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第32話 【2年前】(17)
乾いた足音は、星の見えない夜空の下でやけに響く。男は懐中電灯を下に向け、自分が踏み出す場所以外を決して照らさないように用心していた。
深夜である。この地域をこの時間帯に歩く者は、建物の間に張られたワイヤーで首を切られても文句は言えない。身ぐるみを剥がされた首なしの幽霊の噂は、まことしやかにささやかれている。
いつの時代も人々は恐怖を想像する。そして自分の身を守ることを覚えていく。知恵を信じない者は、世界を恐れない代わりに、死を畏れる資格を失うのだ。
男は中央線に辿りつくと、かつて駅だった建物に入っていった。高架下で南と北をつないでいた広い通路は、今ではコンクリートブロックや瓦礫で塞がれ、行き来できないようになっていた。
鼻をつままれてもわからないような闇の中、男は懐中電灯の灯りを頼りに、その壁に向かった。たどり着くと、手探りで隅の一部を押す。小窓が開くと、男はのぞきこみ懐中電灯を差し込んで振った。
それに応じるように、壁の向こうで小さな車のフロントガラスが狡く光った。ドアが開く音、誰かが車から降りてくる。
境界線となっている壁のすぐそばまで、向こうの男が近づいてきた。
「いつ、どこだ」
押し殺した質問。
「9日、11時、ポイント5です」
「了解した」
会話はそれだけだった。
向こうの男は再び車に乗り込み、エンジンの音を響かせて去っていった。
残された男は懐中電灯の灯りを消し、しばらくそこに立っていた。
最初から、自分の意志を持つことなど無理だったのだ。線路に沿って西へ、そしてさらにその向こうへ、自分のことを誰も知らない場所までこのまま行けたらどんなにいいだろう。
だがそれは叶わぬ願いだった。自分は支配者に逆らうことができぬよう、骨の髄まで躾けられた犬だ。どこへ逃げても、その事実からは逃げられない。自由など、とうの昔に朽ちた夢だった。
暗闇の底で、男は立ち尽くしていた。自分の中に芽生えた不可解な感情が、その闇に溶け出て見えなくなるまで。安らぎへの憧れが、指の先から抜け落ちてくれるまで。
夜に滴る悲しみは、誰にも知られぬままに地を濡らした。男はすべてをそこに捨て、究極の愚者となるために、境界線に背を向けた。
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