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第10話
元はオフィスとして使っていたのだろう。20畳ほどのガランとしたフロアだ。ブルドッグを挟んで月峰と五代が対峙している。いつも穏やかな笑顔を絶やさない月峰の顔が、青ざめ強張っているのを初めて見た。
「だって清君はうちを出たら、兄さんの所しか来るとこがないんだよ!」
「何だおまえ、あいつに逃げられたのか? しょうがないな。せっかく俺があれだけお膳立てしてやったのに」
月峰の声には悲痛な響きがあった。そんなつらそうな声を聞くのも初めてで、清の心は妙にかき乱される。
「清君は兄さんのことが好きなんだ。俺じゃダメなんだよ」
「兄さん、どうして清君にあんなひどいこと言ったの?」
五代が露骨に眉を歪める。
「ひどいことだと? あの馬鹿が何か勘違いしてるから、親切に本当のことを教えてやっただけだろうが。ストーカーみたいにつきまとわれるのもうざいしな」
「清君は兄さんのことだけが生き甲斐だったんだよ? それなのにそれを叩き潰すようなこと……別れるなら別れるで、黙って離れてくれればよかったんだ。本当のことだからって、言わない方がいいことだってあるだろ?」
月峰がこんなふうに、五代に向かってはっきりものを言えるとは思わなかった。今までの月峰はどこか五代には頭が上がらない風情で、いつも遠慮がちな物言いだった気がする。五代も同様に感じたようで、従順な飼い犬に吠え立てられたとでもいう不快さを表した顔をさらにしかめる。
「あいつの頭じゃな、はっきり言ってやんなきゃわからないんだよ。大体何なんだ、おまえは。俺があいつを捨ててやったのは、おまえのためでもあるんだぞ? むしろ感謝してほしいくらいのもんだけどな」
もちろん嘘だ。五代は清から何も吸い上げるものがなくなったから捨てただけで、決して月峰のために身を引いたわけではない。
「清君がつらい思いしてるのに、俺が喜べるわけないだろう」
一歩五代の方へ出ようとした月峰の両肩を、ブルドッグがごつい手で押さえる。月峰はブルドッグにはまったく構わず、ただ真摯な目を五代だけに向けて語りかける。
「兄さん頼むよ! 俺絶対清君を探し出して連れてくるから、そしたら言ってあげてほしいんだ。彼のことを好きだったのは嘘じゃないって。2人で過ごした時間は、兄さんにとってもいい思い出だって。そのくらいのことしてあげてもいいだろ? 清君がどれだけ兄さんに尽してきたか、思い出してくれよ!」
五代は呆れ返ったといった顔で、やれやれと肩をすくめる。
「あいつが勝手に惚れて勝手に貢いだだけなのに、どうして俺がそんな機嫌取ってやる必要がある? 大体あんな野良猫風情が、この俺にまともに相手してもらえると思ってるあたりからして間違ってる。分不相応にもほどがあるぜ」
五代は吸っていた煙草をいら立たしげに床に落とし踏み付けると、これ以上相手にしている時間はないとばかりに背を向け出口に向かう。
「待ってよ!」
追いかけボディガードに押さえられる月峰を、うるさそうに振り向き唇を歪める。
「それよりおまえ、俺のとこに押しかけて馬鹿言ってる暇があったら、とっとと野良猫探しに行った方がいいんじゃないのか? もしかしたら今頃ショックで首くくってるかもしれないしなぁ。その方が俺も目障りなのがいなくなって清々するけどな」
月峰がキレた顔をいうのを初めて見た。いや、月峰でもキレることがあるのかと、清はむしろそちらの方に驚いてしまった。
蒼白になった顔からは一瞬すべての感情が消え、怒りよりもむしろ悲しみに満ちた表情が取って変わる。
月峰は言葉にならない唸りを上げ五代に突進していこうとしたが、ブルドッグの重い拳をボディにくらって壁際まで吹き飛んだ。思わず声を上げそうになり、清はあわてて口元を押さえる。
「揃いも揃って馬鹿だな、おまえらは。そういった意味ではまったく似合いだぜ」
五代は声を立てて笑いながら、清の隠れているドアに近付いてくる。
逃げなければととっさに思うが、体が動かない。腹を押さえたまま苦痛に眉を寄せていた月峰が、覚束ない脚を踏ん張って立ち上がったからだ。
「いいよ、わかった。もう兄さんには何も頼まない。これからは清君のことは俺が守る。ただこれ以上清君を傷付けたら、たとえ兄さんでも許さないからね」
「何だと?」
五代の目が酷薄な色を湛え細められた。
「でかい口叩くじゃないか、透。おまえとお袋が五代の家から叩き出されそうになったとき、俺が止めてやらなかったら、おまえら親子はどっかでのたれ死んでたんじゃないのか? その恩も忘れて、随分と生意気なことを言うようになったもんだな」
「兄さんは変わったよ。昔はもっと人情味のある優しい人だった。今の兄さんは本当に可哀相だ。俺には哀れにしか見えない」
五代は舌打ちするとボディガードに顎をしゃくった。
ブルドッグは表情一つ変えずに太い腕を振り、月峰の左頬に一発くらわせる。勢いよく吹き飛んだ月峰は再度壁にぶち当たる。五代の笑い声が空っぽの部屋に響く。
「っ……」
清はポケットの中のナイフを握り締めた。どうこうしようと深く考えたわけではなく、とにかく月峰がそれ以上殴られるのを見たくなく、てとっさに取った行動だった。
ブルドッグが倒れた月峰の襟元を掴み上げ追撃を加えようと腕を振り上げるのと、清がドアを蹴飛ばし飛び込んでいくのは同時だった。
「やめろぉ!」
叫びながら、でかい男の大きな壁みたいな背中に体ごとぶつかっていく清に、3人が同時に目を瞠ったが、反応したのはブルドッグが一番早かった。月峰に向かって振り上げられたその手は、振り向きざまに清のか弱いボディに勢いよく吸い込まれた。重い衝撃とともに体が浮く。
「ねこちゃん!」
月峰の叫び声がやけに遠くで聞こえる。
空中で一瞬停止したかのように感じられた体は、一気に硬い床に叩き付けられた。全身を衝撃が襲う中で数メートル先に転がったナイフを見て、どうしてあれ使わなかったんだろう、やっぱ俺って馬鹿だ、と漠然と思った。
誰かが咆哮する声が聞こえた、と思った次の瞬間、巨体が目の前を舞い壁に叩き付けられた。いきなり殴られたらしいブルドッグは自分でも何が起こったのか把握できていない表情だったが、それでもさすがにプロのボディガードといったところか、驚異的な身体能力で体勢を持ち直すと、殴った相手に飛びかかっていく。
月峰は冷静だった。両手を握り目の前で構えたポーズはまるでプロボクサーだ。飛び込んでくる巨体を軽くいなし右腕を振るう。見事なアッパーカットが入り、飛ばされたブルドッグは後ろに立っていた五代を道連れに地響きを立てて壁にぶち当たった。
一瞬のうちの形勢逆転に、室内は水を打ったように静まり返る。
「ち、畜生! 何やってやがる、この役立たずが!」
沈黙を破り情けない声を上げたのは、ブルドッグの巨体の下からやっとのことで這い出た五代だ。弱い者をいじめるのは好きだが、逆の立場になると急に萎むらしい。日頃の傲慢な態度が今や見る影もない怯えようだ。
立ち上がるのがやっとのブルドッグの襟首をひっ掴み、引きずるようにしてほうほうの体で部屋を飛び出していく様は、普段の洗練されたスマートな姿からは想像できないみっともなさだ。
「待てって!」
「透……」
追っていこうとする月峰を呼び止めた。いつも『おい』とか『なぁ』とか呼んでいたので、下の名前をちゃんと口にしたのは初めてだった。
驚いた顔で振り向いた月峰以上に、清自身も内心びっくりしていた。
ただ、残されたエネルギーでは名前を呼ぶのが精一杯で、日頃から体力がない上に痩せ細った夜行性の体は冷たい床にあえなくへたばってしまう。
「ねこちゃん!」
月峰が駆け寄ってくる気配を、清は目を閉じて感じ取る。覚えのある温かい腕が、そっと上体を抱き上げてくれた。
「ねこちゃん大丈夫? どこが痛い?」
目を開けた瞬間視界いっぱいに映ったのは、いつもはほがらかな男の見たこともないほど悲しそうな顔だったので、あわてて閉じた。月峰のキレた顔も悲しい顔も、もう二度と見たくなかったからだ。
「おまえ……仕事じゃねーのかよ」
「親方とヤスオが、ねこちゃんの様子がちょっと変だったって。なんとなく嫌な予感がしてうちに帰ったら、君の荷物はすっかりなくなってて、机の上にはお金の缶が……。もしも出てったなら、行き先は兄さんとこだけだろうって思ったから」
少し間が空き、月峰の聞きづらそうな声が下りてくる。
「ねこちゃん……あのナイフ、ねこちゃんが持ってきたの?」
「し、知らねーよっ。俺のじゃねーもん」
目をつぶったまま首をすくめた。
無理心中しようとしていたことを知っても月峰は怒って殴ったりはしないだろうが、きっとまたすごく悲しそうな顔をするだろう。もう、そんな顔はさせたくない。
「そうなの?」
「あのでかいのが持ってたんだよ。だって俺、ホントに知らねーもん」
本当はそれが工作用に使っていた月峰自身のものであることは、見ればすぐわかるはずだった。だが荷物が整理されていたことも、缶貯金を机に置いて行ったこともそれ以上突っ込んで問い質すこともせず、月峰は「そっか」と一言つぶやいて、グッタリしている清の上半身を起こし大事そうに抱き締めた。
もう二度と会えないと思っていたのに、またこうしてここにいる。腕の中にいる。
無理心中なんかしなくて本当によかった。だってここは、とても温かくて気持ちがいい。
「ねこちゃん、痛い?」
「い……痛くない」
何だか妙な顔になっていないかと気になってしまって、相手の肩に顔を伏せた。月峰独特の陽だまりみたいな匂いがして、安心する。
「おまえって」
「うん?」
「実は強かったのかよ」
「あ……ちょっと、ボクシングやってたときあったから」
「ならなんで、最初おとなしく殴られてたんだよ」
「それはだって、人を殴ったりするのって嫌だろ? 多分俺本気で殴っちゃったら相手にケガさせちゃうと思うし。やっぱ怖いよ」
そんな優しいヤツが、清が殴られたのを見て拳を振るった。彼自身のためではなく、清のためにその拳を痛めてくれた。これまで自分のことを殴る人間は大勢いても、自分のために人を殴ってくれるヤツなんていなかった。
砂漠並みにカラカラだった胸に、小さな泉ができたみたいな気がした。そこから乾いた砂地に綺麗な水が染みていく。潤すように。
「だからって、自分が殴られりゃもっと痛いじゃねーか」
「それは、そうなんだけどね」
「バーカ」
相手の胸が少し上下したのを感じて、目を開けた。月峰は笑っていた。まだ少し悲しそうではあったが、今度はちゃんと笑顔だった。ホッとしたので清も笑おうと思ったが、もう長いこと笑っていなかったので笑い方を忘れてしまっていることに気付いた。
清が笑いたそうにしていることに、月峰は気付いてくれたのだろう。妙に不細工な仏頂面になってしまった清を、くるむように優しく抱き締めてくれた。
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