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第54話 【2年前】(31)
最悪の食事を実に美味そうに終えたタカトオは、スマホで部下を呼び出した。
待っている間も、部屋には変わらずモーツァルトが流れている。
「薫。お前は次に何が聞きたい?」
「俺は自分の部屋に帰って寝たい」
「まぁそう言うな」
タカトオの目は、ねっとりとした昏い熱に浮かされていた。勘弁してくれ。サキは心中うんざりだった。
30代だろうか。ひとりの部下が音も立てずに入ってくると、部屋の入口に黙って立つ。そいつは何事も見逃さない冷たい目で2人を見張っている。
そちらには目もくれず、タカトオはサキを見ていた。視線を外さず、ゆっくりと腰から銃を抜き、レンの額に狙いをつける。
「答えろ薫。お前のためのコレクションは揃っているんだ。遠慮しなくていい。次は何の曲をかけようか?」
食後ののんびりした趣味の話。口調だけは、あくまでもそういう雰囲気だ。銃で脅し、部下を後ろに控えさせた命がけのシーンを演出しているというのに、穏やかな物腰。そんなタカトオは不気味だった。銃を突き付けられたまま、レンが戦慄している。その緊張感はサキの肌にも伝わって来た。
仕方ない。サキはバカにしたように鼻を鳴らして答えた。
「……シベリウスのフィンランディア」
聞いた途端、タカトオはゲラゲラ笑いだした。腹を抱えて笑い転げ、涙までこぼしている。レンは、頭がおかしい人間を見るような目つきで座っていた。ひとしきり笑うと、タカトオはレンに言った。
「わかるかね。これが教養だよ。当意即妙の受け答え……当意即妙の意味はわかっているか? その顔からいくと、わからないようだな。時代は変わったんだ。頭の出来が悪い者は無条件で国家機構の部品となる。古い古い身分制度は既に復活しているんだ。専制君主制がこの国に再び立ち上がる。よくわかってるじゃないか。薫」
「きもっちわる」
ぼそっとレンが呟いた。
「まぁそういうな。怜。お前程度の者でも理解できるよう、教えてやる。『フィンランディア』は1899年、フィンランドが帝政ロシアの圧政に虐げられ、独立運動が起こっていた時期に、フィンランド人の愛国心、独立心を励ますために作曲された。お前には帝政ロシアもわからんだろうが」
サキは苦虫を噛み潰した顔で座っていた。
「教養っていうのは、知らない奴をバカにする道具じゃない。高遠。お前みたいなのを『品位に欠ける』っていうんだ」
ゴリ、と音がした。タカトオは今度はサキの額に銃口をねじ込んでいる。その口の両端がニィィと上がっていた。笑みを浮かべながら、タカトオのオーラは激烈な怒りに満ちている。
「低俗な連中に紛れ込んで暮らすのがお前の在るべき姿だとでも? トルストイ気取りで野垂れ死にでもするつもりか。薫。お前がその気になりさえすれば、この国の王になれる。私を全力で倒し、すべてを手に入れるべきなのに、お前は小さな図書館の闇の奥で隠遁生活を送り、哲学者となることを選んだ。歯がゆくてならないよ。私は……お前が私を殺しに来るのをずっと待っているというのに」
サキは返事をしなかった。額から赤い血が一筋、顔の中心を流れていく。命がけのこの時も、サキは黙って座っていた。深い心の奥でタカトオを蔑み、その人生を憐れみながら。
「高遠。俺は、俺の人生を生きている。お前みたいに誰かより上だとか下だとか、誰かに犯してもらいたいとか、そういう、他人に構ってほしくてたまらないっていう発想はしてないんだ。世間がいいと思うかどうかで『いい』物を決めるようなお前に教養を語る資格はないんじゃないか? お前がどんなに望んでも、俺は、お前のために使う時間なんか無駄だとしか思えない。誰が何と言おうと、俺はお前の歪んだオナニーにネタを提供する気はないし、お前の性感帯なんぞ知るか」
ガァン! 凄まじい発砲音が轟き、レンもサキも咄嗟にテーブルの下に潜りこんだ。入口の部下もうずくまっている。
耳を押さえて、レンがわめいた。
「なんっで挑発なんかするんです?!」
「知るか! 帰るぞレン」
もう一発! テーブルを貫いて床に銃弾が突き刺さり、線のように光が走った。
パニックを起こしながらレンがテーブルから飛び出した。後ろからサキもついて行く。
「じゃあな高遠! ペンダントが欲しけりゃ自分で図書館の本を一冊ずつ読むんだな!」
廊下を走り抜ける後ろで、タカトオが獣のように吠えている。レンを外に押し出し、サキが玄関ドアを閉めると同時に、バキィン!という金属音が響き渡った。どうやらスチールのドアを撃ったらしい。
泡を食ったようにタカトオの配下が駆けてくる。サキはそいつらに怒鳴った。
「まだ逃げずにいてやる! 仕事ヘマして殺されたくなければ、監禁部屋に戻るまで俺たちに触るな!!」
全員を圧倒する声だった。しんと静まり返った通路をサキはずかずか歩き、レンがそれに必死でくっついて行く。見張りを押しのけて階段を下りると、サキはさらに集まってきていた部下たちを睨み回した。
ぎろりと見られた部下が一歩下がる。順番に連中が道を空ける。不機嫌な顔のまま、サキは監禁部屋のドアを開けた。レンを促して先に部屋に入れると、最後にもう一度サキは、エレベーター前の広い空間に集まった部下たちを傲然と見渡した。
「いいか。俺たちはまだ、人質でいてやる。だが俺たち2人を傷つけたりしてみろ。脱出のときにはそいつが最初に首を狩られることになる。わかったか!」
バン!と音を立ててドアを閉め、サキはようやく溜息をついた。
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