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第94話 【2年前】(71)

 広いロビーを抜けようとして、レンはぎくりとした。  空間の暗い隅で人の気配がする。  そいつは闇から足を踏み出し、ゆっくりと正面ガラス扉の前へ移動した。浮かび上がるシルエットに、レンは立ちすくんだ。  父親が、立ちふさがるようにレンを見つめていた。 「どう……して」  タカトオは肩をすくめた。 「本丸に大将と宝が揃っているのに、なぜ敢えて別な方へ行く? 最初から、私はまっすぐにここへ来た。それだけだ」  涼しい顔で肩をすくめると、タカトオは手を出した。 「お前がその手に持っているのは統括ペンダントだろう? ……お前は本当にちっぽけだ。サキの思惑を読み切れないとは」  ペンダントを握りしめ、レンはタカトオを睨んだ。唇が勝手に震える。奴の言葉を聞くな。サキに言われたのを思い出したのに、レンはタカトオに聞かずにいられなかった。自分が何をしくじったのか、確認せずにいられなかった。 「思惑……って」 「薫は江藤と組み、自分の人望だけで南を統制していた。統括ペンダントなど、ただの象徴だ。ペンダントは所詮マスクを売るための許可証。もし他の者が持てば、そいつには勝手にマスクを売らせておく。実質的な支配を争った時に自分は勝てるという自信こそが、あの男の王としての権威を支えているのだ。しかも、もしペンダントが焼けても奴は『政府』にコネがある。再発行するよう働きかければいい。だから奴にペンダントは必要ない。ただひとり、私にそのペンダントが渡らなければ、奴はそれで『勝ち』なのだ。そんなことにも考えが至らないとは、本当に無能だな」  レンはペンダントを持った拳を自分の心臓に押しあてた。自分は……宿命的な裏切り者だ。必死で考えた結果がこれか? 手が震えていた。目の前にいる男がねっとりと笑いながら一歩踏み出す。思わず下がる。炎が建物を喰らう音が聞こえている。空気が熱い。吹き抜けの高い天井を炎が走り、剥がれたものが赤くパラパラと落ちてきている。 「『ボヘミアの醜聞』だよ。わざと火をつければ、お前は焦る。薫の役に立っていないという惨めな気分に駆られたお前は、私にペンダントの在り処を教えてくれるだろう。そう踏んだのは正解だった。見事に踊ったな。怜」  美しい顔がレンを見つめていた。偽りの愛情で微笑む男。猫撫で声で怜を蔑み、裏切りへの道を用意していた男。  呆然と立ち尽くすレンに、タカトオは近づいた。 「渡せ。それは私が持ってこそ意味がある」  レンは無言のままペンダントを握りしめ、身を翻した。これをタカトオに渡すわけにはいかない。失敗したなら、せめて火に投げ込め!  無情な腕が伸び、一瞬でレンは拘束された。片手で容赦なく首が絞められる。もう片方の手がレンの拳に爪を立てた。 「ペンダントを寄こせ」  殺される。ここで、こいつに。レンはめちゃくちゃに暴れた。殺されるのは別にいい。ペンダントだけは火に投げ込んでやる。  突然、ガラス扉の向こうに気配が現れた。はっとそちらを見る。憤怒の形相でサキがグロックを構えていた。 「どけ!」  サキは真っすぐにレンを見ている。ガラス越しに口の動きを読み、咄嗟に倒れこんだ瞬間、サキはタカトオに向かってグロックを撃った。  強化ガラスのドアが微塵に砕けた。ガラスと銃弾がタカトオに降りかかる。転がって逃れるタカトオに、サキが飛びかかる。タカトオが蹴りを出した。グロックが吹っ飛ぶと同時にサキがタカトオの腹に飛び込む。  2人はもつれあったまま、ガツガツと殴り合った。  よろめきながら、レンはグロックを拾いに走った。これを薫さんに返さなきゃ。返さなきゃ!  振り向くと、タカトオはサキの顔面に拳を叩きこむところだった。サキは腕でそれをかわし、タカトオの腹を思い切り蹴った。タカトオの体が飛ぶ。入口そばの壁に激突し、タカトオはずるりと床に倒れ込んだ。 「薫さん!」 「怜、すぐ逃げろ。火が回る」 「オレ、ごめ……なさい」 「いいから逃げろ。俺にかまうな」 「ごめんなさい」 「謝る必要はない。逃げろ」  サキはじっとタカトオを睨んでいる。全身に緊張がみなぎり、タカトオの次の動きを伺っている。  タカトオの口がにぃぃと動いた。 「怜。わかっただろう?」  囁くような声。 「黙れ!」  サキの怒鳴り声が響く。公立マーケットに面した一階の壁から白い煙がもうもうと出ていた。もう広い正面玄関ロビーだけが残っている状態だ。タカトオが視線を上げ、サキとレンを見る。 「お前たち2人に真実を教えてやろうか」 「もう知ってる。お前は俺と怜とを引き合わせることで、この状況を作り出そうと罠を張った」  サキの言葉を、タカトオはせせら笑った。 「知っていて乗ったのか。それほどお前も怜に惹かれたか。……最初に怜を『政府』に売りつけた時、私は気付いた。怜は、ある種の男たちを強烈に惹きつける性質を持っている。『政府』の男はいとも簡単にペンダントを寄こし、怜の機嫌を取り始めた。その理由を私はしばらく考えた。そして思い至った。  この東京で、お前はどういうわけか、反吐が出るほど能天気で純粋なままだったのだ。私はその性質を潰すのではなく、それを利用して薫……お前を潰す計画を立てた。実験のために、ごほっ、さいたまに怜を送りこむと、その成果は見事なものだった。誰もが怜に触れたがる。惹きつけられ、守ろうと動く。素直で無垢な魂に、男どもはいとも簡単にひれ伏した。  そして薫。お前には弟がいた。無垢で守るべき存在。それを失ったお前は、弟のような存在に強烈な庇護欲を抱く」 「陽哉(はるや)と怜は違う!」 「はっ、たとえ自分で否定しても無駄だ。お前は怜を翼の中に包み、私から守ろうと考えた。それを期待して、私はお前の元に、何も指示しないまま怜を放り込んだ。案の定、お前たちは情を交わした。最初から、お前たちは私の手の平の上で踊っていた。……若いお前たちは、私が敷いたシーツの上でセックスをしていたんだ」  もう息をするのが難しい。サキが「ゲス野郎……」と呟いた。  タカトオは壁に背中をつけたまま、ずるずると立ち上がった。 「怜。こいつはお前を愛してるわけじゃない。弟のように守ろうとしているだけだ。この一件が終われば、こいつは東京の王として君臨する。薫の宿敵の息子であるお前は、役立たずのちっぽけな……こいつの死んだ弟以下の存在として、放り出されるだろう」  サキの目が動いた。 「怜、こいつの言葉を聞くな!」  恐ろしい目だった。その目に、レンは怯えた。無意識にペンダントを握りしめ、心臓に当てる。 「ごめ……なさい」 「謝らなくていい。怜、終わったらきちんと話し合おう」  タカトオがせせら笑う。 「怜。薫を見ろ。こいつは東京を手に入れれば『政府』をも支配下に入れる。話しただろう? こいつがいかに優秀か。お前もこいつの手腕を見たはずだ。お前とはケタ違いの能力を。この国の未来さえ左右するほどの男が、お前のために話し合う? 冗談にしか聞こえないな」 「黙れ!」  サキがタカトオの方へ振り向き、詰め寄った。タカトオの首に手をかけ、その目を睨む。 「黙れ。お前ごときが、俺と怜の間に入ることは許さない」 「ごほっ、キューピッドに向かって、……何て口をきく。怜の『味』はどうだった? とろけるようなセックスだったか? 何発出した?」  獣のような唸り声を上げて、サキはタカトオを再び床に叩きつけた。タカトオが待ちかまえていたように腰からナイフを抜き、サキの肩に突き立てる。それを一切払いもせず、サキはタカトオの顔をぶん殴った。  ゴツ、という、頬骨の折れる嫌な音。  タカトオは不気味な笑みを浮かべたまま、床に転がって動かなくなった。気絶したらしい。 「怜。とりあえず逃げよう。歩けるか」  返事ができなかった。レンはガタガタ震えながら、サキを見つめる。 「……け、決着がついたら、薫さんは」 「今は決着なんて考えずに外に出るんだ。な? ここは危険だ」  タカトオの囁き声がする。 (ほぅら……お前が言うことを聞かなければ……そいつは説得にかかるぞ) 「怜。俺の目を見ろ。奴の言葉に惑わされるな」  至るところで轟轟と炎が渦を巻く音がする。熱くて、息ができなくて、すべてを圧倒する恐怖が喉を締め上げている。 「か、かおるさ……」 (お前の無能さときたらどうだ? 何も知らないまま、お前は自分が惚れた相手を危険にさらす間抜けだ) 「な? 怜。ほら銃を寄こせ」 (撃ってみろ。銃を構えれば、そいつの目に真実が見える)  グラグラする頭で、レンはグロックを構えた。サキの目が見開かれる。 (さぁ、そいつはどんな目をしている? 次にはきっと言うぞ。お前を愛していると。その場限りの演技と嘘は天才的に上手い男だ。お前を言いくるめるぐらい簡単なんだよ) 「怜。怜。お前のその、天性の素直さは誰も持っていないものだ。お前じゃなきゃだめなんだ。怜。お前自身の価値を信じろ。俺もお前も、人はみんな同じ価値を持ってる。奴の言葉を聞くな。愛してる。だから奴の言葉に耳を傾けるな!」  必死の訴えに、レンは目をぎゅっとつぶった。タカトオの囁きが甘く耳元に響く。 (ほら言っただろう? 次は言うぞ。利用した私が悪いんだと) 「怜。お前がこの東京で善良なままいることこそ、俺には一番大事なことだ。悪いのは利用した高遠、お前の父親なんだ。だから」  グロックを構えたまま、レンはついに耐えられなくなった。悲鳴のような声が口からほとばしる。 「うるさい。うるさいうるさいうるさい! 違う。オレは、オレは!」  誰の声が何を言っている? 誰の声を聞けばいい。何を考えて、誰に何をすればいい?! 「怜。俺を見ろ、怜!」 (撃ってみろ。真実は命を賭けることでしか手に入らない)  ドォン!という爆発音と共に、マーケットの壁が崩れ落ちた。猛烈な炎が一気に襲い掛かってくる。  炎の真ん中で、レンは凍ったように動けなかった。爆発音と同時に、レン自身が暴発したのだ。グロックの先から細い煙が上がっていた。 「怜……」  痛みと、絶望と、どこまでも深くレンをえぐる哀しみの色を湛えて、サキはレンを見ていた。その胸に赤い色が広がっていく。がくりと膝をついたサキが、ゆっくりと手を伸ばす。最後までレンを求めた手は、やがてぱたりと落ち、そして──サキの体は床に沈んだ。  紅蓮の炎の中で、レンは銃を構えたまま、ただ、立っていた。  タカトオが近づいてくる。レンの手の下で揺れているペンダントを引きちぎり、歪んだ顔で嘲ると、タカトオはレンの肩をぽんと叩いた。 「お前は本当に、私の息子にふさわしい……愚かな子供だ」  ぼんやりと入口を見る。タカトオの気の抜けたような背中が、ガラスのなくなったドアを踏み越え黒い夜に消えた。  それを追うように、レンはふらふらと彷徨い出た。何ひとつ聞こえなかった。何も見えなかった。優しい囁きも、愛おしげに自分を見つめる瞳も。  知恵の城はレンを締め出し、闇の底にレンを放り出したまま焼け落ちた。

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