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第40話 蒲田にて(21)
小さな公園のベンチに座り、怜 は海を見ていた。遠くに漁船らしき光が微かに見える。誰かがあそこで生きているんだ。そんなことを思いながら、怜は膝を抱えこんだ。
ちゃぷちゃぷと水がコンクリートに当たる音が、足元でずっと響いている。辺りは真っ暗だったが、少し離れた所に自動販売機があって、その光で周囲はなんとか見えた。木島は当たり前のようにメルセデスから懐中電灯を出し、もたつきながら自力で歩こうとする怜の手を取って、ここまで連れて来てくれた。
ほんの少し「東京」から離れただけなのに、ここには自動販売機がある。誰も銃で撃ち壊して金を盗んだりはしないし、電気も中身も管理されている。
自分が住んでいる場所はとても小さいのだと、怜は改めて気づいた。群馬や茨城まで食材の調達に行ったことは何度もあるのに、仕事を離れてこうして何もせずにぼんやりと海を見ていると、色々なことに気づく。
封じてきた感情が少しずつほどけてきていた。怜は黙ったまま、かすかに光る黒い水を眺める。木島の言うことは正しい。持て余した感情を水は受け入れ、溶かしてくれる。底が見えない水を見るのは心地が良かった。足を浸し、静かに底へと沈んでいけたら、水はきっと怜の体をも溶かし、その罪を甘く包んでくれるだろう。口から出ていく命の泡は、美しく怜を殺してくれる。
「気に入ったかね?」
後ろから、木島が静かに言った。
「うん。死ぬときは高い所から落ちようって思ってたけど、水の中に入るのもいいかも」
「そのアイデアは詩的だが、現実には君の死体はどちらも醜いものになる」
「別に。死んだらもうオレはそれを見なくてすむ。それに……醜い方がいい。それが本当の形だ」
「そうか」
木島はベンチを回りこみ、怜の隣に座った。
「そこの自動販売機で買って来た。持っていろ。温まる」
ペットボトルを受け取ると、それは熱いほどだった。怜は抱え込んだ膝と胸の間にそれを入れると、毛布を引っ張って体全体を包んだ。
何分、そうしていただろうか。
眠気を誘うような水の揺らぎを見ながら、怜は最後の瞬間を思い出していた。
怜とあの人以外誰も知らない、たったひとつの真実。
自分が撃った時、あの人の目は怜を責めてはいなかった。驚きも、怒りもなかった。ただ、怜の弱さを理解し、2人の関係が終わることに耐え難いほどの哀しみを滲ませて、あの人の目は閉じられた。
2年。
怜の目尻から、涙が落ちる。音もなくそれは流れ、顎を伝い、毛布に浸み込む。自分は確かに愛されていたのだという絶望は、怜の首に絡みつき、彼の名前が喉を通ることを許さない。
「……あの人は、死ぬ瞬間までオレを責めなかった。……責めてくれればよかったのに」
憎み合って別れたのなら、どんなに楽だっただろう。あのグロックが戦利品であったのなら、怜は悲しみの沼でもがく必要はなかったのだ。
「あの人?」
闇の奥から、木島が穏やかに聞く。涙は止まらなかった。それは風に吹かれて怜の頬を冷やしながら、毛布を濡らす。沼へ涙を注ぎ込みながら、怜は海を見つめ続ける。
「オレは……どうしてあの瞬間に、オレの心を信じなかったんだろう」
そうだ。それこそがあの夜の核心だ。
あの人はすべて見ていた。
絶望を分け合ったまま、怜と彼とは永遠の闇に隔てられている。木島がそっと怜を抱き寄せた。
「言ってごらん。怜。あの夜、お前は……誰を愛した」
頬が木島の胸に当たる。懐かしい匂い。決して触れられない肌。秘めやかな場所を穿つ楔。
髪が撫でられる。
「泣いていい。すべてを吐き出したら、きっと何かが変わる。怜。私はただ……お前の真実の言葉が聞きたい」
こらえきれず、怜は木島の胸に手を伸ばした。必死ですがりつく。子供のような嗚咽が胸から溢れる。それなのに、しゃくりあげても、しゃくりあげても、名前は喉から出てこない。抱き締められ、怜は泣きじゃくった。
「大丈夫だ。声を出してごらん。お前はまだ、息をしている。なんでもいい、声を出すんだ。そうしたら」
「あ、あぁ……」
「いい子だ。怜。お前には価値がある。あの夜、お前が信じなかったお前の価値を、取り戻すんだ。怜」
「か」
木島の手が、怜の頭を包み込んだ。慈しむ唇が、怜の髪に口づける。息を吸いこみ、怜は死に物狂いで喉を震わせた。
「かおるさ、薫さん」
喉から名前がほとばしる。2年間、決して音にできなかった響きが水面を揺らす。
「薫さん、オレ」
「大丈夫だ。怜。頑張ったな。名前をちゃんと言えたじゃないか」
「かおるさ、ごめんなさい、ごめ……」
しゃくりあげながら、怜は木島にしがみついた。誰でもいい、支えてもらわなければ崩れてしまう。そうして怜は、気が済むまで泣いた。2年分の涙を流し切るまで。
すべて流し、悲しみの沼が満ちたとき、怜はその縁に佇んだまま、じっとそれを見つめた。木島は辛抱強く待った。溜め込んでいた感情の激流が収まった時、怜はようやく、ぽつりぽつりと語り始めた。
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