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第55話 【2年前】(32)

 部屋に入ると、レンは無言のままずんずん奥へ進んでいく。部屋の隅に辿りつくと、どさりと座り込み、頭を抱えて溜息をついた。 「……悪かった。頭にきたから、つい」  サキがそう言うと、レンは首を振った。 「違う。サキさんじゃない。あいつ……ほんとに頭がおかしいんじゃないか」  見れば、レンの手は小刻みに震えている。 「怖かったのか?」  サキが聞くと、レンは激しく頭を振った。 「あんな……あんな奴、ほんとに、なんで……」  異様に見開いた目が、宙を睨んでいた。わなわな震える唇が何かをぶつぶつ呟いている。その尋常ではない嫌悪感を、サキは不審に思った。レンはここに来る前からタカトオを知っているのではないか。今までその疑念はサキの視界の隅を漂っていたのだが、レンの様子を見ているうちに、本格的に考えなければならないものとして、はっきりと形を得てきていた。  しばらく思案していたサキは、キッチンへ入っていった。弟が学校から帰ってきて落ち込んでいた時によくやった手だ。カップラーメンを2つ手に取り、サキはキッチンのカウンター越しにレンに声をかける。 「なぁ、晩飯を食い損なって腹が減ったんだが、お前も食べるか?」  のんびりとした声音に、レンはふっと気を取られたようだ。何が起こっているのか、よくわからない顔でサキを見る。 「カップヌードル、2種類あるけど、お前はどっちを食べる?」  ぱちぱち、と数回瞬きをしてから、レンは戸惑った顔になった。質問が脳に届いたものの、処理ができていない。 「あ……?」  にっこり笑って手招きをする。 「来いよ。お湯を沸かすから、その間にどっちがいいか考える時間がある」  のそのそとレンが立ち上がり、キッチンへやってきた。まだ心が戻ってきていない。 「ゆっくりでいい。ほら、蓋を開けてごらん」  レンはおぼつかない手つきでフィルムを取ると、容器を見つめる。次にどうするんだっけ? そんな顔で手元をじっと見つめる。サキは辛抱強く待った。少しずつ、レンの目に光が戻ってくる。丁寧に蓋を剥がし、中をのぞきこむ。小さな仕草が現実へとレンを導き、お湯が沸く頃には、レンはどっちを食べるか考えている顔になった。  両方にお湯を注ぐと、サキはレンにプラスチックのスプーンを渡した。 「向こうで食べよう。どっちか決められなかったら、半分食べて交換しよう。そうしたら両方味わえる」  こくん、とレンが頷いた。手前のものを手に持つと、そろそろと運んでいく。少し幼く見える背中に、サキはついていった。  温かい麺を2人並んですすっているうちに、レンは少しずつ落ち着いてきた。前日と同じようにマットレスの外に空容器を置くと、サキはレンの肩を抱き寄せた。抵抗するかと一瞬思ったが、レンは眠そうな顔でサキの肩に頭を預け、ぼんやりと虚脱した顔をしている。 「ここを出たら……ラーメンが食べたいな。レン、お前は?」 「ラーメン、いいですね……」 「どんなラーメンがいい?」 「塩味、かな。あんまりしょっぱくない、優しい味がいい」 「そうか」  ひとまず戻ってきている。  さて。  考えながら、サキはレンと穏やかに話した。 「そういえば、長野で育ったって言ってたな。お祖母さんのコロッケが好きだったって」 「えぇ……食べたいな」  声音に悲しみがよぎった。図書館の片隅で見たのと同じだ。サキはレンの祖母が生きているのかは聞かないことにした。 「生まれたときから長野にいたのか?」 「いいえ。生まれたのは世田谷とかって聞きました。母は父と結婚したんだけど、なんていうか、ずっと殴られたり、嫌なことを言われたりしてたんで、生まれたばかりのオレを連れて実家に逃げたって」  モラハラとDV。よくある話ではあるが。世田谷ね。確か奴の家も世田谷だった。 「母は看護師の仕事をしながら、祖母と一緒にオレを育ててくれて。戦争の間も、あんまり考えないで暮らしてた。でも戦争が終わって2年くらいかな? その頃に……父が転がり込んできた。それからの生活は、ずっと母もオレも罵倒されて、お金は全部取り上げられて。役立たずとか、料理も掃除もまともにできないとか、頭が悪いから自分の言うことだけ聞いていればいいとか。4年ぐらいしたら母と祖母が……よくわかんない病気と事故で死んで、オレはあいつに引きずられて埼玉に連れてこられて……『政府』の知らないおっさんからペンダントをもらってこいって、言われて、その時初めてその、男の人と」  ヒクッと、おかしな声が喉から漏れると、レンは口を引き結んだ。暗い目だ。サキは、自分がなぜこんなにもレンの目に惹かれるのかを理解した気がした。レンもまた、夜の底でもがいている。抜け出せない悲しみの沼に足を取られている。  サキはレンの肩を抱き締め、励ますように軽く叩いた。 「もういい。無理はするな」 「ずっと、話さなきゃいけないって思ってました。図書館で……ばあちゃんのコロッケのことを話した時から。全部話したら、オレはもう、サキさんと一緒にはいられない」  仕組まれていた。  それをサキは確信した。あの時ちらりと思ったことは当たりだったわけだ。レン自身が、サキの元へ送りこまれた爆弾として機能している。残酷なタイマーは時を刻み、サキを陥れるために、狙いを定めて点火された。 「それは……お前の父親が奴だからか」 「えぇ。そうです」  思い詰めた顔で、レンは膝を抱え込んだ。 「ずっと、言わなくちゃいけないのに、言えなくて。あんな、あんなのが親、とか。オレみたいなの、サキさんを……好きになったら迷惑だって。自分の気持ちさえ利用されて、オレはあの狂った男に、人生を……操られてる」 「お前は……指示されて動いているのか? 今回も、俺が言ったことを報告するように指示されてる?」  レンは沈んだ顔をした。 「あいつは何も言わないで、裏から手を回してオレを移動させるんです。今回も、最初は気づかなかった。さいたまで人間関係がこじれたから、オレはあそこに居づらくなった。そうしたらグループの人が、『中央線南のグループに知り合いがいるから紹介してやろうか』って言って。中央線南はあいつとは敵対しているって聞いてたから、今度こそ逃げられるなんて……間抜けなことを考えて、オレはその話に乗った。ここに捕まって、初めてあいつは指示らしい指示を出した。サキさんをたらしこめって」 「じゃあ俺との……あれは?」 「あれはその、オレの意志です。さいたまと違ってサキさんの所は楽で、関東に来て初めて息がしやすくて、それで……本当に……ごめんなさい。最初っから最後まで、オレはちゃんと物事を考えないバカだ」  さいたまの一件については、サキにも報告は上がっていた。だからこそ、サキはレンが自分に敵意を抱かないようにという注意は一応していた。  実は今まで、タカトオや他のグループが送り込んできたスパイは大量にいるのだが、サキはいつも、情報を集めるだけで特別な手を打たなかった。ただ、メンバー同士の風通しをよくし、居心地のいい場所を作ることにだけ集中した。  スパイたちは結局、サキの敵に忠誠を尽くすのがバカらしくなり、こちらのグループに馴染んでいった。性格に問題があってトラブルを起こす者は、スパイかどうかに関係なく長居できない。誰かをパシリにしたり、いじめたりすれば、サキにつまみ出されるからだ。 「権力闘争が激しい中で頭を使わない者は、それだけで悪いとされた時代はあった。あの男の息子として、お前は確かにのんびりしすぎていたかもしれない」  レンの顔が泣きそうになった。 「でも、俺は悪いとは思わない。お前みたいなのが屈託なく笑って眠れる場所は必要だ。お前も……気づいてるんだろう? お前自身も奴の被害者だと。お祖母さんとお母さんが普通の死に方じゃないって、薄々わかっているんじゃないか?」  青ざめた顔のまま、レンは下を向いて黙りこんだ。唇が震えている。何かを言おうとしても、言葉は出てこない。喉がびくびく動き、嗚咽のような音が漏れていた。  サキはゆっくり立ち上がり、ミネラルウォーターを持ってくると蓋を開けレンに渡した。 「飲んだ方がいい。気持ちが楽になる」  震える手で、レンはそれを受け取る。ペットボトルの中で、水は荒波のように揺れていた。レンは震えを押さえるように両手で持ち、こぼしながらそれを飲んだ。  サキはじっと待った。何を言っても、言葉は役に立たない。今できるのは、ただ横に座り、レンが流す涙に気づかないふりをすることだけだ。  手の震えが落ち着き、レンが疲れたように溜息をつくまで、サキは待ち続けた。天井を見上げ、静かに聞く。 「つまり……お前は俺のグループへ来た時、奴から逃げられたと思っていたのか?」 「えぇ」 「行動パターンが読まれてるんだろうな。奴のやりそうなことだ」 「スパイだって思われても、仕方ないって気づいたけど、言えなくて」  鼻をぐすぐす言わせながら、レンが言った。 「他の人間はどうだか知らないが、俺も奴とは付き合いが長い。だから、お前自身はスパイのつもりじゃなかったんじゃないかとは思う。親子と言っても別な人間だ。あいつがクズだからって、お前もそうだとは限らないわけだし、あいつの人生のツケをお前が払う必要はない」 「でも、サキさんは」 「まぁ確かにお前は餌に使われ、俺は一本釣りされたわけだが、俺はそれを理解して自分でこっちに来た。あいつの弱点が知りたかったし、情報を集めて仕掛けるタイミングを見たかったからな」 「そうなんですか?」 「あぁ。一本釣りなんて、かわすのは簡単だ。俺がここにいるのは、俺の意志だ。お前が気に病むことはない」  気の抜けた無表情な顔で、レンは膝を抱え込んだ。 「……疲れたなぁ」  ぽつんとそう漏らして、レンは目を閉じた。サキの肩に重みがかかる。ほんのひと呼吸で、レンは熟睡していた。 「よく……寝るなお前は」  微笑んで、サキはレンを抱えて横になった。レンが体を丸め、サキの胸に猫のように頬をすりつける。 「おやすみ」  レンのこめかみに唇をあてると、サキは自分も穏やかな眠りに身を任せた。

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