそ頭冷やせば? 彼にとってはあんたなんか、とっくの大昔にゴミ箱行きにした嫌~な思い出なんだよ!」 「てめー!」  頭に血が上って、もともとほとんど持ち合わせていない理性が吹き飛んだ。相手を押し倒してむやみやたらに引っかいたり引っぱたいたり攻撃を加える。相手も髪を掴んだり小さな拳でポコポコあちこち叩いたり応戦してくる。男同士の殴り合いというより可愛らしい野良猫同士のじゃれ合いみたいなケンカだったが、清は腹の底から頭にきていて、そしてそれ以上に悲しかった。  ――そんなはずない。そんなの嘘だ。  相手に掴みかかりながら、心の中でそう繰り返していた。会社の事務所になっていると思っていた2人の愛の巣に新しい男が囲われていたことも、そいつが自分が買ってもらった服を我が物顔で着ていたことも、全部悪い夢だと思いたかった。  どうして未練がましく、セピア色の思い出なんか追いにきてしまったのだろう。こんな現実を見せつけられるくらいなら、来るのではなかった。 「五代さんは俺だけだって言ったんだ! もう他の誰も好きにならないって、はっきり言ってくれたんだ!」  無意識に口走りながら、清はマンションの住人に知らせを受けて駆け付けた警官に押さえ付けられるまで、がむしゃらに暴れ続けた。

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