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第4話

「ほら、迎えが来たぞ」  警官の声に顔を上げると、仕事帰りに取るものも取りあえず駆け付けたといった様子の月峰が、息を弾ませ立っていた。いつもの笑顔はなく、心配そうな顔が清を見ている。  まったくどこのおせっかいがこいつなんか呼んだんだろうと、清は内心舌打ちする。月峰のそんな顔を見るのは本当に嫌だ。ほんわかと笑っていない月峰なんか、月峰じゃない。 「おたくさんがこの人の同居人ってことでいいですか?」  ここから動かない、家になんか帰らないと、連れていかれた交番で駄々をこねまくった清に、いい加減うんざりしていたのだろう。年配の警官の声はあからさまにホッとしていた。 「はい。どうもお手数おかけしました。彼は私が連れて帰ります」 「事情は電話でお話したとおりなんですけどね。先方さんはまぁ、今回はお互いってことで水に流すとしても、次にマンションに現れたらストーカーの被害届を出す言うとられるんですわ」 「もうご迷惑はおかけしませんので。本当にすみませんでした」  月峰は大きな体を折って深々と頭を下げる。  胸がチクリと痛んだ。なぜこいつが自分のために謝っているのだろう。家族でも恋人でも友人でもない、赤の他人ではないか。  中学3年のとき、受験のストレスから万引きをした。警察は親に連絡を取ったが両親とも迎えに来てはくれなかった。翌日学校の担任が嫌々来てくれるまで、清はこともあろうに留置所に留め置かれたのだ。  どうして万引きしたのか、帰宅しても父親はその理由を聞いてもくれず、さんざん折檻された挙句物置に放り込まれた。3日3晩水しか与えられず傷だらけで転がった清を、母は眉をひそめ見て見ぬふりをしていた。 「ねこちゃん、帰ろう?」  周りに誰がいてもその特異な呼び方を変えない男は、清の顔を覗き込み優しく微笑んで肩に手を置いた。プイと横を向く。その優しい笑顔の裏で、さすがに月峰も怒っているのではないかと急に怖くなったのだ。 「さぁ、帰ろう」  嫌だと言う前に、両の二の腕を掴まれて強引に立たされてしまう。 「お世話かけました」  頭を押さえつけられ、無理矢理下げさせられる。嫌がって必死で暴れるが、がっしりとした両手で押さえられているので抵抗できない。清はそのまま肩を抱かれるようにして、交番の外に押し出された。  外はすっかり暗くなっている。吹きつける北風に思わず自分の体を抱いた清の肩に、月峰がフェイクファーのコートをかけてくれた。 「ねこちゃん、傷大丈夫?」  暴れ子猫にあっちこっち引っかかれたが、掠り傷程度のものだ。それでも心配そうに伸ばされる手を、清は払いのける。 「おまえなんで、俺ここにいんのわかったんだよ」 「兄さんから電話があって、ねこちゃんがここの交番にいるからすぐ迎えに行けって」  五代に知られた。あの生意気小僧が五代に密告ったのだ。  マンションに戻るなんて勝手なことをして、きっとまたひどく怒られる――そう思うと心臓が不穏にドキドキしてきた。  手が無意識に左頬の傷痕に触れる。これ以上五代に嫌われたら、今度こそ本当に許してもらえないかもしれない。 「あ、兄さんは別に怒ってたわけじゃないよ。俺に連絡してくれたのだって、ねこちゃんを心配してのことだと思うしさ」  月峰はいつも的確に清の心を汲み、欲しい言葉を与えてくれる。でも今の清には、その思いやりのあるフォローも素直に胸に届いてこない。  本当に心配してくれているのなら、なぜ五代本人が迎えにきて、あの生意気猫のことをその口で釈明してくれないのだろう。 「ねこちゃん、もしかして、マンションから何か持って帰りたかったものがあるの? もしそうなら俺が……」 「うるせーよっ」  月峰の言葉を遮って歩き出す。  物を取りに行ったわけではない。ただ、懐かしさに浸りたかっただけだ。清にとって何物にも替え難い、一番輝いていた頃を思い出したくて。  なんだかすごく寒かった。安物のコートの襟を掻き合わせても、風は中まで吹き込んでくる。体も冷え切っていたが、心はもっと冷たくなっていた。  ずっと信じようとしてきたものに呆気なくひびが入り、目の前で崩れていきそうな恐怖。不安で不安で、それでも手を伸ばし、その頼りない命綱にわずか指一本でしがみついている。  五代はまだ自分を愛してくれており、もう一度楽しかった日々を取り戻せるのだという、もろく儚い命綱だ。  もしもそれを信じられなくなったら、すべてが終わってしまう。足元に開いている真っ暗な穴にまっさかさまに落ち込んでいきそうな錯覚に囚われて、清は軽い目眩を感じた。  後ろから腕を支えられた。振り向くと温かい瞳の男が微笑んでいた。  さんざん邪険に扱ってきた上に今日またとんでもない迷惑をかけた男の目に、怒りはまったく見えない。どうしてこの男は、怒らずにいられるのだろう。 「うちに帰ろうね」  ほんのりとした優しい声で、月峰が言った。 「コンデンスミルク、ちゃんと買ってあるんだよ。昨日の苺一緒に食べようよ」 「あんなのっ、絶対酸っぱいヤツだ……」  胸をやんわりと撫でられたような妙にこそばゆい感覚をごまかそうと、清は目を逸らし拗ねたようにつぶやいた。月峰は声を立てて笑う。 「じゃあ、ミルクたっぷりかけていいからさ」 「やだよ。太るもん」 「今日だけは特別。ねこちゃん、がんばって戦ったんだもんね」  月峰の大きな手に背を撫でられていると不思議と寒さが薄れてくる。  足元を見た。暗黒の穴は、もう見えない。  ボロアパートに帰ったら、酸っぱい苺に極甘の練乳をたっぷりかけてやけ食いしよう。そして月峰の布団にもぐり込んで、広い胸にギュッとしがみついて寝てしまおう。  そうすれば、今夜は嫌な夢はきっと見ないから。

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