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第9話 蒲田にて(8)

 しばらく聞こえていたシャワーの音が止み、ちゃぷんという小さな水音がした。  木島は手を止めたまま、その音を聞いていた。(れん)の吐息が聞こえはしないか。だがバスルームの中は静かだった。  ついさっき、部屋の真ん中で所在なさげに立っていた怜の姿を、木島は思い浮かべる。ほんの少し顔を傾け、自分が読んでいた本を見下ろしている横顔は、今にも泣き出しそうに見えた。本に向かって伸ばしかけ、動きを止めた指先。ふわりと開いた唇が、諦めたように再び閉じる。  抱き寄せて、そのうなじに顔をうずめたかった。  バスルームのドアの向こうに怜がいる。来るかどうかは賭けだったが、怜は来た。  昨日のやり方が正解だったかどうかはわからない。怜は言葉どおり、木島が高遠と手を組んで利益を得るために怜を抱くのだと思っている。まぁそれでいいんだが。  怜を待っている間に使ったマグカップを洗い終わると、木島は床に置いてあった袋を手に取った。鍵がポケットに入っているのを確認してから廊下に出ると、反対側の隅にあるランドリーコーナーに向かう。  木島はこのホテルを使うために、水道も電気も長距離に渡って再整備させてあった。ホテルの8階には他に誰も入らないよう手も打ってある。洗濯機も、木島が指示したものが設置されていた。  カーペットの廊下を大股で歩きながら、木島は昨日の怜を思い出す。  階段から食堂へ下りてきた怜は、以前よりも凛々しく、凄みを増していた。どうしようもない影をまとわりつかせ、深く昏い沼でもがきながら、怜は生きていた。  生きていてくれた。  それがどれほどの安堵を木島に与えたか、怜は知らない。たとえ血の涙を流してでも、怜が生きていてくれればチャンスはある。  ランドリーの電気をつけ、ドラム式の洗濯機に近づく。さっきまで怜が着ていた服を袋から取り出し洗濯機に入れる。  洗剤が入っているか、ケースを確認する。  ひとつひとつの作業で気を紛らわせようとしても、木島の思考はどうしても昨日の怜のことになる。  従業員の目を盗んで2階に上がり、静まり返った部屋のドアを開ける。汗にまみれてぐったりと横たわる怜を見た時は心臓が止まりそうになった。人の気も知らないで、怜は木島から口移しで水を飲み、安心したように眠った。  そして……。  自分に必死でしがみつき、身をよじるように欲望を吐き出した怜を、木島はランドリーの片隅で反芻した。  眉を寄せ、喉を反らして喘ぐ顔を思い出しただけで、木島の腰に重く熱が溜まる。  何もかも放り出して怜を連れ出したい。ずっと腕の中に抱いて、澄んだ目で見上げてくるあの顔を見つめていたい。すべてが崩壊したこの世界の中で、唯一守らなければならない、あの目。哀しみの色は増したけれど、怜の目はまだ濁っていなかった。どうにもならないほど疲れ、腐ってしまった人間たちの中で、あの目だけが木島に生きる価値をもたらしている。  だがその前に、どうしてもやり遂げなければならないことがあった。たとえ怜に拷問のような思いをさせても、木島は引く気はなかった。  失敗は許されない。そのために、自分はここへ来たのだから。

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