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第8話
のどかな平日の昼下がり、人気のない道を駅へと向かう。どうしてもタラタラ歩いてしまうのは、自分の中でまだ覚悟が決まっていないからなのだろうか。
駅前の大通りに出ると、見るからにのんびりした風情の主婦や老人達がのんきな顔で歩いていて、ポケットにナイフをしのばせこれから無理心中しようなんて物騒なことを考えている自分が、なんだか馬鹿みたいに思えてくる。
横断歩道を、腰がほとんど90度に曲がったおばあちゃんが渡っている。ヨタヨタとおぼつかない足取りがどうも危なげだ。歩行者用信号は青だがまだ横断歩道半ばで、もしかしたら渡り切れないのではないかとハラハラする。
と、道路の向こう側の弁当屋から出てきた男が、あわてて彼女に駆け寄った。
清は思わず硬直する。長身を包むグレーのつなぎ、優しげな微笑は間違いなく月峰だ。
月峰が肩に手を置き耳元で話しかけると、それまで不安げだったおばあちゃんの顔が一瞬だけ戸惑った後にほっこりと緩んだ。月峰に話しかけられた人間はその体格のよさに一瞬警戒するのだが、すぐに心を許した表情に変わる。
まるで魔法みたいだ。魔法が効かないのはいつもツンツンしている清と、傲岸不遜な兄の五代くらいのものだ。
月峰は大きな体を折って軽くおばあちゃんの腕を取ると、ゆっくりとペースを合わせ残りの半分を渡っていく。歩行者用信号が瞬いて赤に変わったが、クラクションを鳴らしたりする意地悪な車はいない。二人はたっぷりと時間をかけて横断歩道を無事渡り切った。
おばあちゃんは月峰が恐縮するほど何度も頭を下げ、のんびりとした足取りで歩き去って行った。
その後ろ姿が消えるまで見送った月峰は、偶然清の方に体の向きを変えた。
「っ……」
視線が合ってしまった。月峰の涼やかな目が少し見開かれ、笑顔がこぼれる。おばあちゃんに向けられたものとは違う明らかに特別な感情に満ちた眼差しに、清の胸はギュッと引き絞られた。同時に、月峰に対して感じるその初めての感覚の正体がわからなくて戸惑う。
「ねこちゃん! どうしたの?」
弁当屋の袋を提げた月峰が嬉しげに駆け寄って来る。逃げる間がなくて、清はその場に立ちつくしただ俯いた。
「あ、もしかして工場に来てくれたのかな?」
「ち、違っ……俺、あの、そ、そうだ、これからちょっと出かけるから」
「どこに行くの?」
普段は清の行動に口出しせず何でも自由にさせている月峰だったが、昨日の今日だけにさすがに気になったのだろう。
「ちょっと、気晴らしに買い物。そのまま仕事してくるから遅くなる」
そう言っておけば夜中まで帰らなくとも心配しないだろうと思い、とっさに出た嘘だった。
「今日くらいは休んだら?」
心配そうな眼差しが向けられ、伸ばされる手が髪に触れる。ちょうど瘤のできている場所だ。いつもなら『うっせーなぁ、勝手だろ』とか言って振り払うところだがなぜかできなくて、温かくて優しい手の感触に清は少しだけ首をすくめた。
「へ、平気。気分転換になるし」
「そっか。無理しないでね」
手はそのまま優しく髪を梳く。周囲に人がいようが、奇異の目で見られようがまったく意に介さず、月峰はいつでもどこでも清にスキンシップしてくる。まるで清のことが愛しすぎて、そうせずにはいられないというように。
「ご飯、帰ってきてから食べるよね。何がいい?」
「んと……カレー」
何か言っておけば、とりあえず安心してくれるだろうと思い口にした。いつもは食に興味のない清が珍しくリクエストしたことで、月峰は予想通りホッと安堵の表情を見せ「了解」と笑って頷いた。
そのまま何となく、立ち去るタイミングを失う。相手から動いてくれないかと思う。後ろ姿を見送られるのは、何だかすごく嫌だ。
「お、おまえ、弁当頼まれてんじゃないのか? 早く行けよ」
「ああ、うん」
そう答えはするものの、月峰はなかなか動こうとしない。
そのまましばし髪を撫でていた指は、最後に頬の傷をスイッとなぞって惜しむように離れていった。ジンと熱くなった胸から、わけのわからないものがこみ上げてくる。清は唇を噛み、あわてて一歩退いた。
「それじゃねこちゃん、また後でね?」
確認するように問われ「うん」と素直に頷いた。月峰はその返事に嬉しそうに笑って、「じゃあ」と片手を上げ背を向ける。
30メートルくらい行ったところで足を止め振り向き、もう一度手を振ってきた。もちろん振り返してやることなんかできなかったけれど、なぜか立ち去りたくなくて、清はその背が角を曲がって消えて行くまでずっと見送っていた。
左目から一粒こぼれ落ちてしまったものが、優しい人差し指が触れていった頬の傷の上を伝った。清は握った拳で無造作にそれを拭うと「何泣いてんだよ、バーカ」と小さくつぶやいた。
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