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第61話 【2年前】(38)

 しばらくして、朦朧としたレンの前に誰かが屈みこんだ。 「とりあえず止血した方がいいんじゃないか?」  監禁部屋のガラス戸を開けられるようにしてくれた人だった。他にも数人が、心配そうな顔で何事かを話し合っている。さらに後ろから別な者が現れた。救急箱を持っている。 「何もしないから。な? そのままにしておくと、大変なことになる」  ひとりが、威嚇する野良猫を相手にするように手を差し伸べてきた。 「止血するだけだから、な?」  頭がグラグラする。気持ちが悪くて、まっすぐ座っていられなくなっていた。出血している右手を取られると、レンはバランスを崩し、横倒しになった。全員が焦る。体を支えられ、レンはその場に横たえられた。 「若いのになぁ」  可哀想に、という声がした。 「医務室に運ぶ前に、ここで止血しちゃった方がいいんじゃないか?」 「いや、こんなとこじゃ処置しにくいだろ、タオルか何かで押さえて運んだ方が」 「傷の状態見えるか?」 「だいぶ深いな。おい、山本さん呼んでこい。多分縫った方がいい」  わやわやと話し合う声が、水の中で聞く音のように籠っていた。もわんもわんとした音に包まれ、気が遠くなる。 「ダイジョウブカ? オイ」  言葉は意味を成さない音の羅列となり、レンは虚ろな目を開いたまま、周囲から意識を遮断した。  目を覚ますと、そこは医務室のようだった。マンションの一室ではあるのだが、白く清潔なベッドにレンは寝かされ、そばには見知らぬ男が座っている。 「お、目ぇ覚めたか」  ぼんやりと男の顔を眺めて、レンは目を閉じた。世界がぐるぐる回っている。その感覚をしばらくやり過ごしてから、もう一度目を開ける。 「なんか飲むか?」  レンは無言のまま、のろのろ起き上がった。男がスポーツドリンクのペットボトルを渡してくれる。右手を差し出すと、小指の下、手の平の脇が引き攣るように痛んだ。  見ると、白いパッドが物々しく貼られている。 「あんまり動かさない方がいい。ちゃんと処置はしておいた。神経とかも大丈夫だからね」 「ありがとう……ございます」  頭が動かない。何を誰に言われたんだっけ。何をしていたのか、記憶が曖昧だった。帰らないといけないような気がする。どこに帰るんだっけ……。 「無茶はするなよ。食い物は、後で誰かが持っていってやるって言ってた」 「はい……」  ぼけっとしているレンの顔を、男はのぞきこんだ。手をひらひらさせる。 「大丈夫か? 自分で歩けるようになるまで、寝ていっていい。無理に動くな。ほら」  寝ていっていい、と言われた途端、レンは自分が眠いということに気づいた。何もかも忘れて眠った方がいい。  促されるままにもぞもぞと布団に潜り込み、レンは目をつぶった。眠らなくちゃ。そうしたら、晩ご飯の時間になる。ばあちゃんちに行くまで寝よう。ていうか、眠くて他のことはどうでもいい。  幼子のように丸まって眠ってしまったレンのために、男はカーテンを閉め、暗く静かな空間を作ってやった。  眠ってしまえば大丈夫。だが数時間後、再び目覚め体が歩ける状態になっても心はうまく動かなかった。医務室の男が心配そうに見送るのさえ気づかず、レンは本能だけで5階への階段をよろよろ上がった。

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