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第9話

いつものガードレールに座ってビルの入口を見張る。  今日は五代の仕事が終わるまで律儀に待たず、姿が見えたら即突っ込んでいくつもりだった。一瞬でも躊躇してしまうと、せっかく固まっていた覚悟が萎えてしまいそうだったからだ。  一目会いたいという切羽詰った想いで待つよりも、相手を刺して自分も死のうなどという負の限界の気持ちで待つ方が時間の流れが遅く、エネルギーを消耗するらしい。本番はこれからなのに、すでにひとっ走りしてきたみたいに呼吸が速くなっている。  午後2時。通り過ぎていく人達は皆仕事中らしく忙しげで、終業時のように清を振り向いて見ていく者はいない。人がこれから無理心中しようとしているというのに、無神経な空は晴れやかでほかほかと暖かく、同居人のやわらかい笑顔を思い起こさせた。  偽物の毛皮でも、日向にじっとしていると汗ばんでくるのを感じる。暑いようでいて、体の表面は妙に冷えているのが不快だ。開き直っているはずなのにプレッシャーがあって、心臓が嫌な感じに打っている。  なんだか、急にやめたくなってきた。ふいに馬鹿馬鹿しく思えてきたのだ。失恋して夢も希望も失っても、生き続けている人は世の中にたくさんいるはずだ。そんなことでみんながソクシンブツになっていたら、世界中ソクシンブツだらけになってしまう。  これまでの清にとっては五代がすべてで、五代を失えば何も残らないと思っていた。でも今改めて心の底の方までゆっくりかき回し探ってみると、何となく違う気がするのだ。  明らかに、何かが残っている。真っ暗闇だった心の中にたった一つ、小さな光が見えている。  それが最近生じたものなのか、本当は前からあったのに見えなかったものなのかはわからないけれど、それさえあれば生きていけるんじゃないかという気がしてきたのだ。  清はうろたえた。  ここでこんなふうに、嫌な気分で汗をかきながらナイフを握り締めているより、マンガ雑誌でも買って狭いが安心できる我が家に帰って、同居人を待つ方がいいような気がしてきた。一緒にカレーを食べた後は一つの布団にもぐってギュッと抱き付いて寝てしまえば、今日よりましな明日がやってくるのではないか。  どうして、そうしてはいけないのだろう。いけない理由なんか何もない。自分が頑なにそれは違うと決め付けているだけだ。  太陽が中天から西へ傾き、短かった影が次第に伸び始めた頃、このどこか気取ったオフィス街にはあまりにも違和感のあるグレーの作業着が、まだ迷っている清の視界をいきなり横切った。  思わずガードレールから腰を浮かす。間違えようがない。あれは、月峰だ。  月峰はいかにもあわてている様子で、こともあろうに清が数時間見張りを続けているビルの入口に躊躇せず飛び込んでいく。  とっさに時計を見た。午後4時。月峰の仕事は確か6時までのはずだ。あの様子からすると、仕事を放り出し血相変えて五代のところに飛んできたのは一目瞭然だ。  一体何をしに来たのだろう。心臓の鼓動が速くなってくる。  追って入っていくべきか清がためらっている間に、ビルの入口が勢いよく開いて、当の月峰が押し出されるように出てきた。後ろから続くのは長身の月峰よりさらに頭一つ分でかい、獰猛なブルドックみたいな顔の男だ。  熊手みたいな手で背を突かれよろめきながらも、月峰は男の肩越しに、その後ろにいる人物に何か訴えている。五代だ。五代は清を殴るときと同じ、あの嗜虐的な笑みを浮かべ、一言二言ボディガードらしきブルドッグ男に何か告げると、男は月峰を押さえ込むようにして引っ立てて行く。大通りを折れ、三人の姿が見えなくなる。  清は根が張っていたガードレールから腰を引き剥がすと、迷わず三人の後を追った。  一同は一本引っ込んだ通りにある古いビルの中に入っていく。入口に会社名の札などはかかっておらず、いかにも寂れた人気のなさはおそらく廃ビルのようだ。  清は気付かれないように距離を置きながら三人を追って、ところどころ床板がはがれ、朽ちかけたビルに足を踏み入れた。無意識に、ポケットの中の折り畳みナイフを握り締める。当初の計画どおり五代を刺すためではなく、何かあった場合に飛び出していけるようにだ。 「隠さないで教えてくれよ!」  声を荒げたところなど見たことのない月峰の、動揺を露わにした声が届いてきた。驚いた清は全神経を耳に集中させる。声はすぐ目の先の部屋から聞こえてくる。 「清君、来たんだろ?」 「だから、来てないって言ってるだろう。まったくわからないヤツだな」  イラついた低音の声は五代だ。  部屋のドアにはめ込まれた小窓のガラスが壊れている。清は背伸びをしてそこから中を覗いた。  

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