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第7話

★  たかが1日経ったくらいで急に新たな展望が開け、生きる希望が湧いてくるなんてこと、あるわけがない。  馬鹿同居人が「俺もここでつき合って飢え死にしようかな」なんて言い出したから、昨夜は仕方なく一緒に家に帰ってやって、冷凍したシチューの残りを食べてやって、おとなしく腫れた頬と頭の瘤と手の火傷を手当てさせてやって、いつものように一緒の布団で抱き付いて寝てやった。  心身ともに疲れ切っていたのだろう。昨夜は夢も見ないほど深く寝入ってしまった。月峰がいつ仕事に行ったかも、全然覚えていない。  熟睡している清を見て、月峰も少し安心したことだろう。もう死ぬなんて言い出すまいと思っているに違いない。  だが生憎だが、清は死ぬことを諦めたわけではなかった。  五代と復縁できない以上、この先生きていても何の夢も希望もないことには変わりない。そんな清と暮らしたところで、月峰だっていいことなんか一つもないに決まっている。『俺のために生きていてほしい』などと言っていたが、いなくなってみればどんなに厄介なものを抱え込んでいたのかに気付いて、早々に目が覚めるだろう。  昨夜憎まれ口を叩かずに終始おとなしくされるがままになっていたのは、これで最後だと思ったからだ。  おいしいご飯を用意してもらうのも、傷の手当てをしてもらうのも、優しく抱き締められて眠らせてもらうのも、清にとっては最後の贅沢だった。26年の人生の終わりに誰かに真心からそんなふうに尽された思い出を、冥途の土産に持っていっても罰は当たらないだろう。  目が覚めたときは10時を回っていたが、熟睡した後なので頭はすっきりしており、傷も痛まなかった。起き出すとまず数少ない荷物――とはいってもほとんどが洋服――をまとめてゴミに出した。ちょうど今日が燃えるゴミの日に当たっていたのも、清にとっては都合がよかった。  ちまちまと稼いだ現金を入れておいたクッキーの缶は、月峰の机の上に置いた。ちゃんと数えたことはないが、もうかれこれ50万近くは貯まっているはずだ。家賃はこれまで一度も入れたことはない。そのかわりと言ってはあまりにもささやかだったが、とりあえず礼の気持ちだった。どっち道その金は、清にとってもう必要のないものだ。  荷物を綺麗さっぱり処分し、やったこともない部屋の掃除を一通り終えると、レザーパンツのポケットに折り畳みナイフを入れて部屋を出た。そのナイフで五代を刺してから、自分も死ぬつもりだった。殺したいほど憎いというわけでもなかったが、野良猫なりにせめて最後に一矢報いて、その目の前で死んでやりたいという意地みたいなものだった。一人ひっそり死んでいっても、きっと相手は喜ぶだけだろうと思うと馬鹿馬鹿しくなったのだ。  五代の会社に行く前に、月峰の働く旋盤工場に足が向いてしまったのは無意識だった。  その従業員10人にも満たない小さな町工場を訪れるのは、初めてではない。仕事ぶりをひやかすためと、主に嫌がらせ目的で何度か顔を出したことがある。  会社を訪ねると烈火のごとく怒り狂った五代とは対照的に、月峰は清を大歓迎し、どこからどう見ても堅気ではない清の風体に目を白黒させているダサい工場の連中に、同居人だとむしろ自慢げに紹介してくれた。呆気に取られ言葉も出ない様子の初老の工場長の顔を見て、自分のことが原因でクビになるのではと清の方がヒヤヒヤしてしまったくらいだ。  工場の入口にさしかかって、やっと我に返り、足が止まった。なぜ来てしまったのかと自分でも首を傾げたが、このままとって返す気にもなれないことは確かだった。それでも平然と中に入っていくのもためらわれ、開け放された入口付近をうろうろしていたら、 「あ、ねこさん!」  と、威勢のいい声をかけられてしまう。能天気な明るい声は工場では一番年若い、月峰の後輩のヤスオという小僧だ。  知らぬふりをするわけにもいかず「おう」とばつ悪そうに首をすくめると、別にいいのに仕事を放り出して小太りな体を揺らし駆け寄ってくる。ぶ厚い眼鏡の奥から、キラキラした小さな目が向けられるのがこそばゆい。 「うわぁ、いつもカッコイイっすねー。前から聞きたかったんすけど、ねこさんてなんかバンドとかやってんすか?」 「そ、そんないいもんじゃねーよ」  こんなド田舎から出てきた純朴な小僧に、実は男娼でございますなんて言っても通じないに違いない。 「なんだおめぇ、ねこじゃねぇか」  月峰にみつからないうちに早く逃げようとそわそわしていると、一番手強い相手が奥から出てきてしまった。工場長であり月峰の指導全般をしている『親方』こと佐川のじいさんだ。体も顔も四角くいかにも頑固な下町の職人と言った雰囲気の親方のことが清はちょっと苦手だったが、不思議と嫌いではなかった。 「またそんなみっともねぇカッコで外うろつきやがって。もうちっとまともなもん着られねぇのか、おめぇは」  気に入りのピンクのコートはすっかり汚れてしまったので、今朝ゴミに出してしまった。今日は幾分地味なライトパープルのやはりフェイクファーのショートコートに黒のレザーパンツという清にしては地味な出で立ちなのだが、親方には理解の及ばないファッションに変わりはなかったらしい。 「やだなぁ親方、バンドやってる人はこのくらい華やかでいいんすよ」  ヤスオが意味不明のフォローを入れてくれる。バンドではないと言ったのに聞いていないようだ。 「ホントうっせーな、おっちゃんは。戦前生まれのヤツにはわかんねーんだよ」  唇を尖らせると、 「なんだと、こら? わかんなくて結構だわ、んなヘナチョコなもんは」  と、拳固で頭をグリグリやられた。それがちょうど昨日壁に叩き付けられた所に当たっていて、清は大げさでなく悲鳴を上げた。 「いーっ! 痛い痛い痛いっ! やめろぉ、ジジイ!」 「お、何だ? またこんな立派な瘤こさえやがって。弱ぇんだからゴロまきもいい加減にしやがれ」 「ケンカはダメっすよぉ! イケメンにこれ以上傷付いたらステージに立てません!」  ここに顔を出すたびに痣やら傷やらを増やしてくる清を、おそらく二人とも心配してくれているのだ。 「おいねこ、聞いてんのかおめぇは。これ以上あいつに心配かけんなって言ってんだよ」  怒ったふりでさりげなく釘をさす、親方の口調は真剣だった。叱られているはずなのに、胸がジンと温かくなった。 「そんなん、わかってんよ」  と、照れくささと気まずさに目を逸らし、拗ねた口調で呟く。  不思議なことにこの戦中生まれのじいさんは、月峰の清に対する感情に気付いている気がする。月峰の態度があれだけあからさまなのだからわかる人間にはわかってしまうのかもしれないが、いかにも堅気ではない清を見れば同性と言う理由を置いても温かく見守ろうとは思うまい。それなのに親方から『月峰と別れろ』とかそういう話は、これまで一度も出たことがないのだ。 「透さんは今みんなの弁当買いに行ってくれてるんすよ。ねこさん、中で待っててください。みんなもねこさんのこと見たいと思うし」 『会いたい』ではなく『見たい』という珍獣まがいの言い方をされるが、妙に腹は立たない。実際この工場の善良で地味な連中は、清が来るといつももの珍しげに寄ってきてジロジロ眺め回す。だがその視線は純朴で好意的なもので、悪い気はしないのだ。  自分は月峰透の『大切な同居人』として、ここでは歓迎されている。いくら傍若無人に無愛想に振る舞ってもだ。だからここは、清にとっていつも居心地がいい場所だった。 「ん……やっぱ俺いい。別に用ないし、帰る。あいつにも、言わなくていいから」  歯切れ悪く言って、もう一度親方とヤスオを見る。これで最後だからって、「よくしてくれてありがとう」なんて、素直に言えるわけがなかった。 「急ぐこたぁねぇだろ。どうせ暇なんだろうから茶でも飲んでけ」 「そうっすよぉ」  何かを感じ取ったのだろうか。引き止めにかかる親方とヤスオにあわてて首を振り、背を向ける。数歩立ち去りかけてから振り向いた。 「おっちゃん。ヤスオ。あの……」  言葉は、心のまま素直に出そうと思うときほどうまく形になってくれないものだと、清は初めて知った。二人は黙って、続く一言を待ってくれている。 「あ、あの、あいつのことこれからも、その……よろ、よろしくしてやってくれよな」  しどろもどろになりながら一気に言って、そのまま後ろを見ずに駆け出した。  ものすごく恥ずかしかったし柄でもないとわかっていたけれど、一番言いたいことを最後に言えたことで気持ちはとてもすっきりしていた。自分が急にいなくなってもあの心優しい連中に囲まれていれば、月峰の心も時を経て次第に癒されていくだろうと思い、清は安堵した。  工場から相当離れてやっと歩速を緩めると、なんとなくもの悲しい気分が襲ってきた。もう生きる目的もなくすべての希望を失ったはずの自分に、まだそんな感情が残っていたこと自体が不思議だった。

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