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第5話

★  12月の半ばだ。夕方の6時ともなるともうすっかり日が落ちて深夜さながらに真っ暗だが、清にとってはまだまだ宵の口だ。そして企業の事務所や持ちビルが建ち並ぶこのオフィス街は、終業し帰宅する人間が一斉に駅へと向かうピーク時間だった。  きちんとした身なりの真っ当なビジネスマンやOL達が、ガードレールにだらしなく腰掛けた清をこぞって振り返っていく。露骨にジロジロ見ていく者、チラ見して胡乱げに眉を寄せる者、見ないふりをして通り過ぎてからわざわざ振り返る者とその反応は様々だが、どこからどう見てもまともな会社員には見えない清の存在を、誰もが無視できないようだ。  ダメージ加工のジーンズに銀ラメの入ったTシャツ、その上に例のショッキングピンクのフェイクファーコートといったコーディネートは、この界隈の勤め人ではまずいない。しかも綺麗な顔の中やけに目立つ傷痕やそれを縁取る金髪、首からジャラジャラ下げたゴールドのチョーカー、両耳に3つずつつけたピアスは、見ないで通り過ぎろというのが無理なほど周囲から浮き上がっている。  あまり好意的とは言えない視線の矢を全く意に介さず受け流しながら、清はただ一点をみつめている。道路を挟んだ向かい側に建つ5階建ての真新しいビルだ。その4階のフロアすべてを占める化粧品の通販会社『リリア化粧品』が、五代が社長を務める会社だった。  清は五代の会社が実際どういう商売をしているのか、まったく知らない。わかっているのは輸入ものの化粧品販売をしていて、そこそこ成功しているらしいことくらいだ。  五代のように才覚があり人間的に優れた人物なら、化粧品だろうが洗濯バサミだろうが売るものには関係なくヒットさせてしまうに違いない。商品だって自信を持って薦められる、品質のいいものを取り扱っているはずだ。  そう信じていたので、ウリをやっていたときに友達になった風俗嬢を、お客として何人か紹介した。その全員が、基礎化粧品だけで50万もぼったくられたと眦を吊り上げ文句を言ってきたが、それは品物が上質でそれだけの価値があるからであって、それがわからない買った女の方に問題があったのだと今でも信じている。  五代は水曜は残業をしない。6時半には必ずそのビルの入口から出てくる。それを知っているから清は毎週水曜日のその時間、そこにじっと座って彼が出てくるのを待つ。  マンションを追い出された当時は、そこで毎日五代の帰りを待ち構えて、捕まえて話を聞いてもらおうとすがりついたが、そのたび徹底的に無視されすげなく追い返された。路上で話しかけると五代に迷惑がかかると思い、それからは遠くから見つめるだけにした。  でも今日はどうしても、会って話をしたかった。マンションにいた小僧のことを、嘘でもいいから言い訳してもらいたかったのだ。浮気の1回や2回、どうということはない。うまく嘘をついてくれれば清はそれを信じるし、またか細い命綱にすがっていける。  ビルのガラス扉がいきなり開いた。出てきたのは膝丈の毛皮のコートを着た派手な感じの女だ。歳は清と同じくらいだが、着ている毛皮はフェイクではない。これ見よがしの本物のシルバーフォックスだ。  ヴィトンの新作を肩から下げた女が後ろを振り向き、真っ赤な唇をほころばせながら何か言う。女のためにドアを開けてやっていた男の全身が見えた瞬間、清は何時間も座りっぱなしで体とくっついたようになってしまっているガードレールから飛び下りた。  黒いレザーのコートに身を包んだ五代は、今日も思わず見惚れてしまうほどの美丈夫ぶりだ。彫りの深いハーフみたいな美貌は濃厚なセックスアピールに満ち、全身からゴージャスなオーラが惜しげもなく放出されている。女をガードするようにその肩に手を添え、嫌味なくらい気障な微笑でエスコートする様はあまりにも嵌っている。女も満更でもない風情で下品な秋波を五代に送り、しなだれかかるようにして歩いていく。  五代は人目の多いところで声をかけられるのを嫌う。周囲に人がいなくなるまで根気強く待たなくてはならない。連れの女はきっと仕事上のつき合いの人間だろうから、大切な話があるのだと言えば清の方を優先してくれるはずだ。  幸運なことに、2人は大通りのはずれを比較的人通りの少ない道へと折れていく。 「五代さん……!」  3メートルくらいの距離を置いて声をかけた。2人の足が止まった。女は振り向いた。しかし五代は振り向かなかった。清の声は一瞬の幻聴だったとでもいうように、こちらを気にかけている女の背を押すようにしてそのまま歩を進めようとする。 「五代さん!」  もう一度呼んだ。促がされてももう女は動かず、清の浮いたファッションを見てか必死な様子を見てかはわからないが、笑いを噛み殺し五代の袖を引く。  仕方なくといった感じで、やっと五代が振り向いた。一瞬だけ清に注がれた瞳はまったくの無感情だった。  きっと連れの女に気兼ねしているのだ。女さえいなければ、あのとろけるような微笑を向けてくれるに違いないのに。  清の想いが通じたのか、五代はスマートに右手を上げタクシーを呼び止めると、女に甘い微笑で何か囁きかけ乗るように促す。運転手に行き先を告げ、革の財布から1万円札を出して渡す。きっと釣りはいらないと言っているのだろう。  以前はあの女の位置に清がいた。誰かに大切に扱われるという生まれて初めて味わう優越感を満喫し、陶酔していたものだ。  女は最後まで清に対して興味津々のようだったが、諭されるとおとなしく車に乗り込み、そのまま車影は遠くなっていった。  それが完全に消えるのを見届けて、五代が振り向いた。先ほどまでとは打って変わって、冷め切った眼差しが向けられる。  顎をしゃくり細い路地へ入っていく五代の背を、清はあわてて追いかける。怒っていることは目を見てわかったが、とりあえず話を聞いてくれる気になってくれただけでも嬉しかった。 「五……」  路地の入口を曲がった所で、いきなり左頬に衝撃をくらって壁にぶち当たった。 「ったくどういうつもりだ? おまえは」  平手打ちをまともにくらって目の前に火花が散る。霞む目で見上げた相手は美しい顔を怒りで歪ませ、蔑むような冷たい目で清を見下ろしていた。 「ご、ごめん、でもあの、俺どうしても話したいことあったから……」 「あのなぁ清、いい加減わかってくれよ。おまえのこの軽い脳味噌じゃ覚えられないのかもしれないけどな。もう俺の前に現れてほしくないんだよ」  細くて柔らかい感触が好きだと言って何度も撫でてくれた優しい指が、乱暴にその髪を引っ張り荒々しく揺さぶる。 「マンションにまで押しかけて、光也の綺麗な顔に引っかき傷まで作りやがって。まったく何なんだ、おまえは? あれだけよくしてやったのに、よくあんな恩知らずなまねができるもんだよなぁ」  頭をグルグルに揺さぶられて、最後に思い切り突き飛ばされた。 「あ、あいつ、五代さんの恋人だって、ホントなのかよ? あそこに、今あいつと一緒に住んでるって……」 「それがおまえに何か関係あるのか? 俺が誰とつき合おうと俺の自由だろうが」  否定してくれない。上手な嘘も、言い訳もない。嫌な予感に目の前が暗くなる。 「五代さん信じてよ! 俺がまたウリ始めたのは金がなくなって仕方なくだったんだったら! 絶対浮気とかじゃないぜ? だって俺、ずっと五代さんのことだけ……」  腹部に突き上げた衝撃に、声も出せずに思わずうずくまった。エナメル靴の尖った爪先で蹴り上げられたのだとわかった。わかったが、信じられなかった。 「ったく、うるさいんだよなぁ」  毎夜甘い言葉を囁いてくれた男の口元は、今は嗜虐的な笑みに歪んでいた。 「一文無しのしけた面なんざ、もう二度と見たくないんだよ、縁起でもない」  清は蹴られた腹を抱え、唖然と相手を見上げる。五代はそんな清をおかしそうに見下ろし、もう一度脚を振り上げる。逃れようとあわてて壁にピタリとくっつき膝を抱えると、男は嘲るような笑い声を上げた。 「え……なんで? どうして……?」  清は困惑しきっていた。以前と変わらず彼だけを想っていると訴えれば誤解も解け、すぐに許され抱き締めてもらえると思っていたのだ。それなのに、言葉が全然通じない。  愛されていると、ずっと信じてきた。マンションを追い出されたのも、会いに行くと怒られるのも、事情や行き違いがあってのことだと思ってきた。それがまさか、全部間違いだったというのだろうか。  考えないようにしてきた一つの可能性が頭をよぎる。浮かぶたびに何度も否定してきたその可能性を、清は恐る恐る口にする。 「俺ってもしかして、金なくなったから捨てられるの?」 「まさかわかってなかったのか? ホントにお気楽だな、おまえは」  五代はコートのポケットから取り出した煙草を一本くわえると、デュポンのライターで火をつける。吸い込んだ煙を身を屈め清の顔に吹きかける。 「まぁ俺も、これ以上うるさい野良猫につきまとわれるのもうざいからな。はっきり言ってやるから、今度こそその軽い頭に叩き込んどけよ。清、おまえはもう用済みなんだよ。金の切れ目が縁の切れ目って言葉、知らないか?」 「お、俺まだ稼げるよ! ホント言うと、今もちょっとずつ金貯めてるんだ。五代さん、前言ってただろ? 一緒に豪華客船で世界一周しようって。そのための金、もう結構貯まって……!」 「今のおまえがどれだけ稼げるっていうんだ? 自分のツラ鏡で見てみろ。売れっ子だったときの面影なんかこれっぽっちもありゃしない。見てくれもそれで、尻の穴もゆるゆるじゃどんな客だってお断りだろうが。豪華客船が聞いて呆れるぜ。近付いただけで追っ払われるだろうよ」  火のついたままの煙草を顔に向かって弾き飛ばされ、思わず頭を抱える。火の部分が手に当たったのか、一瞬焼けるような痛みが走った。 「何避けてるんだ、生意気な。せっかく俺がもうちょっと見られるツラに変えてやろうっていうのに」  五代は相変わらず笑っている。その下卑た笑い声は清の知っている彼のものではない。 「でも……でも、五代さん言ってくれたよな? 俺のこと、誰よりも愛してるって。一番大事だって。あれってホントだよな? だって、俺ずっと、それ信じて……」  途中から感情が昂ぶり、声が震え出す。ここで泣いたりしたらあまりにもみじめだとわかっているのに、どうしても抑えられない。  五代はニヤニヤ笑いを浮かべたまま手を清の方に伸ばしてくる。また殴られるのかと思わず首をすくめたが、手は容赦なく髪の毛を鷲掴みにして乱暴に頭を引き起こす。 「ああ、誰よりも愛してたし大事だったぞ。おまえがたっぷりと金を入れてくれてたときはな」  五代はそのまま勢いをつけて、清の小さな頭を壁に叩き付けた。ゴンと鈍い音がして、頭の中が攪拌されたようにガンガン響いた。 「野良猫は気まぐれで拾われたって、しょせん捨てられる運命なんだよ。いい夢見せてやっただけでもありがたいと思えよ」  吐き捨てるような一言とともに五代は立ち上がると、そのまま何事もなかったかのように路地を出ていこうとした。  命綱が断ち切られたら、暗い穴に落ち込んでしまうしかない。もう何を言っても無駄だということはわかっても、最後の希望を失ってしまう恐怖に清はあわてて立ち上がった。 「ま、待って……!」  頭がズキンと鈍い痛みに疼いたが、構ってはいられない。通りに出ていこうとする腕を追いすがり掴むと、思い切り薙ぎ払われた。路地の奥に積み上げられた空き瓶の山に、清の軽い体は背中から突っ込み派手な音を上げる。  五代は掴まれた袖の辺りを見て、眉をひそめ手で払うと、 「汚らしい淫売め。二度と俺の前に姿見せるなよ」  体の芯まで突き刺すような冷たい目で睨みつけ、そのまま靴音高く去って行く。  清は茫然としたまま、空き瓶の山に体を任せ動けないでいた。  泣きたいはずなのに涙が出てこない。大声を出して泣いてしまうことができるのは、きっとまだ余裕があるヤツなのだ。本当に心の底から絶望したら、泣く気力すらなくなるのだと清は知った。  打たれた頬はヒリヒリ痛いし、煙草の当たった手の甲はチリチリするし、壁に叩き付けられた頭はジンジンしていた。でもそんなすべての体の痛みよりも、とにかく心が痛かった。  初めて本気で好きになった人。彼のためなら何を捨ててもいいと思っていた。つまらない人生をがんばって生きてきた意味は、彼と会うためにあったのだと信じた。  いや、信じたかったのだ。自分が生かされている、理由をみつけたかったから。  幸せな夢から覚めてしまった、冷静な自分が囁く。おそらく、五代は最初から自分を愛してなどいなかったのだろう。愛していたのはきっと、貯めていた金だけだったのだ。  だがその残酷な真実を認めてしまったら、清には生きるよすががなくなってしまう。いつかきっと五代との蜜月が戻ってくると信じていたからこそ、何とかやってこられたのだ。失ってしまえば、もう生きる意味はない。  それならいっそのこと、この汚らしい空き瓶の山に埋もれて死んでしまおう、そう唐突に思った。幸いこの引っ込んだ路地をわざわざ覗くような酔狂な人間もいなさそうだ。このままここに座り込んで飲まず食わずでいれば、きっとそう遠からず死神が迎えにきてくれるに違いない。  今夜も北風がやけに冷たい。凍死でも飢え死にでもなんでもいいやと投げやりに思いながら、清は膝を抱え目を閉じた。

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