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第60話 【2年前】(37)
最上階のタカトオの部屋は、相変わらず異常なほど清潔で、ぴしりと整理されていた。
「座れ」
広いリビングのソファーを指差され、レンは隅っこにできるだけ浅く座った。タカトオはCDを物色し、重厚なオーケストラの曲を小さな音でかけ始めた。
「ブラームスだ。覚えておけ」
知るか。
レンは横を向いた。サキに初めて会った夜、あの時雑然とした事務室で、サキも音楽をかけた。優しい女性の歌声だった。遠く遥かに希望が見える。そんな雰囲気の曲だった。
帰りたい。
下に行って何か食べ物をもらって、薫さんの顔が見える所に帰らなくちゃ。
ソファーの反対側にタカトオが座り、革が沈む。逃げ出したくて、レンは肘掛を強く握った。
「それで? 少しは進展したのか」
「進展って……何がだ」
「会話をもたつかせるな。薫を陥落させて情報を収集する。その目的のために、お前の拘束を解いてあの部屋に置いているんだ。間違っても、奴に愛されるなどとは考えるべきではないな。私がお前を抑圧していると薫は考え、逆にお前を甘やかし陥落させて自分の思い通りに使うつもりだ」
「自分と同じことを他の人間もやると思ってるんだな」
真っすぐ前を見たまま言うと、タカトオが鼻で笑った。
「言うようになったな。考えてみろ。ここへ来て2人で監禁されるようになった途端、奴はお前に優しくなったのではないか? 薫は薫で、私に関する情報、部屋の外の情報を収集するという目的がある。お前が好む方法、甘ったるい雰囲気で奴は私と同じことをやっているだけだ」
「黙れ」
「嘘だと思うなら、奴の経歴を聞いてみろ。あれは日本で最高峰の教育を受け、終戦と同時に『政府』の立ち上げに参加したひとりだ」
それは聞いたことがなかった。
「だが『政府』内の派閥争いに嫌気が差し、奴は江藤とともに野に下り、自分独自のグループを立ち上げた。今回、私と奴との間で決着がつけば、奴は『政府』をも手中に収めるために行動を起こすだろう。わかるか、怜。薫がやっていることは私と大差ない。むしろ私を倒すことは、奴にとっては国家の中枢を手に入れるための、大きな作戦の最初のひとつでしかない」
「黙れよ」
「反論できないか? そうだな、大局的に物事も見られず、のほほんと寝るしか能のないお前には理解できない世界を、薫は生きている。私を倒すまで、奴はお前を大切にするだろう。決着がついたらどうするか、奴に聞いてみろ。お前が思い通りにならなければ、奴は説得にかかるぞ」
「黙れったら!!」
怒鳴り声にも、タカトオは動じなかった。甘ったるく響く低い声。まるで小さい子に言いきかせるような優しい声音。レンが自分で物事を判断できないことを憐れみ、正しいことを教え込むようにタカトオは話す。
「もしお前が薫に銃を向けたら、奴は何と言うだろうな。『愛している』とか、そういう陳腐な使い捨ての言葉を口にするだろう。その場限りの演技や嘘が天才的に上手い男だ。怜。頭が悪くて単純なお前を言いくるめることぐらい、薫には簡単なことなんだよ」
手が震え始めた。右手をギュッと拳に握り、左手でそれを押さえ込む。視界が狭くなり、呼吸が不規則になっていた。
そんなレンの様子を、タカトオは満足そうに眺めている。
「また水を飲みたいかね? お前は昔から、耳に痛いことを言われると水以外を口にせず、自室にこもっていた。まったく成長していないな。本当に……仕方のない子だ。あんな保守的な田舎では、ひとりで生きていくことなどできなかっただろう。今お前がこうして生きているのは、私が仕事を与え、居場所を与えてやっているからだということぐらいは、覚えておいた方がいい。どれほど知能が低くても、育ててもらった恩ぐらいは忘れずに生きるべきだと私は思うがね」
耐えきれなかった。
「あんたが! 母さんとばあちゃんを殺さなければ、オ、オレは」
「おや? あの役立たずでお前の人生を意味のないものにしようと甘やかしていた連中が恋しいのか? 独り立ちができない子供はこれだから困る。私が殺したわけでもないのに、そうして私のせいにして、懐かしむのか」
爆発しそうだった。ここに銃があればいいのに。そうすれば今すぐこいつの頭をブチ抜ける!
「それに、何か言う時には途中で止めずにきちんとした文で言いなさい。自分の考えをどもるなんて、レベルが低いな」
ガシャァン!という壮絶な音がリビングに響いた。自分の拳が、目の前にあったガラスのテーブルを砕いている。血がぽたぽたと滴り落ち、絨毯を汚していた。ガラスの破片が日の光に輝き、レンの目を射た。
「ほらそれだ。自分の癇癪を抑えられない幼稚な精神では困るな。きちんと自分で後始末をしなさい」
無言のまま、レンは死に物狂いでリビングを横切り、玄関に向かった。ぽたん、ぽたんと血が落ち、フローリングに点々と赤い染みを残す。
後ろを振り返らず、レンは玄関で靴を引っ掛け、そのまま通路に出た。部下たちが黙ってレンを見送る。
こめかみが、心臓の鼓動に合わせてガンガン鳴っていた。周囲がほとんど見えない。靴の裏の硬い感覚だけが、突き刺さるように体に響く。誰かが声をかけてきたけれど、何を言っているのかわからない。血が滴り続ける右手を不意に触られ、レンは反射的に振り払った。通路の壁に鮮血が飛び散る。
すべてに構わず、レンは階段を下りていった。
オレに話しかけるな! 黙れ、黙れ黙れ黙れ!! うるさい、うるさい! うるさい!!
目が据わったままレンは歩いていく。5階の通路の端までずんずん行くと、それ以上どこにも行けず座り込む。膝を抱え込み、貧乏ゆすりのように揺れながら、レンはじっと宙を睨んでブツブツ何事かを呟き続けた。
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