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第39話 蒲田にて(20)

 静かだった。  浮かび上がるように意識を取り戻した(れん)は、ぼんやりと天井を見つめた。  見覚えのある場所だ。木島の部屋だと気づいたとき、柔らかく頬が撫でられた。 「起きたか?」  もう見慣れた顔が怜をのぞきこみ、手の平が額を包む。顔を動かして周囲を確認する。怜はダブルベッドに横たえられ、木島はその隣にいた。背中に枕を挟んでヘッドボードに寄りかかり、仕事をしていたらしい。  書類を見ながら、木島の手は怜の額から頬へ移動した。熱を分け与えるように、その手は怜を包んだままだ。 「水を飲むか?」  書類の一番下まで読み終わると、木島はバサリとそれを置き、サイドテーブルのペットボトルを手に取る。 「起きて自分で飲めるか? それとも」  怜は横向きのまま、ベッドに手をついた。だが力を入れようとした途端、腹と首に痛みが走った。それだけではない。全身がズキズキして、手にも力が入らない。 「無理をするな。飲ませてやる」 「……口移しはごめんだ」  含み笑いの気配に、怜は顔をしかめた。とにかく起き上がらないと。  木島は怜の脇の下に手を差し入れ、軽々と怜の体を起こした。自分と同じようにヘッドボードに背中をもたせかけるようにし、枕を挟みこんでくれる。 「ほら。これで飲めるか?」 「……ありがとう……ございます」  ペットボトルを渡され、怜は苦労して蓋を開けると、ゆっくり飲んだ。自分は何をしていたんだろう。妙に曖昧な記憶の中で、江藤の目だけを鮮明に思い出す。グロックは持って行かれてしまった。  あぁ……オレは、もうあの人を思い出すことさえも許されていないんだ。  江藤もまた親友を亡くしたのだ。グロックは持つべき者が持ち去った。動くたびにギシギシと全身を縛る痛みを、怜はやり過ごすために目をつぶった。  ああやって痛めつけられたことで、怜には奇妙な安らぎが訪れていた。正当で公平な処罰を受けたという気分。  水は、怜の喉を通り過ぎて胃へと下りていく。飲み込むときに喉が痛むが、怜はそれもまた受け入れた。痛みは自分にふさわしい。食堂に戻って、皆に謝らないと。そうして別れを告げて江藤の所へ行こう。拷問でもしてもらえれば、自分はきっと楽になる。  ぼんやりとそんなことを考え、怜は感情を失くした顔でペットボトルを眺め、ただそこにいた。  誰もいないこの世界で、自分の役割は何もない。罪だけを背負って生きるのは、もう疲れた。処罰が欲しかった。江藤が殺してくれなければ、自分でどこか高い所に行けばいい。一歩、足を踏み出せば終わる所へ。 「怜」  たったひとつの名前を呼ぶことはできないまま。それでいい。汚れた舌に、あの人の高貴な名前は載せられないのだ。 「怜。こちらを向け」  ぼんやりと横を向く。木島が無表情なまま、ペットボトルを怜の手から取る。それをサイドテーブルに戻しながら、木島は静かに言った。 「私と君との間には、ある程度の人間関係が出来てきていると信じて言うのだが……。2年前に何があったのか、話してみないか。話すことで解決策が見つかる場合もある。私はただ、君の心の内が知りたいだけだ。不利益を与えるつもりはない」  黙ったまま、怜は木島を見た。穏やかな目をしていた。何かを知っているような、労わりの目。最初から、木島は怜の心の中に入ってきた。あの人とよく似た目だと思う。同じような匂い、似たような仕草。  何者なのか全くわからないのに、ただ懐かしい感覚だけを与えてくる木島に、今の怜はすがりたかった。抱いてほしい。何もかも忘れられるように。  だがそんな逃げが通用しないこともわかっている。怜の悲しみと罪は、怜以外に誰も背負えない。  木島の手が伸び、怜の肩を抱き寄せた。怜は、されるがままに木島の肩に頭を預ける。 「……海を見たことがあるかね?」 「ちょっとだけ。仕入とかで」 「そうか。今から見に行かないか?」 「いいえ……体が痛いから、動きたくない」  毛布に手を伸ばし、木島は怜をまた包み込んだ。 「行こう。暗い海は、私も好きなんだ」 「暗い海が?」 「あぁ。どうにもならない感情を沈めてくれる。私の首につかまれ。エレベーターを整備しておいてよかった」  囁くような声に、怜は素直に木島の首に腕を回した。 「それでいい」  微笑んで、木島は怜を抱き上げた。

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