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第52話 【2年前】(29)
鋭い光に、サキは目を覚ました。
バルコニーに面したガラス戸は木の板で封鎖されているが、その細い隙間から突き刺さるような朝の光が入りこみ、顔を直撃していた。
一夜明け、体の痛みはひどくなっている。いたるところが、心臓の鼓動に合わせてズキン、ズキンと突き刺されたように痛む。頬も口の中も、動かそうと思うだけで飛び上がるほどだった。頭痛も残っていて、頭を動かしただけで部屋が回る。やっとのことで顔の向きを変え、光から逃げただけで疲れ切ってしまったサキは、ぐったりとマットレスに沈みこんだ。
自分が一晩中痛みと悪夢にうなされていたのは、おぼろげに覚えている。眠ったという感覚はほとんどなく、手を上げるのさえ一仕事だ。首といえば、皮膚がひりつくだけでなく、首輪の段差のせいで寝違えたような痛みがあった。しかも部屋が蒸し暑くて、黙って寝ていると、マットレスに接している部分が耐えられない。動けば痛い。動かなければ痛い上に暑い。
トイレに行きたいのだが、立ち上がることを考えただけで気が滅入る。
どうするか……。そう考えながら、サキはさっきから首の下でゴロゴロしているものを、悪戦苦闘しながら引っ張り出した。ぬるくなった保冷剤だった。
レンが持ってきてくれたのか。
視線を動かす。部屋は薄暗かった。レンは少し離れた壁に寄り掛かり、体育座りに顔を埋めて眠っている。
こっちへ来てマットレスを使えばいいのに、律儀に遠慮して硬い床で寝たのか。
どうせなら、レンに触れながら寝たかった。きっともう少し穏やかに眠れたろうに。同じ部屋にいながら、こんなに遠い。
サキは溜息をついた。これじゃお互いに体力が削られる。
タカトオが切った期限は一週間。エトウがブチ切れて救出チームを送り込んでくるのは、その直前とサキは踏んでいた。それまでに必要な情報を集めて脱出するか。それともエトウが行動を起こした時に乗じて脱出するか。
あいつには悪いことをしてるな。
高校からの腐れ縁で、エトウは割を食ってばかりだとサキは思った。今回も、何も言わずにふらりとタカトオの懐に飛び込んだサキに、エトウは怒っているに違いない。自分なりの計画があるにはあったが、それは成功するかどうか、不確定要素が多すぎてエトウにさえ話していなかった。
なんにせよ、どうにか体力を温存して、やるべきことをやって脱出すべきだ。
とにかくまずトイレに行かないと、物事は始まらない。
鉛のような体をやっとのことで持ち上げ、サキは這うようにマットレスを降りた。レンがはっと顔を上げる。
「サキさん。どうしたんですか」
「あ~、いや、トイレに行こうかと……」
レンは真面目な顔でサキの方へやってきた。一生懸命サキの体を支えて立たせ、手伝ってくれる。
苦労して用を済ませると、2人はくたくたになった。部屋は暑いし、ろくに寝ていない。エアコンは動くかどうか。賭けのような気分で本体の小さなボタンを押してみたが、やはり全くダメだった。
仕方なく薬を飲んで、再び横になる。荒い息のまま、朦朧と壁を見る。うつらうつら眠る。それでも、レンが何度か保冷剤を取り替えてくれると、サキはほんの少しずつ楽になった。
サキがくたばっている間、レンは部屋を出入りしては細々した物を運び込み、ついには見張りのひとりを引き連れ、サーキュレーターを持って戻ってきた。
微睡みながら、サキはレンが見張りと話すのを聞く。
レンの声には不思議な魅力があった。穏やかなイントネーションが心地いい。聞いているうちに、サキはあることに気づいた。レンには人を自然に従わせる能力がある。目をつぶったまま、サキは会話を聞くのに集中した。
「そう、この木の板の、ここだけをちょっと割ると窓が開けられると思うんです。どうでしょう。狭い隙間なら、オレたちは逃げられないでしょう? 暑くて体力がなくなって、この人に何かあれば、タカトオさんも怒るんじゃないかと思って」
「でも……あんた方には手を貸すなって言われてる」
「手を貸すんじゃなくて、人質が死なないように、最低限のことをするだけですよ。オレも、あなたのことは何も話しませんし」
「そう……か? う~ん」
「それに、玄関のドアを開けていれば、逃げようとした時にすぐバレちゃう。あなた方は仕事がしやすいと思います。ここに隙間を作って戸をちょっと開ける代わりに、ドアを開けて中を見えやすくする。それだけです。どっちかっていうと、あなたに有利な話でしょう?」
大した内容ではなくても、その声はサキを落ち着かせた。相手の見張りはレンの言う通りにすることにしたらしい。木の板がミシミシ鳴り、やがて一部が割れる音がした。
「ありがとうございます」
鍵が開けられる音、カラカラと引き戸が動く音がして、さぁっと風が吹き込んだ。レンはサーキュレーターをゴトゴト動かしていたが、やがてスイッチが入れられ、低い機械音と共にサキの周囲の気温が下がった。
「助かりました。本当に、ありがとうございます」
おそらく、レンはにっこり笑って見せたのだろう。相手がもごもご言うのが聞こえる。
「まぁ……また何かあったら言えよ。できることだったら、ちょっとしてやってもいい」
「えぇ。あなた、いい人なんですね」
無言のまま相手は部屋を出ていき、レンの溜息が聞こえる。
サキは目を開き、レンを伺った。板の隙間から、レンは外を見ている。髪が微かに揺れ、真剣な眼差しに影を落とす。
「ここは……5階。バルコニー……」
小さな呟きを聞き、サキは微笑んだ。
レンは脱出を考えている。この状況下にあって、ひたすらに考えているのだ。自分だって頭に怪我をしているのに、やる気をなくしていない。
「まずは休め。ろくに眠っていないだろう? 怪我の状態はどうなんだ?」
見開かれた目がこちらを向いた。
「オレの怪我は……大したことありません。起きてたんですか?」
「あぁ。涼しくなったな。助かった。敵に自分の要求を通すなんて、すごくないか?」
「どうでしょう。せいぜい、扇風機を調達するぐらいしかできない」
サキはそろそろと身を起こした。マットレスから離れた肌を風が撫で、頭がすっきりする。
壁に寄りかかり、天井を見上げる。
「おそらく、お前には人を束ねる力がある。相手の感情や願望を読み取り、それを上手く利用して自分の目的に協力させる。自分の能力を自覚して使えば……」
「そんな能力、オレにはありません」
突然、レンは強い調子で言った。
「他人を操る力なんていらない」
驚いて目をやると、レンはぎゅっと口を引き結び、じっと外を見ている。挑むような、きつい抵抗の眼差しだった。
「人を自分の思い通りにするなんて、クズのやることだ。オレはそんな力は継いでない」
「継ぐ?」
はっとした顔をすると、レンはガラス戸から離れた。
「なんでもありません。何か食べますか?」
思い詰めた顔を隠すようにレンは身を翻し、大股で部屋を横切ってキッチンへ姿を消した。
引っかかる。
サキは部屋の角に身を預け、目をつぶった。幸いにして、考え事をする時間はある。レンが隠しているものを見つける時間も。
あとは体力だな。
水の音、鍋を火にかける音。
むきになったようにキッチンでレンが立てる音を聞きながら、サキはもう何度目になるかわからない浅い眠りに、自分から脳を落とした。
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