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第10話 蒲田にて(9)
用意されていたTシャツとスエットを着て怜 がバスルームを出ると、木島は奥の窓際に置かれた2人掛けのソファーに座り、くつろいだ様子で本を読んでいた。てっきりベッドに上がっていると思っていた怜は戸惑い、次にどうしたものかと考えていた。
木島は本を閉じて傍の小さなテーブルに置くと、怜に手招きをした。
「何か飲むかい? ビール、ウイスキー、オレンジジュース、リンゴジュース、スポーツドリンクがあるが」
「スポーツドリンクを」
木島は怜が座るのと入れ替わりに冷蔵庫に向かい、ペットボトルとグラスを持って戻ってきた。
酒があるところを見ると、ここは木島の定宿なのだろう。ダブルベッドの向こうの執務デスクには、本と書類が積まれている。ペン立てやノートパソコンもあった。
スポーツドリンクをグラスに注ぐと、木島は冷蔵庫にペットボトルを戻し、今度はタンブラーにウイスキーを注いでソファーに戻ってきた。
本当に普通の夜。野心と欲望にまみれたようなことを言っておいて、木島は一向に怜を組み敷く気配がない。スポーツドリンクを一口飲むと、怜は途方に暮れたまま、揺れる水面を眺めた。
「……聞いていいかね」
「何でしょう」
顔を上げると、木島はじっと怜を見ていた。心の底を探ろうとするような目だ。ざわりと背中を寒気が走る。そうか。この男は高遠の上を行こうとしている。怜を懐柔し、高遠の弱みを探ろうとしているんじゃないか。怜はふとそう思った。なるほど。そちらの方が、この男の行動としては納得がいく。
「君が高遠に最後に会ったのはいつだ?」
「2年前です」
「そうか」
沈黙が下りた。
怜はスマホを持っていない。この辺りの電波事情は少しずつ戻ってきているが、怜はかたくなに一切の連絡手段を持たなかった。店の仕事のやり取りだけを店名義のスマホでやっている。
することもなくスポーツドリンクを飲みながら、怜は考えこんだ。
もし木島の狙いが高遠を排除する方向であるなら、協力する意味はある。だが『政府』の人間の場合、利権を優先して高遠と手を組む可能性の方が高いことを、怜は経験上知っていた。しかも武力闘争に慣れた男たちと違い、『政府』の人間はスーツを着て腹の底を見せない。うかつな対応はできないのだ。
木島は何を探りにきているのか。その狙いは何なのか。
本人は、そうした怜の考えなど気にもしない雰囲気で、のどかにウイスキーを飲んでいる。いつまで経っても「そういう」雰囲気にする気がないようで、怜は居心地が悪かった。
抱くなら抱くで、さっさと終わりにしてほしい。
明日の仕込みは休むと言ってきてはいるのだが、今朝も朝食の仕込みから仕事をしている。正直眠くなってきていた。
ヤケのように肘掛に頬杖をつく。向こうが何もする気がないなら、どうして呼びつけたんだ? 腹を割って話すわけでもないし。
久しぶりに風呂で温まって、水分も補給して、黙って座って。
こんなふうに平和に、何もせずにいる時間なんて、いつぶりだろう。最後にこうやってゆっくりと時間を味わったのは……。
「寝る前に歯を磨いた方がいい」
唐突に、木島が声を出した。静かな声だ。立ち上がってバスルームから歯ブラシセットを持ってくると、木島は怜にそれを差し出した。
何考えてるんだろう?
ぼんやりとセットを受け取り、怜は封を切った。眠くて、目の前のベッドに倒れ込みたい気分になっている。
「自分で磨けるかね?」
からかうような声。
「……磨けます」
適当に歯磨き粉をつけて口に突っ込む。しばらく磨いているうちに、その単調な作業に眠くなる。
「動きが止まってるぞ」
かくん、と首が落ち、はっと意識が戻る。しばらく磨くと、再び瞼が落ちていく。
「口をゆすいできたらどうだ?」
そうか、寝なくちゃ。
怜は歯ブラシを咥えたまま立ち上がった。よろよろしながらバスルームに向かうと、木島がついてくる。なんとか歯磨きを続けながら、怜は壁を探った。電気の場所がわからない。そう思っているうちに木島が電気をつけた。
バスルームに入ると、木島は何を思ったか、自分も入ってきて怜を抱き寄せ、風呂の縁に腰かけた。
「ほら、見せてごらん」
眠いまま、怜は口を開ける。木島は怜を横抱きにすると、丁寧に歯を磨き始めた。子供みたいな扱いだと思ったが、眠くて眠くてどうでもいい。
歯ブラシは怜の口の中を動き回った。歯の裏をひとつひとつ磨き、奥歯を回って表も磨く。自分で磨くのとは違い、木島に口の中をいじられるのは不思議な感覚だ。毛先が歯茎をくすぐり、プラスチックが舌を撫でる。
「あとちょっと、自分で口をゆすいで。ほら」
幼児じゃないんだから。そんなことを思いながら、渡されたコップを受け取り、怜は素直に口をゆすいだ。とにかく眠い。
木島に手を引かれ、怜は部屋を出た。どうしてこの人は自分を子供扱いするんだ?
「ん……オレ自分でできる……」
意に反して、舌がもつれて甘ったるい声にしかならない。
「そうだな。眠くなければお前は完璧だ。ほら転ぶなよ」
掛布団をめくってもらうと、怜はベッドに倒れ込んだ。何しに来たんだっけ? そんなことを思いながら、怜は目を閉じ、一瞬で寝息を立て始めた。
「まいったな……どうしてこう……」
微かな呟きが怜の耳元で囁かれ、額に唇が当たる。
「おやすみ」
柔らかい声を、怜は眠りの中で聞いた。
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