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第53話 【2年前】(30)

 その日の夜、タカトオは自分の部屋へサキとレンを連れてくるよう部下に命じた。後ろ手に手錠で拘束され、首と腰を鎖で繋がれ、さらに武装した部下たちに取り囲まれるという物々しい警備体制で移動させられたサキは、タカトオの部屋に入るなり、大げさに顔をしかめた。荒涼とした下界とは、あまりにも雰囲気が違ったからだ。  部屋の入口で、サキは首輪を残してすべての拘束を解かれた。手首をさすりながらリビングを見渡したサキは、一言「帰ってもいいか」と呟いた。うんざりした顔だ。 「気分はどうかね?」  サキの言葉を無視し、ダイニングテーブルに軽く頬杖をついたまま、タカトオは声をかけた。 「お前の顔を見たら最悪になった」 「まぁそう言うな。約束通り、一緒に夕食でもどうかと思ってね。座りたまえ」  ふんと鼻を鳴らすと、サキは堂々とダイニングテーブルへやってきた。レンは先に移動させられ、所在なさげに小さく座っている。サキは仕方ないという顔で隣に座った。  テーブルには豪華な夕食が並んでいた。シャリアピンステーキに付け合わせのポテトとブロッコリー、コーンスープにバケット、サラダ。レトルトではなく、おそらくは、きちんとした料理人に作らせたもの。  優雅なクラシック音楽が流れ、ほどよい明るさに調節されたムードのある室内はレストランのようだった。  タカトオは楽しそうな顔のまま、ワインクーラーのボトルを持ち上げた。ソムリエナイフでキャップシールを外し、コルクを抜く。慣れた仕草だった。サキが呆れた顔でそれを見つめ、レンは俯いたまま動かない。  タカトオは自分のワイングラスに赤ワインを注ぐと、何も言わずにレンのグラスに注ぎ、サキのグラスにも注ごうとした。サキが手でふさぐ。 「俺は飲まない。飲みたければ勝手にひとりで飲め」 「いいワインなのだがね」 「いいか悪いかじゃない。お前に殴られたおかげで、こっちは鎮痛剤を飲んでるんだ。お前本当に医者か?」  タカトオの顔は笑っているが、目は笑っていない。 「私が飲めと言っているんだ。自分の立場を自覚することだな」 「体力を温存してお前の首を絞めなきゃいけないんだ。自分の立場はしっかり自覚してる」  奇妙に熱を帯びたタカトオの眼差しが、サキの鋭い目を見返した。しばらく見合うと、タカトオは無言でボトルをクーラーに戻す。  氷が軽やかな音を立て、水が光を反射して微かに煌めく。タカトオの、優雅に仰向いた人差し指がするりと伸び、斜めにクーラーから突き出ているワインボトルのネックをなぞり上げた。指先はそのまま、ボトルの先端の膨らみをクルリとなぞる。赤いワインがひとしずく、ボトルの先端からタカトオの指先へ移った。ふっくらと赤いワイン。タカトオはそれを舌先で舐めた。人差し指がほんのわずかな時間、下唇に留まった。 「私の注ぐものが飲めないとは、残念だ」  サキが黙ったまま露骨に嫌な顔をすると、タカトオの顔がさらにほころぶ。 「あぁ……薫。お前は昔から、実にイイ顔をするな」 「ほんっとイカれてる」 「ふふ……ずっと楽しみにしていたんだ。こうしてお前と向かい合って夕食を共にする。何度も何度も、この状況を夢に見た」 「そりゃどうも。待ちすぎて総入れ歯になったか? シャリアピンステーキってあれだろ? じじいのオペラ歌手が入れ歯ガタガタでも食べられるように考えられたメニュー」 「さすがだな。お前がそう言ってくれると思ってこれにした甲斐があった。本当に、物覚えがいい。今聞いている音楽は?」 「モーツァルトのディヴェルティメント、ケッヘル136。いい加減にしろ」  隣のレンに真ん丸い目で見上げられ、サキはむっつりと口をつぐんだ。面白そうに、タカトオはレンに話しかける。 「聞いたかね? 薫は子供の頃から優秀だった。この子が生まれた時、私は」 「黙れ」 「母親にブリタニカのディスクを送ろうとして断られてしまってね」  ぎろりと睨むサキを受け流し、タカトオはステーキを食べ始めた。 「プロに作らせたものだ。冷めないうちに食べてくれたまえ」  レンは全く食べる気になれないようで、黙りこくったまま再び下を向いた。膝に置いた握り拳が、力を入れすぎて白くなっている。サキは盛大な溜息をつくと、ヤケを起こしたようにスープを一気飲みした。 「やれやれ。お前たちは、ことごとく私の好意を無駄にしてくれるな。現在の東京でこんなに美味い肉はめったに食べられないというのに」 「他人を搾取して食べる肉はさぞかし美味いだろうよ。レン、食べたくないものは食べるな」 「レン、か。薫、お前はその子に目をかけているようだな」 「一緒に人質になったんだ。助け合って人質生活を乗り切るのは当たり前だろ」  レンの肩は、見て分かるほど震えていた。蒼白になりすぎて、卒倒しそうな勢いだ。タカトオはワインを飲みながらレンをちらりと見る。 「楽しみたまえ。美味い料理、美しい音楽。こうした場面に合わせて振る舞うことができないとは」 「食事で一番大事なものがわからん奴がほざくな」 「薫、お前もだ。わざと粗暴な振る舞いをすればするほど、私は楽しくて仕方がない。私の人生はお前たちの低俗な意識の上に成り立っている。この食事には何が足りないっていうんだ?」 「リラックスできる相手だ。なぁレン、こいつの顔を見ながら食事なんて不可能だ。帰ろうぜ」  ワイングラスを置くと、タカトオはうんざりした顔で手を振った。 「怜、下の部屋へ戻れ。もういい。私は薫と2人で話がある。食事ができないのなら、いなくていい」  焦った様子でレンが顔を上げた。何か言おうと口をぱくぱくさせ、唇をぎゅっと噛む。しばらくじっと考えた末、レンは深呼吸をした。右手の拳を左手で押さえつけながら、レンは顔を上げ、タカトオを見据えながら言った。 「ここにいる」 「そうかね」  肩をすくめると、タカトオはワインを飲み、ステーキを口に運ぶ。 「ところで薫。江藤に直接連絡しなくていいのか? こちらにペンダントを持って交渉しに来るよう電話するなら、スマホを貸すが」 「あぁ、既に話し合ってある。俺を切り捨ててあいつは組織を立て直す。俺はしがらみを全て切り、お前を殺して脱出する」 「はったりだな。江藤がお前を見捨てるとは思えん。どうだろう。そこの怜を下の連中に与えてやろうかと思っているんだ。飢えた男共に奉仕させられるのは不憫じゃないかね」  レンが低い声で言った。 「やれるもんならやってみろ」  その声には意外にも静かな迫力があって、サキは思わずそちらを見た。テーブルの下では、変わらず拳を握っている。だがレンはタカトオを必死で睨み据え、簡単に思い通りにはなるまいとする意志を見せていた。  それは、サキが初めて見るレンの姿だった。普段は見せない強く鋭い目を、レンは錐のようにタカトオにねじこんでいる。タカトオが目を細めた。 「ほぅ……口答えするか。弱くてもプライドはあると見える。いいことだ。そのうち、実際に下に放り込んでやろう。気が強ければ強いほど、プライドを根元から折れば自分から足を開くものだ」  レンの拳が白く震えていた。サキは気づいた。レンのこの姿は怯えじゃない。煮え立つほどの怒りだ。無力な自分と、それを徹底して嘲り虐げる者への怒り。レンはそれを壮絶な努力で押さえつけている。今タカトオの挑発に乗ってそれを解き放つのは不利だと理解しているのだ。  サキは手を伸ばし、レンの拳を軽く叩いた。はっとした顔がサキを見る。その目が見開かれ、一瞬泣きそうに歪む。 「やれやれ。見ていられないな。薫。こいつの代わりにお前が闘技場に出てもいいぞ。いずれにしても、残り6日。お前の配下の者がペンダントを持ってこなければ、お前たちは私の好きに扱ってやる」  2人は同時にタカトオを睨んだ。タカトオは片眉を上げるとステーキの続きに取り掛かる。  どうやってこいつを負かすか。  サキとレンが無言で考えている間、タカトオは涼しい顔ですべての料理を食べ終えた。

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