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第58話 【2年前】(35)

「……暑いな」 「暑いですね」  夢中でキスにふけっているうち、部屋は我慢できないほど気温が上がっていた。熱中症になりそうだ。  サーキュレーターを動かしてはいるが、やはりドアを開けないと風通しが悪い。名残惜しそうに体を離すと、サキは溜息をついた。 「汗臭くて、嫌われそうだ。だんだんそっちが気になって、集中できない」 「オレも同じですから、別にそんなことで嫌いになんかなりませんよ」  ドアを開けに行くか。でもそうすると2人きりの空間はなくなってしまう。かたんと音がなり、見張りの目がちろりと覗く。そもそも監視カメラを忘れていた。キスだけならまぁ、見られてもこの際あきらめるが……。タカトオの御意向にも沿っていることだし? 「一緒にシャワーでも浴びるか?」 「あ~、いいかも」  目元を微かに染めて、レンが答えた。長いキスのせいで唇の赤みが増している。サキは思わず生唾を呑み込んだ。頭の中で手近にあるものを思い浮かべ、盛大にがっかりする。今ここに、レンを傷つけずに抱く方法はない。  早いとこ2人でここをトンズラしないと、俺がもたないな。  気の緩んだことを考えていると、レンがサキの肩にとんと顔を預けた。唇をほとんど動かさず、サキにしか聞こえない低い声で、ぼそぼそと話し始める。 「……ここは5階で、エレベーターは稼働していません。夕べ使った階段がメインで、オレが動ける中で一番入口に近いのは、2階の201号室、支援物資の集積場所です。建物はアスファルトと土に囲まれていて植物はなし、飛び降りるのはちょっとリスクが多すぎる」  考えていることは同じらしい。 「警備は?」 「階段は専属の見張りを通さないと行き来できないようになっています。人員は各階ごとの通路に死角がないように位置取りされている。通路は見通しがいいけど、逆に視界が遮られることはないわけですよね。しかも射程の長いアサルトライフルで武装した人員が揃っているので、走り抜けるのは、多分不可能かな。監視カメラは各階に5台程度設置されています。  建物の外は、見える限り数メートルおきに人員がいる。こっちもアサルトライフルで武装してます。周囲30メートルに渡って同じ高さの建物は取り壊されているようでした。建物伝いに逃げることができないようにされてる」 「ふ~ん。それなりに考えてるのか」 「サキさん」 「薫でいい」 「薫さん、今どのぐらい動けます?」 「短時間ならまぁ普通に動けると思う」  レンは考え込んでいる。 「とりあえず……武器庫はおそらく202号室だと思います。あと、バルコニー側がよくわからない」 「まぁ俺なら部屋ごとの仕切りを外してバルコニーの見通しを良くするだろうな。その上で見張りと監視カメラを配置する。この階だけでもその処理をしているはずだ」  レンはちらりと天井に張り巡らされたロープを見た。全部繋げば……地面にギリギリ到達できる長さになるが、そのためにはまずロープを外して繋ぐ時間を稼がなければならない。ドアの小窓から、なんやかんや15分おきに覗かれているのはわかっている。監視カメラはキッチンとトイレ、浴室には見当たらなかったのだが、油断はできない。  ふと、2人は同時に外の音に気づいた。誰かが怒鳴っている。レンの体が強張った。 「来たな」  サキが呟いた時、玄関ドアが勢いよく開けられた。靴を履いたまま、タカトオがずかずかと入ってくる。廊下を真っ直ぐ進んできたタカトオは、部屋の真ん中で腕を組み、2人を睨み下ろした。 「夕べのディナーの後、カトラリーが足りないことに部下の料理人が気づいた。ナイフとフォークが一組足りないそうだ。気づいた者は私の不興を恐れて黙っていたが、つい先ほど意を決して報告に来た。どちらだ」  レンが感嘆に目を輝かせてサキを見た。ニヤリと笑いながら、サキが答える。 「気軽に報告もできない雰囲気の組織か。暴君はいずれ自滅するっていうのがよくわかる事例だな」 「ほざけ。2人とも立て。捜索しろ」  高遠には部下がぞろぞろついてきていた。すぐ後ろに控えているのは、夕べの食事の時に来た男だ。そいつが他の部下に指示を出し、全員が手分けして中を調べ始める。数人がマットレスを動かし、さらに数人がサキとレンのボディチェックを行う。2人はおとなしく両手を挙げた。 「見事だな。薫。本当に抜け目がない。そのまま私を刺しておけばよかったものを。後悔するぞ」 「どうかな。あそこでお前を刺すにはテーブルが邪魔だった。一発で殺さないと撃ち返される。お前はそれを狙っていたかもしれないけどな」 「ふん。本当に抜け目がない」  キッチンを捜索していた部下が顔を突き出した。 「フォークがありました」 「どこにあった」 「冷蔵庫下、蒸発トレイの中です」 「ナイフは?」 「まだ見つかりません」  タカトオは、目を細めて2人の細かい仕草を観察する。 「ナイフをどこに隠した」 「探せないのか。怜の視線を辿ろうとしても無駄だ。教えていないからな」 「ではお前の気配を辿るだけだ」  じっと睨み合う。数秒、数十秒。  先に目を逸らしたのはタカトオの方だった。 「まだ見つからないのか」  部下を怒鳴りつけ、タカトオは部屋の中をうろつき始めた。細かい目元の動きや視線を読まれてはならない。タカトオは自分が動き回ることでサキの反応を見ようとしている。場所を覚えていないという自己暗示を続けながら、サキは目を伏せた。高遠の右腕らしき男も、氷のような目でこちらを見ている。  タカトオがゆっくりとサキの周囲を歩く。後ろに回る。来るな、と思った時、背中を蹴られた。  咄嗟に受身を取って床に転がる。タカトオは無言のままサキを蹴り、胸倉を掴んで殴った。反動で頭をしたたかに床にぶつけ、サキは呻いた。 「ほんっと、意識高いふりする割に、やることが洗練されてないんだよな……」  そう言ってやると、タカトオがもう一度蹴る。 「お前も、もう少し本気で物事に取り組むべきだと思うがな。本懐を遂げずに逃げ出すつもりか」 「お前のために使う時間なんかもったいないって昨日言ったよな?」  歯ぎしりと共に、タカトオはサキの体をまたいで部屋の入口に向かう。奴が振り返った瞬間、サキは自己暗示を解いた。タカトオがサキを怪しまずナイフの場所を知るように。  引っかかった!  タカトオはニヤニヤ笑って玄関ドアに向かう。ぐるりと見渡したタカトオは、壁一面を占める靴の収納棚と、天井との隙間に手を差し込んだ。 「ここか」  ステーキ用の、先端がするどく刃がギザついたナイフが、埃の積もった隙間から引き出され、電気の灯りを反射した。 「まったく、こんなものを隠し通せると思ったか? お前はもう少し頭がいいはずだ。薫。しかも私に場所がバレるようなヘマをするとはな。殴った甲斐があった」  タカトオはリビングに戻ると、サキの首輪に手をかけた。天井から下がる鎖を引き、もう一度サキをつなぐ。 「まったく。私の部下はお前のもてなしもわかっていない。お前を繋いでおかなければ、いつ寝首をかかれるかわかったもんじゃないからな」 「お前は自分をよくわかってるじゃないか。俺とひとつ屋根の下じゃ、安眠できないほど気が小さいって部下に教えてやれ」  再び力一杯サキの腹を蹴り、タカトオは鎖を持ってサキの顔を持ち上げた。 「くだらない軽口を叩いている暇があったら、本気で私を殺しに来い。お前がこんなにくだらない人間になっているとは思わなかったぞ。薫」  サキの体を放り出すと、タカトオはレンを見た。 「一緒に来い。私の昼食の給仕をしろ」  レンはタカトオを睨み、一歩も動かなかった。 「聞こえたか。来いと言っている」 「行かない」  あっという間にタカトオが銃を抜き、転がったサキの顔のすぐ前の床を撃った。轟音と共に、フローリングに穴が開き煙が上がる。 「2人とも、私の堪忍袋の緒が切れる前に、ここでの身の処し方を覚えろ」  レンがちらりとサキを見る。信頼の目を確認すると、レンはしぶしぶ動き始めた。 「薫の意向を確認する犬になってきたか。いいことだ。少しはおとなしくなるかもしれん」  ずかずかと部屋を出ていくタカトオの後ろを、レンは緊張した背中でついていく。部下たちが続き、ドアはサキの視界を遮って閉じられた。

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