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第79話★【2年前】(56)
「薫さんの目って……」
とろんとした眼差しで、レンはサキの目を覗き込んでいた。両手でチューハイの缶を持ち、小首を傾げて座っている。
酒に強いんじゃなかったのか?
ビールを一口飲み、頬杖をついてサキはレンを見返した。 誰と飲んでも酔わなかったとレンは言った。少し足元がおぼつかなくなる程度で、ふわふわするとか、いい気分になるとか、そういうのは今まで一回もなかったんだよね。
本人の申告はどこへやら。ほんのり染まった顔で、レンはふにゃふにゃ笑っていた。リラックスしきっている。
「俺の目?」
「うん。あのね……薫さんの目って、鯨みたい」
「鯨」
そう、と呟くと、レンはつまみにしていたチーズ鱈を一本咥えた。柔らかそうな唇がもこもこ動く。
「子供の頃に、テレビで見たんだ。なんか、不思議な目だった。世界のことを全部知ってるような深い紺色なのに、すごく眠そうだった。ちょっと怖くて、でもなんとなく優しくて」
チーズ鱈をもう一本つまみあげ、レンはそれをぷらぷら振る。
「けっこうのんびりしてるの」
「そうか? 俺は自分が鯨っぽいと思ったことはないな……むしろ、鯨は怖いものっていうイメージがあって……この間読んだ小説の影響かもしれない」
「鯨の話があるの?」
ビールを飲み、サキもチーズ鱈に手を伸ばす。
「あぁ……凶暴な白い鯨がいるんだ。ある船長が、昔足を食われて、復讐するためにずっとその白い鯨を探し続ける。たくさん人を雇って、捕鯨の仕事をしながら」
「海って広くない?」
「そうだな……他の船に時々会うけど、基本的にはその船だけでずっと海の上をあちこち動いてる。最後に白い鯨を見つけるんだが、復讐どころか逆に小舟も本船もブチ壊されて、皆死ぬ」
「ふ~ん」
「ひとりだけ生き残るんだ。物語はその男が話してくれる。最初に、その男は言うんだ……オレのことはイシュマエルと呼んでくれ」
「イシュ?」
サキはデスクの上のつまみ類をどけ、ホテルのメモ帳にボールペンで書いた。
「イシュマエル、だ。アメリカの古い話だ。有名だったけど……今の日本で読んだことがある奴は多分、あんまりいない」
「変な名前」
サキは微笑んだ。
「あぁ。そうだな。でも……たったひとり、船長の復讐に巻き込まれずに生き残った奴の名前だ。船が沈んでも、浮きにした棺桶にしがみついて、こいつだけは生きていく」
レンはメモ帳をじっと見て、口の中でゆっくりと名前を繰り返した。イシュマエル。
この世界で、誰が純粋なのだろう。復讐を誓う者か、それを底意地の悪い目で待ち受ける者か。そうだ。海に潜む存在は、それ自身の論理では純粋なのだ。
運命を決することに、サキは特に感慨を持ってはいなかった。ただ、もし自分が破れたなら、もうレンの目を見ることはできない。それだけがサキをこの世界に繋ぎとめる錨になるだろう。
だから願わくは。怜。お前だけは、何があっても生き延びてくれ。
サキに応えるように、レンが笑う。誰かと飲んでも酔わないと言っていたくせに、自分と一緒のこの時間、レンは酔いに潤んだ瞳でサキを見つめる。
湖に射し込む光だと思っていたが、海かもしれない。以前は動きの少ない湖だと思っていたが、彼自身を知るにつれ印象は変わった。深いうねりを隠して穏やかにたゆたう波の中、レンの目は──そういえばイルカに似ている。
「お前、酔わないって言ってなかったか?」
「うん、酔ったことなかった。でも薫さんと一緒だと、楽しくなっちゃった」
へろりと笑い、レンはこてんとサキの肩に顔を預ける。
「あのね。秘密なの」
「何が?」
「薫さんと初めてシた時のこと」
話が飛び、サキはレンが続けるのを待った。。
「うん?」
「たまり場で、みんなでお酒飲んだの。でも途中で眠くなって、自分の部屋に帰ったの。そしたら……すごく薫さんとシたくてたまらなくなって」
「あ~、うん」
そう、最初の夜、アルコールの匂いには気づいていた。解放された精神だけが見せる強烈な誘惑。サキが抗えなかった相手は、今まで生きてきてレンだけだったのだが、レンもまた、ふとひとりになった時に、寄りかかる相手にサキを選んだ。
肩を抱き寄せ、手のひらで体温を感じ取る。昼間つながった時の熱を思い出し、サキはレンの耳に唇を近づけて囁いた。
「なぁ……ベッドに、行かないか?」
掠れた声に、レンが顔を上げた。はんなりとした笑みを浮かべ、レンはサキの首に両手を回す。2人の顔が自然に近づき、唇が触れ合う。眠くなるほど、温かい。サキはそのままレンを横抱きにして立ち上がった。落ちないようにレンが首にしがみつく。くすくす笑いながら首に口づけようとするレンを運びベッドに横たえると、サキは深くレンを味わった。
安心する。それは不思議な感覚だ。体から余計な力が抜けると、文字通り息が楽になる。ひとりでいるより、さらに心が緩む。レンの温かい体に手の平を当て、その鼓動を感じ取る。微かに汗ばんだ肌はしっとりと柔らかい。すべらかな首を唇でたどると、レンは深い溜息をついた。
酒もいいかもしれない。
明かりをつけたままなのに、レンはリラックスしていた。恥じらう姿もいいが、こうして信頼しきってくれているのも、堪らなくいい。
服を脱がせるのさえも楽しかった。酒のせいで潤んだ瞳が、サキを見上げて灯りに煌めく。Tシャツを引き上げると、レンは首を抜いただけで体の力を抜いてしまった。頭の上で両手首にTシャツをひっかけたまま、へろりと笑う。
サキは自分のTシャツを脱ぎ捨てると、レンの腕の輪郭を手の平でたどった。柔らかく白い肌の下にはちゃんと必要な筋肉がついている。骨格はサキより華奢だが、青年らしい瑞々しい体だった。
昼間あきらめたことを、今度はできるかもしれない。
サキはレンの太腿を撫で、肩に口づけながらその体を横向きにさせた。
思った通り、リラックスしたレンはされるがままだ。上がったままの両腕をなぞり、Tシャツを引き抜いてやると、サキはさらにレンの体を返してうつぶせにさせた。
「怜」
驚かせたり怯えさせたりしないように、サキは柔らかくレンの耳に名前を囁く。顔が見えなくても不安にならないよう、腕を回して胸をレンの背中に密着させる。
目をつぶったまま、レンはうっとりした顔になった。
「あぁ……怜」
部屋の明かりに、レンのうなじが浮かんでいる。少し日に焼けた、健康的な色気を漂わせるうなじに、サキは口づけた。レンが呻きを漏らす。
たまらなかった。
鼻をすりつけてレンの匂いを吸い込み、気がすむまでキスをする。濡れた音に、レンの喘ぎが重なって聞こえる。
「かおるさん」
か細い声が愛しい。このうなじに顔をうずめたまま抱きたい。
ヘッドボードに手を伸ばすと、サキは手早くゴムをつけ、ローションを自分の屹立に塗り付けた。レンに拒絶されたくない。昼間風呂に入った時から、いやもっと前、図書館の隅で本を読むレンを見た時から、どうしてもやりたかった。
うなじに唇をつけたまま、サキは深くレンに押し入った。満足の吐息を吐き出し、レンが腰を浮かせる。
思った通り、昼の交わりをレンの体は覚えていて、その奥はぬるりとサキの形を包んだ。熱く潤う場所で、ゆっくりと腰を動かす。悩ましげな呻きを漏らして、レンの指がシーツを掴む。
海の底みたいだ。
暖かい水の中、ひとつにつながった体が揺れる。奥深い場所で互いの欲望をかき混ぜる。
「怜」
何度も名前を呼びながら腰を引き寄せる。四つん這いのレンを後ろから包みこみ、そのうなじを堪能する。軽く歯を立てると、レンの奥がひときわ深くサキを呑んだ。引いて、挿れる。うなじに口づけるたびにレンの背が震えながら反りかえる。
「あ……」
切羽詰まった息を漏らし、レンが目を開く。朦朧と霞んだ眼差しはサイドテーブルの本に向けられている。
ゆるやかな抽挿を繰り返しながら、サキはレンの手の甲に自分の手を重ね、指を絡ませた。ひたりと重なる肌が溶け合い、サキもまたぼんやりと同じ方向を見る。
どうして『韓非子』なんか買ったんだっけ? そうだ、古い岩波文庫があって……。
今、己の存在の芯はレンの体の奥にある。どんな本よりもリアルな熱に溺れ、我を忘れるほど甘いうなじに唇を這わせるこの瞬間、言葉は意味を成さない。全身を包む感覚だけが世界を作り、足の爪先を震わせる。
「かおるさ……あ……すき……」
極まったレンが、サキを締め付ける。あぁだめだ。ずっと……ずっとレンの中にいたい。何もかも忘れて、サキは動き続ける。
感じる場所はすべて満たされ魂が潤う、その深い悦びでレンの奥底を穿つ。硬く、熱く。
ぶるりと腰が震え、白い感覚に太腿が震える。嫌だ、まだだ。まだ終わりたくない。まだ、レンとひとつでいたいのに。
絶頂が無情な核を作り始める。止められず、サキは腰を振る他ない。レンがもがく。切羽詰まったように喘ぎ、ベッドに沈み、レンは自分の欲望を必死でシーツにこすりつけている。
「ん、んぁあ!」
深く突き込むと、レンはあられもない嬌声をあげた。
もっとだ。もっと。その声を聞かせてくれ。サキはがつがつとレンの奥を抉る。レンにのしかかり、うなじに噛みつき、すべての体重をかけてレンをむさぼる。
「あぁ、あ……イ」
白い核があっという間に腹を支配する。痛いほどの収縮。絶頂が全身を駆け抜け、レンの奥で欲望が爆発する。重い精がほとばしり、薄いゴムと一緒にレンの中を叩く。悶絶するレンを見下ろし、サキはもう一度うなじに顔をうずめる。
どこにも行かないでくれ。ここにいてくれ。この場所に。この俺の腕の中に。
「あいしてるから」
小さな、すがるような囁きを残して、サキはレンの中に自分を埋めたまま、背負っているすべての重荷を放り出した。
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