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第33話 成田にて

 再整備されていない道を避けて汚染地域を迂回し、メルセデスは2時間後に成田のとあるマンションの駐車場に入った。メルセデスを降り、木島はエレベーターで5階に上がる。  玄関で靴を脱いでいると、気配に気づき客用寝室から男が出てきた。眠そうな顔で、髪がくしゃくしゃだ。190はあろうかという身長の上に、男っぽい顔が乗っている。  木島は驚くこともなく、その男に声をかけた。 「来てたのか。SPの盗聴調査は?」 「あぁ……叩き起こされて身元確認されたよ。屋島の奴、いつ見ても笑わない」  眠そうな男がホールドアップの仕草をすると、木島はニヤリと笑った。 「厳しかっただろ。あいつが調べてくれたのなら盗聴は心配ないな。今日の会議って何時からだ?」  木島が声をかけると、男はあくびをしながら答えた。 「13時半だ。昼飯食ったら庁舎まで行かないと。お前は?」 「オンラインで仕事をするから、今日は庁舎には行かないな。自分の車で行け。っていうか、そろそろこっちに家を作らないのか?」 「お前の案件が終了するまで神奈川を離れるわけにはいかないだろうが。早く終わらせてくれ。行ったり来たりは面倒くさい」 「すまん」  眠そうな顔で廊下の壁に肩を預け、男は木島がジャケットを脱ぐのを眺めている。木島は鍵を下駄箱の上のトレイに放り込むと、そのまま洗面所へ向かう。後ろから、のそのそと男がついてくる。 「……見慣れないな、その顔」  男が嫌そうに言うと、木島は含み笑いをしながら答えた。 「そう言うな。作戦行動中で、うちのチームは全員顔が違うからな。うかつにその辺で人の悪口を言うなよ」 「そんなことはしない。ハリウッド帰りを呼んだんだっけ?」 「あぁ。特殊メイクのアーティストから、チーム全員が習ってる。皆がお互いの今の顔を知らないっていうのは面白いぞ」 「どういう仕組みなんだ?」 「企業秘密だ。お前も高遠に会いたくなったら教えてやる」 「……遠慮しとく」  男は洗面所の入口に肩を預け、木島の作業をぼんやり見物していた。木島はワイシャツの腕をまくると、鏡の前で顔のパーツを次々に剥がした。  40代の顔の下から、30代前半の男が現れる。まだ若さを残した顔の男は、素顔を晒すとほっと息を吐いた。見物している男と鏡越しに目が合うと、彼は楽しそうに笑った。 「……ずいぶん機嫌がいいな。どこに行ってたんだ」  見物人の質問に答える前に、彼はワイシャツを脱いだ。心臓の近くにある大きな傷跡が露わになり、見ていた男は無意識に顔をしかめる。脱いだものを脱衣籠に放り込みながら、素顔になった男は棚からタオルを出した。 「蒲田に行ってきた」 「は?!」  見ていた男が身を起こす。 「行くなって言ったよな俺は?」 「俺は聞くだけ聞くと言っただけだ」 「ふざけんな、あいつがお前に何をしたのか、忘れたわけじゃないだろ?!」  怒っている顔をちらりと見ると、彼──木島だった男は、ぬるま湯で顔を洗い始めた。それが終わるとひげを剃る。シェーバーの音が低く響く後ろで、友人が舌打ちをした。 「……その機嫌の良さからいって、あいつと話して来たのか」 「あぁ。元気だったぞ。労働者向けの食堂を経営しているんだが、なかなかの手腕だ。農家などと直接交渉して食材の流通ルートを確保し、気まぐれな連中に、きちんとしたスケジュールで輸送させている。料理人や従業員たちも、どう人材を確保したのかレベルが高い。本人は相変わらずまともに料理ができないようだったが、食堂としてはしっかり機能している。  しかも、あいつの店を中心に商店街まで復活していた。かなりの求心力だ。大きすぎず小さすぎず、自分の目が届く規模を維持しながら、丁寧にコミュニティを形成させていっている。  ある意味、お前や俺の上をいくリーダーシップだな。人に物事を教えて上意下達で統率するタイプじゃなく、うまく協議してそれぞれが自主的に動くようにさせている。さすがだな」  後ろで見物していた男が、呆れた顔をした。 「お前な……自分を殺そうとした奴に、まだベタ惚れかよ。いいか、お前は本来、あそこで死んでいるはずだったんだ。それを忘れてないだろうな。薫」 「忘れるわけないだろうが。だから会いに行ったんだ」 「どうだか。俺がすぐ見つけられなくて、しかもヘリコプターで搬送できてなきゃ普通に死んでたんだぞ! 『政府』にコネがある身分に感謝しろ」 「お前には感謝してるさ、翔也。何度も助けてもらったんだ。それに、ヘリをすぐ回した田嶋にも感謝してる。だからこそ、今こうして『政府』で危ない橋を渡ってるわけだ」  江藤が溜息をついた。腕を組み、佐木が顔を洗うのを見つめる。 「……あいつは、お前だって気づいたのか?」 「どうだろうな。無意識のレベルでは確実に気づいている。体格や仕草は別に誤魔化したりしなかったからな。やたらと匂いを嗅いでいたから、本能では俺だとわかったはずだ」 「匂いって……まさかお前」 「さすがにヤればバレるから本番までヤれなかった。服も脱がなかったし」 「はぁ!? ヤるつもりで行ったのかお前は!!」  頭に叩き上がった江藤の怒鳴り声を涼しい顔で受け流し、佐木はタオルで顔を軽く拭いた。化粧水と乳液を顔に塗ると、今度はお湯でタオルを濡らして体も拭く。 「我慢して帰ってきたんだから、褒めてほしいぐらいだ。朝飯は食べたのか?」 「まだだ。なぁ薫、これは忠告だ。頼むから、あいつに深入りするな」 「それは聞けないな。俺は今度こそ、高遠を殺して東京と(れん)を取り戻す。奴が俺から奪ったものを奪い返して、あいつの脳天をブチ抜くのは、さぞかし気持ちがいいだろう」  江藤が溜息をついた。佐木はそんな江藤の横を抜けてダイニングキッチンに向かう。 「……変わったな。薫」 「変えたのは高遠親子だ。恨み言ならあいつらに言え。お前は、俺が怜に甘いと思っているかもしれないが、俺が怜にキレてるのは事実だ。……最後の最後に父親に踊らされたんだからな。俺も怜も、2年前の膿を出し切らない限り元の関係には戻れない。だから今回は絶対に引くつもりはない」  佐木はコーヒーメーカーをセットしながら、怜の青ざめた顔を思い出す。 ──2年前、君はあの夜、誰に何をした──  そうと知らずに佐木の指を受け入れ、切ない吐息を吐き出した怜。あの蕩けるような場所に、怜は2年間、誰の侵入も許していない。  怜に正体を明かすわけにはいかない以上、体をつなぐことはできない。だが佐木は直感していた。怜はまだ、体の奥で佐木の形を覚えている。鼻にかかった甘い声で悦びながら、怜は佐木の指に体を開き、腰を震わせて快感を受け取った。  そして……。意識を手放す瞬間に怜は声にならない声で囁き、たった一粒涙をこぼした。  無言の叫び、無音の喘ぎ。唇の動きは、確かに自分の名前だった。  怜の銃弾が自分の胸を貫いた、あの夜と同じだ。言葉にならぬ叫びは確かに届き、佐木は怜の心を聞いた。暗闇に呑まれる一瞬。二度と怜の温もりを感じることはないだろうという絶望の底へ倒れ込み、佐木はあの時一度死んだ。  2年の間に怜が東京から逃げ出さなかったことに、佐木はどれだけ感謝しただろう。病院の天井を眺めながら、佐木は誓った。二度目の人生すべてを賭けて怜を見つけ出すことを。そして父親の埋め込んだ毒のような言葉を激痛と共にあの体から抜き、再び自分のものにすると。 「で? 作戦はどこまで進行してるんだ」  江藤が冷蔵庫から牛乳を取り出しながら聞く。 「6割から7割ぐらいだ。中央線南はほとんど、以前俺たちが仕切っていたのと同じ状態にまで戻してある。奴の配下がヘマをするたびに俺の部下と入れ替えていったから、時間はかかったがな。北もかなり埋まった。俺が自衛軍と警察の両方を動かしていることを知っているのは、田嶋とお前だけだ」 「一体何人動かしてるんだ」  棚からシリアルを出し、佐木はテーブルに置いてやった。それから鍋に水を汲んで火にかける。冷蔵庫を開け、ほうれん草とベーコン、それにニンニクを出す。 「それは極秘事項だ。どこが穴になっているかは、お前も知らない方がいい。動いてる連中も、自分以外に誰が味方で誰が敵かはわからないようにしてある。顔を整形しなくて正解だった。今の方法なら、いくつも人格を使い分けられるからな」  フライパンの方でも浅くお湯を沸かし、佐木はキッチン鋏で切りながらほうれん草を放り込んだ。湯切りして水にさらす。  棚から適当に出した丼に、江藤はシリアルをざらざら入れた。彼が牛乳を注ぐと、佐木はパックを受け取り冷蔵庫に戻す。 「『お前』は今何人いるんだ?」  フライパンにオリーブオイルを入れた佐木は、ニンニクの皮を器用にむいた。そのまま、まな板を使わずにフライパンの上で切りながら落とす。香りが立つと、キッチン鋏で適当に切りながらベーコンを入れる。 「今は3人だな。4人目の特殊メイクは練習中だ。このマンションを一歩出たら素顔は晒せない。なんせ『政府』の中にまで奴の部下がいる。っと、鷹の爪を忘れた」  調味料スタンドからひょいとパッケージを取り、佐木は鷹の爪を2本入れた。ついでに鍋のお湯に塩を入れる。呆れた顔の江藤が引き出しからスプーンを出してシリアルに突っ込む。 「整形した方が楽だったんじゃないのか」 「う~ん、まぁ、かなり悩んだんだが、結局やめておいた。将来的に、今以上に怜と見た目で歳の差が出たりするのはなぁ」 「そこかよ。お前ほんっといい加減にしろ」 「大問題だろ。怜なんてまだ24なんだぞ。10歳の年の差はこっちだって気を遣うんだ」 「だから気にするのはそこじゃねぇって」  江藤は、手に負えないと言わんばかりにしかめっ面をした。 「そもそも、あいつをどうする気なんだ。自分の正体を晒してこっちに連れてくれば簡単なんじゃないのか?」 「それじゃダメだって言ったろうが。あいつは罪の意識から逃げられない。俺はまだあいつを許していない。それに高遠の野郎が生きている。決着をつけない限り、うまくいかない」 「で?」  パスタを鍋に入れ、佐木は黙ってかき混ぜた。しばらく、じっとお湯を眺めると、佐木は静かに言った。 「……怜を、作り替える。そのために俺は蒲田に行った。見ていろ、翔也。あと少しで、高遠親子は2人とも、俺の手の平の上で踊ることになる」  ぞっとするような笑顔で、佐木が江藤の方を向く。江藤の手が止まった。 「薫。お前の仕事は警察機構の立て直しだ。私情を挟みすぎない方がいいんじゃないか?」  江藤の言葉に、佐木は答えた。 「私情を挟む? 何言ってるんだ。私情を挟む程度で物事やり遂げられるか。今の俺は」  テーブルに両手をついて、佐木は江藤の顔を冷然と見おろした。 「純粋に私情だけだ。俺は何がどうあろうと今の高遠が持っている全てを奪い、奴の城が焼け落ちる中で、笑いながら奴の頭をブチ抜いてやる」  江藤は生唾を呑み込んだ。  佐木は変わった。いや、おそらくそれは違う。  江藤は思う。これが佐木の本性なのだ。2年前、燃え上がる火の中で最愛の男に撃ち抜かれたあの時、佐木の魂を覆っていた殻もまた撃ち砕かれ燃えたのだ。両親と、弟と、そしてただひとり、自らの翼の中に包み込んだ男とを失った瞬間に、佐木は己を平和の裡に押しとどめることをやめた。  文字通り、佐木はあの時に死んだのだ。  何事もなかったように、佐木の目がいつもの色に戻る。江藤に背を向け、コンロの火を消し、パスタを引っ張り上げて隣のフライパンに移す。 「翔也。お前もパスタ食べるか?」  穏やかな顔で、佐木が聞く。そうか。江藤は心の中で呟いた。両親と弟が死んだ夜も、怜に撃たれて1週間後に意識を取り戻した後も、佐木は泣きもしなければ怒りもしなかった。感情が抜け落ちた顔で、佐木は何日も、何日も口をきかなかった。  血の涙を流しながら、悲しみの底で佐木は狂気を育て続けた。 『決着をつける』という言葉の意味を、江藤はやっと理解した気がした。  悲しみの底に穴を穿て。すべての力を一点に込めて、狂気の槌を振り下ろせ。愛さえ道具にして、佐木は高遠を殺すだろう。  だが。  佐木はきっと戻ってくる。佐木自身が、溺れる自分に気づき助けを求めているからだ。狂気の一瞬を江藤に見せたのは、暴走した時に命がけで止めることができるのが江藤だけだからだ。怜に執着するのは、全てが終わった時に最後に残る拠り所だからだ。  佐木に気づかれないように、江藤は息を深く吸った。  戻ってこい。すべてを終らせ、お前は怜を連れて戻ってこい。 「俺の分もあるんだろうな」 「どうせ食べるって言うだろうと思って、2人分作ったぞ」 「じゃあ食べなきゃ余るだろうが。寄こせ」  振り向いて、佐木が笑う。 「皿を出してくれ」  立ち上がって棚に向かいながら、江藤は佐木を横目で見る。 「俺が手伝えることは他にないのか?」 「あるに決まってる」  ほうれん草を放り込み、パスタを仕上げながら佐木は感謝の目で江藤を見た。 「お前も満足できる、とっておきの役をやってもらう」 「何だ?」 「怜を吊るし上げろ。裏切りを許すな。あいつの食堂ごと容赦なく追い詰めて、蒲田をお前の統括エリアとして奪い返すんだ」 「了解」  ニヤリと笑って見せると、佐木は同じように笑い返した。

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