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第6話

 そのままの姿勢でどのくらい座り込んでいたのかわからない。  目を開けたときには辺りはもう深い闇に包まれ、路地の入口を通り過ぎていく人影もまったくなくなっていた。  飢え死にできるまで、あと何時間くらいかかるのだろう。本音を言うと、壊れた人形みたいにここでこうしてじっとしているのもちょっと飽きてきた。体中いろいろなところが痛いし腹も空いてきた。飢え死にを目指しているのだから空きっ腹くらいでへこたれてはいられないのだが、つらいものはつらい。  いっそのことそんな時間のかかる死に方ではなく、両脇に山と積んである瓶を叩き割ってそれで手首でも切った方が手っ取り早いのではないかと思い付いたが、血が出るのも痛いのも怖かった。さっき五代がもう少し力を入れて頭を壁に叩き付けてくれれば、一気にこの世とおさらばできただろうに。  どこかの馬鹿飼い主がはぐれた猫を捜しているらしい。猫ちゃん、猫ちゃんと呼ぶ声が近付いてくる。 「ねこちゃん!」  呼びかけとともに路地の入口から顔を覗かせたのは、なんと馬鹿同居人だった。  月峰は清を見ると全身で安堵を表し「よかったぁ!」と声を上げた。見慣れたのんきな顔を見たら、餓死もリストカットも急にやる気が失せた。  月峰は路地に入ってくると、無視したまま膝を抱えている清の前に大きな体を折ってしゃがんだ。 「ねこちゃん、大丈夫?」  路地に明りはなかったが、大通りから差し込む街灯の光でほのかに明るい。張られた頬は赤く腫れているだろうし、ドロドロに汚れた服も相手には見えているはずで、みっともなくて情けなかったが、この男の前で見栄を張る必要なんか今さら全然ないじゃないかと開き直った。 「なんでおまえここいんだよ」  つっけんどんに聞いた。飢え死にするまで放っておいてほしかったのに、月峰はその内蔵アンテナでどこにいても清を見つけ出す。 「だって水曜だから、ねこちゃんは兄さんに会いに来る日だろ?」  そうだった。毎週水曜、清が五代の会社を未練がましく訪れることを月峰は知っている。ついでにすげなくあしらわれ大抵は無視され、五代の虫の居所によっては頬を腫らして帰ってくることも。 「今日はちょっと帰りが遅いから、何かあったのかと思って。会社の人に聞いたら兄さんはとっくに帰ったって言うし、ねこちゃんの姿は見えないしさ。だからこの辺捜してた」  月峰は優しく微笑み、 「うちに帰ろう」  と、ダランと垂れ下がった清の腕を取った。邪険に振り払う。 「帰らねーもん」 「もう少しここにいるの?」 「ずっといる。ここでこのまま飢え死にすんだから」  月峰は澄んだ瞳をキョトンと見開く。 「えっ? ねこちゃんはここで、座ったまま死ぬつもりなの?」 「そーだよ」 「どうして?」 「うるせーな! 生きててもしょうがねーからだよ!」  怒鳴り返すと、月峰はなんとも困った顔になる。 「それやめよう」 「やだ」 「飢え死には苦しいよ? 昔偉いお坊さんが即身仏になるときにね、苦しさのあまり壁を爪で掻きむしったんだって。偉いお坊さんでもそうなんだよ? ねこちゃんじゃきっともっとだ」  月峰はたまに妙な雑学を披露する。ちなみにソクシンブツなるものがどういう字を書くどんなものなのか清は知らなかったが、その大変さは今の話でなんとなくわかった気がした。もし飢え死にしようなんて奇特な坊さんがいたのなら、そいつはきっと大好きな男に捨てられたんだろう。 「馬鹿にすんな。俺だっていざとなったらそのくらいがんばれんだ」 「そんなことがんばらなくていいって。寒くなってきたからさ、帰ろうよ。ね?」  再度差し伸べられる手を、今度は思い切り引っぱたいた。 「ホントうぜーおまえ! 俺が生きようが死のうが関係ねーだろ! むしろ俺がいなくなったら、面倒なくなって清々するんじゃねーのっ?」  これまでずっと、五代に冷たくされるたびに月峰に八つ当たりしてきた。暴れて手当たり次第に物を投げ付けたり、綺麗に夕食を並べられたちゃぶ台ならぬテーブルを引っくり返したりしてきた。  そのたびに月峰はしょうがないなという困った笑顔で清が静まるまで根気強く待ってくれていたが、いくら仏のような鈍感さを誇っていても内に溜まってきているものはあるだろう。清のわがまま放題にはいい加減限界のはずだ。我慢し過ぎて、ソクシンブツになりかけているかもしれない。  月峰はいつもと変わらぬ困り顔で清を見ていた。ただその微笑は、いつもより少しだけ悲しそうだ。  月峰はそのどこか悲しげな瞳を逸らし、空瓶の入ったケースをよいしょとどかして清の隣に腰掛けた。 「関係なくないよ。清々もしない。悲しいよ、ねこちゃんが死んだら。俺は、すごく悲しい。きっと後追い自殺したくなるくらい悲しい」  こいつは本当に馬鹿だ。もうソクシンブツになるしかないくらい馬鹿だと思ったが、怒鳴り返す気分にはならない。馬鹿を相手にしても疲れるだけだからと自分に言い訳してみたが、胸が詰まって言葉が出ないというのが本当のところだった。 「生きててもしょうがなくなんか、全然ないよ。ねこちゃんが生きてると、俺が嬉しいんだから。君がいるだけで、俺も生きていけるんだからさ。それだけじゃダメかな?」 「そんなん、ダメに決まってんだろ、バーカ」 「そっか、ダメか」  月峰はあはは、と声を立てて笑う。  不思議だ。さっきまで吹き込んでくる冷たい風が寒くてたまらなかったのに、今はそれほどでもない。大きな図体が路地の入口を少し塞いだからだろうか。  会話が途切れると静けさが染みた。一人ボロ人形みたいに座り込んでいたときと違い、胸がほんのりと温まる優しい静けさだった。 「おまえ、知ってたんだよな」  どこかまったりとした心地いい沈黙を破って、清が口を開く。 「何を?」 「だから、俺が貢がされてただけだったってこと。五代さんは最初っから、俺の金だけが目当てだったんだよな」  この馬鹿にまで『何だ、今ごろ気付いたの』とか言われた日には、どんなに血が怖くても痛そうでも、瓶の切れっ端で手首をかき切れそうな気がした。  ところが身を起こした月峰は、勢い込んで清の発言を否定した。 「そんなことないよ! 兄さんはねこちゃんのことがホントに好きだったじゃないか」 「いーよもう! 俺さっき本人に言われちゃったんだから! 金がなくなったから、もう用済みだって」  清は抱え込んだ膝の間に顔を埋める。真実を確認すれば、月峰は絶対に否定してくれることはわかっていた。それがわかっていたから、清もあえて聞いたのかもしれない。  月峰は決して、清を傷付けるようなことは言わないのだ。彼にとって重要なのはそれが真実かどうかなのではなく、清がそれをどう感じるかなのだから。 「ねこちゃん……」  丸め縮こまった背中に温かい感触が下りてきた。月峰が撫でてくれているのだ。自分が本当に猫だったらうっかり喉を鳴らしてしまいそうなほど、それは心地いい感触だった。 「俺外野から見てただけだけど、ねこちゃんと兄さん二人でいるときいつもすごく楽しそうだったじゃない。お金目当てだけであんな顔できないだろ? 兄さんホントに、ねこちゃんのこと可愛くて仕方なかったんだと思うよ」  そうではない。五代は金のためならいくらだって仮面を被れる男なのだ。今の清にはそれがわかる。月峰にだって、きっとわかっている。  それでもこの究極のお人よしは、どんな嘘をついてでも清の心を守ろうとする。彼にとって、それが最優先事項だからだ。 「でも、現に俺捨てられたんだぞ。一文なしになったから」 「だから飢え死にしようとしてたのか。それは……つらかったね」  大きな手は止まることなく、背中を撫でてくれている。そうしていれば、少しでも心の痛みが癒えると思っているかのように。 『つらかったね』と言って誰かが認めてくれることで、そのつらさは少しだけ軽くなるのだと清は初めて知った。月峰の声は綺麗な音を出す楽器みたいに、清の傷んだ心を癒す。 「つらいけど、でも俺、ねこちゃんが兄さんと出会って好きになって幸せに暮らした時があったこと、よかったって思うな。なんて言うのかな。何もないよりは誰かのことをすごく好きになったり、そういうことがあった方が人生がさ、豊かになると思わない?」 「そんなんなんなくていい! 人の気も知らないで、おまえテキトーなこと言ってんじゃねーよ!」  闇雲に腕を振り回し背を撫でる手を払い、ますます深く膝に顔を埋める。  人生の豊かさなんてどうでもいい。こんなひどい思いをするくらいなら、最初から何もない方がずっとましではないか。 「ご、ごめん、ねこちゃんが死にたいくらいつらい思いしてるのに無責任なこと言って。でも、」  俺もそうだからさ、と独り言みたいに、小さくて聞き取りづらい声で、月峰は続けた。その一言で、なぜか清の胸は切なく引き絞られた。  清なんかを好きになっても一つもいいことなどないはずなのに、それでもよかったと言っているのだろうか。  妙に居心地が悪くなって身じろいだ肩を抱き寄せられた。振り払おうと体を揺らしてもその腕は頑として離れようとしない。いくら暴れても離してくれないのでついに根負けし、清は諦めて温かい肩に体を任せた。 「俺、君のことが好きだよ」  耳元で囁かれる。月峰がはっきりと言葉にしてその想いを告げたのは初めてだった。  何と答えていいのかわからず、清はほのかに熱くなる頬をまた膝の間に隠してしまった。

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