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第31話 【2年前】(16)

 データ同期でエトウが来る日になった。腕時計を見る。3時を周り、そろそろ約束の時間だった。迷路のような閉架の書庫は相変わらず静まり返っていて、サキの手元以外は真っ暗だ。エトウからは『政府』の人間を連れてひとつ前の拠点を出たというメールが来ていた。  サキは本を閉じると、それを書架に戻して立ち上がった。静かな書庫の中を歩き始める。書庫の入口は閉めてあった。鼻をつままれてもわからない暗闇。その中を、サキは慣れた足取りで歩く。人差し指の先で書棚に触れているだけで、どこをどう歩いているかわかるほど、サキはその空間に慣れていた。  事務室に入ると、サキの副官であるヤシマが手を上げる。サキはそちらへ歩きながら、その空間にいる顔ぶれをさっと確認した。 「翔也は来たか?」 「いや、まだです」  ヤシマの手元にあるタブレットを持つと、サキは壁のホワイトボードに向かう。エリアを巡回している班、監視施設やバリケードなどを作る土木作業班、建物の警備……すべきことは多い。  後ろから着いてきていたヤシマが、土木作業の進捗を指差しながら言う。 「ここの手が足りてないんですよね。公立マーケットに募集出した方がいいんじゃないかなと思ってて」 「何人ぐらいだ?」 「10人は欲しいところなんですが、何せ作業自体がキツい上に今回は境界線が割と近いので、やりたい奴が少ない……。一応、高架下はすべて塞ぎ終わってはいるんですが」  タブレットでマスクの帳簿を確認しながら、サキはヤシマに指示を出す。 「作業の場所と時間を見直してみよう。何人かが境界線に貼りついて向こうの巡回ルートと時間を分析する。それから、屋内でできる作業は近くの作業場で進めて、早朝か何か、涼しくて危険の少ない時間帯に設置場所に運んで一気に完成させる。このプランだとどうだ?」 「なるほど。シフトを見直してみます。そのプランだと募集をかければ誰か来るかもしれない」 「頼む」  戦うのは嫌いだ。だが現実問題はそうも言っていられない。各チームはすでにそれぞれのメンバーを増やし、新しく入ってきた者には銃の撃ち方を教え、組織の一員として機能するように訓練していた。サキが何も言わなくても、チームリーダーたちはこれから何が始まるのかを理解している。  レンは……GからIのエリアの警備か。あれ以来、自分からもレンには接近しないようにしているが、できれば横顔ぐらいは見たい。誰にも気づかれないように溜息をついた時、ひょいと入口からエトウがのぞき込んできた。 「来たか」 「あぁ」  手を上げたエトウは、いつもと変わらぬ気軽さで入ってきた。続けてもう一人、サキには馴染みの顔が入ってくる。 「今回はお前か、田嶋」  サキに言われると、エトウについて入ってきた『政府』の男は指先で眼鏡を押し上げた。かっちりとスーツを着込んだ、クソ真面目な雰囲気の男だ。 「残念だが、僕だ。久しぶりだな。佐木は相変わらず図書館に籠ってるのか」 「別に残念じゃないな。お前は『政府』に残る数少ない知り合いだ。大事にしないと」 「またそういうことを言う」  サキは冷蔵庫から適当にペットボトルを数本取ると、エトウとタジマを連れてグループ研修室に向かった。かつて少人数の学習や専門的な調べ物に使われていた小部屋だ。ドアにはガラスが入っていて中が見えるが、話し声は外に漏れにくい。  タジマと呼ばれたスーツの男は、入口に近い席に座った。『政府』の人間の中にはもうほとんどいない、自分が末席であることを気にしない男だ。彼は椅子に座ると、自分の鞄からウエットティッシュを出して手を拭き始めた。 「いつも思うが、図書館を拠点に使うのはいい考えだ。だがそれにしても埃っぽい」 「しかたがないだろ」  エトウが呆れた声で答えながら、ペットボトルのお茶を開ける。それを飲みながら、エトウはさっさと自分のタブレットをテーブルに出した。サキはタジマにお茶を押しやりながらペンダントを外す。  慣れた仕草で、サキはカバーを外した。防塵・防水のしっかりしたカバーの中から、USBメモリの端子が現れる。サキはそれを事務室から持ってきた自分のタブレットにまずつないだ。パスワードを入れてから、帳簿データをペンダントにコピーし、それを抜いてエトウに渡す。  エトウはそれを受け取り、持ってきたタブレットに差し込んだ。手慣れた様子でデータをコピーする。それから、タジマが出した紙切れの番号を打ち込み、エトウは『政府』の認証もその場で終わらせた。  今回の用件はそれで終わり。3人はしばらく無言でお茶を飲んだ。やがてタジマがぽつりと言う。 「懐かしいな」  それぞれが本を読みレポートを書いていた時代。疲れると、3人はよくサキの家に集まってぼんやりとお茶や酒を飲んだ。不安と絶望が肴だった。勉強に意義はあったのだろうか。3人が20歳になる前に戦争は始まり、卒業と時を同じくして戦争は終わった。授業はほとんどがオンラインで、卒業式の直前に大学は吹っ飛んだ。  歯を食いしばってレポートや論文を書いた日々に、意味はあったのだろうか。 「そういえば、先日ここが襲撃されたと聞いている」  タジマが眼鏡を押し上げた。蛍光灯にレンズが光る。 「あぁ。割と大掛かりだった。ロケットランチャーを仕入れて、ライフルも持っていた」 「資金がどこから出ていたのかは、突き止めたのか」  ペットボトルをテーブルに置き、エトウが低い声で言う。 「高遠の差し金だった。そちらに報告は上げたはずだが」  タジマはコンコンとテーブルを叩き、不満そうな声を上げた。 「奴は『政府』に多額の賄賂を渡している。おそらく、お前たちの報告は握りつぶされているだろうな。僕も、実は成田から追い払われそうなんだ。このままでは、お前たちを守れないかもしれない……すまん」  サキは頬杖をついたまま、タジマの顔を見た。 「お前のせいじゃないだろう。『政府』が腐っているのは、今に始まったことじゃない。元々あれを立ち上げたのは、エリート・コンプレックスむきだしの無能な生き残りばかりだった。昔の俺たちができたのは、当初のメンバーの中から一番使えない連中を放り出すところまでだった。しかも、俺たちがやったことは裏目に出て、追い出された連中は高遠の配下になってる。高遠がこっちを侵食してこないように、せいぜい防備を固めるさ」  重い沈黙が下りる。サキはエトウが戻してきたペンダントを受け取り、それをしげしげ眺めた。エトウがそんなサキを見ながら話す。 「結局、販売権も許可制じゃなく届出制にしないと、この状況は変わらないんじゃないか? 規制緩和ってやつだ。それに、以前言ってた警察機構の再整備はできてるのか?」  タジマが天井を仰いだ。 「まったく進んでいない。とにかく烏合の衆が会議ばかりやっている日々だ。成田に入る海外物資を独占してな。国を立て直す気なんてないのさ。クズどもの集まりだ」  最後の言葉を、タジマは吐き捨てるように言った。テーブルの上で握った拳が白い。彼はしばらく考え、静かに話を切り出した。 「なあ江藤も佐木も、『政府』に戻る気はないか? 今回は、それを話したくて僕が来たんだ。誰か強力なリーダーシップを取れる者が、独裁制を敷く覚悟で物事を一気に推し進めなければ、もう限界だ」  2人は同時に目を見開き、ホールドアップのように両手を挙げた。エトウが口を歪めて笑う。 「冗談だろ、最初のトラブルでうんざりだ。小学生の学級委員会みたいなのに付き合うぐらいなら、自分のチームを訓練して、ひとりひとりの自主性を育てた方が早いっていうのが俺と薫の結論だった。だから、こんな面倒くさい境界線争いに頭を使ってる」 「佐木は? お前もまだ江藤と同じ意見なのか? この地域の連中は学校教育もろくに受けていない。自分の名前さえ漢字で書けない者たちのために、それだけの能力を無駄にして……」  サキは答えず、お茶を飲んだ。『政府』に戻ったところで、派閥争いで何ひとつ身動きが取れないことを、サキはよく知っていた。あの集団の在り方を変えるには、戦前の価値観ではどうにもならない。 「『政府』の腐敗を直すにはかなりの強硬手段が必要だろうな。田嶋の言うことにも一理ある。誰がやるかは別としてな。ただ……」  黙り込んだサキを、2人がじっと見る。 「気になるのは高遠なんだ。奴は『政府』のことも道具だとしか思ってない。奴がやろうとしているのは……自分が支配するエリアに独裁制を敷き、配下の人間の行動を自分が管理するというやり方だ。今のような状態だと、奴のやり方が正解なんじゃないかと思うことはある」  エトウが鼻を鳴らした。 「奴が国を立て直す最短距離を行ってるっていうのか?」 「そうは言ってない。俺が言いたいのは、奴がこっちに侵入してきた時に、どこまで耐えられるかっていう話だ。『政府』は下手すると賄賂で高遠につくだろう。その前に『政府』を作り替えるか、あるいは……」 「こっちも威圧的にやる?」 「それは無理だ」  サキは断固とした口調で言った。 「俺たちに勝ち目があるとすれば、それは自主性を身につけた者たちが、俺たちを信頼して最後まで持ち場を離れないでいてくれるという、泥臭いチームワークだけだ。だが、高遠が進出してくることに対する怯えや、潜り込んでいる工作員のせいで、その構築も間に合っていない。……せめて警察が機能していれば」  3人は同時に溜息をついた。 「現状、我々の方が不利、というわけか」  タジマはまた眼鏡を押し上げた。 「成田に戻ったら、届出制にするよう提言はしてみる。それから警察については……佐木、お前が直接トップになってくれるのが一番いいんだが」  サキは肩をすくめた。 「今か?」 「今が無理なのはわかっている。高遠の脅威が去ってからでいい。江藤もだ。経済機構の再構築は、お前がいなくなったところで止まってる」 「へ~へ~」  やる気ゼロのエトウの返事に、タジマはむっとした顔になった。 「お前たち2人、少しは僕の苦労も考えてくれ。まったく」  サキは腕時計を見た。襲撃はなく、無事に今回の仕事は終わった。日が暮れる前に外の作業を見に行かなければならない。 「まぁまぁ、翔也も煽るな。田嶋、お前の有能さを信頼してるからこそ、俺たちは高遠の防衛に専念できる。一段落ついたら状況は変わるはずだ。それまで、お前なら持ちこたえられるだろう?」  大きな溜息をつき、タジマは立ち上がった。 「長くはもたない、それだけは覚えておいてくれ。江藤、帰るぞ」 「はいはい」  国の行く末を決める会議は、こうして図書館の片隅で密やかに終わった。

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